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「津久井やまゆり園事件」が問いかけるもの ――元職員の被告接見録にもとづく検証

裁判から何が見えるか(その3)

2016年7月に起こった「津久井やまゆり園事件」が問いかけるものはあまりに大きく重い。優生思想、「生産性」をめぐる議論など、われわれの社会を根底から揺さぶるこの事件の思想的課題について、被告との面会記録を踏まえて検証していく。


第15回 裁判から何が見えるか(その3)

1.自己演出の劇場型裁判

 障害者殺傷事件の裁判は2月19日に第16回の最終弁論を終え結審した。この事件の裁判では、植松聖被告の責任能力の有無と程度が争点であった。そして最終弁論では、被告は3つの問題を提起し、次のように締めくくった。「この裁判の本当の争点は、自分が意思疎通がとれなくなった時のことを考えることだと思います」。
 被告は、裁判の本当の争点は「自分が意思疎通がとれなくなった時のことを考えることだ」と締めくくっている。しかし、裁判の争点は、刑事責任能力の有無である。この点、大きな乖離がある。これをどう考えるべきなのか。確かに、誰しも意思疎通がとれなくなったり、重度の障害者になったりする可能性はもっている。しかし、この裁判の争点の前提は、責任能力の如何である。精神鑑定医の証言においても、この点が大きく分かれている。問題は、裁判が被告の主張を展開する場として利用されたということである。私は、被告のこの発言を聞いて自作自演の劇場型裁判だと感じた。第8回の公判の被告人質問においても『新日本秩序』と題する『獄中手記』に書かれた7項目を展開し、自論を繰り返していた。これは異例である。遺族や被害者からすれば「支離滅裂」という他はない。
 だが、こうした自己演出は裁判だけではない。事件そのものが、である。裁判を傍聴していて、被告は、友人や同級生、交際女性にも恵まれていたことはわかった。被告自身は、むしろ子供好きで、アルコールには弱いこともわかった。結婚し子供を育てることに生きがいを見出せれば、別の人生があったはずだ。いわゆる「非モテ」や、貧困や怨恨などといったものではないのだ。裁判では言及されなかったが、被告は優生思想もヘイトクライムも、ナチスドイツの「T4作戦」も知らなかった。公判中に「歌手や野球選手になれれば事件を起こさなかった」という趣旨の発言も見られたが、浅はかな知識での短絡的な犯行である。そもそも本人は、この事件の着想をどこに見出したのであろうか。それが元交際女性と一緒に観たDVD『テッド2』だ。第5回公判では、この元交際女性が証言台に立った。遮蔽板で仕切られているため、被告や傍聴人、遺族には見えないように配慮がされている。この女性は植松被告の両親公認の女性で、何度か被告の自宅に行ったこともある。事件前日に高級焼肉店をともに訪れた女性ではない。事件に及んだ動機や真相が充分解明されなかったのは、そもそも被告自身にその経緯や動機を語らせる自作自演の劇場型裁判という手法をとったからではないか。

2.元交際女性の証人尋問

 元交際女性は、2014年8月頃から被告と交際をはじめ、その冬に一度別れて、翌年の9月くらいに連絡をもらったのをきっかけに2015年の冬くらいから事件当時まで付き合っていた。別れた理由は「一緒にいる時間をつくりたい」と話したところ「友達と会う時間を削ってまで、お前と会うつもりはない」と言われたからだという。2度目の交際の時には障害者は、「生産性がない」「生きていても意味ない」「人間ではない」いうネガティヴな言葉が増えたという。当時はドナルド・トランプがアメリカ大統領選挙に立候補しており、「絶対、この人は大統領になる。一般的に社会的地位が高い人が話すことで、民衆は動く」と言っていた。イスラム国とか、フィリピンのドゥテルテ大統領のこともネットで調べていたという。また、イルミナティカードについてのエピソードもいろいろ話してくれたそうだ。以下のやりとりは、第5回公判からの抜粋である。

検察官:措置入院の前と変わらず、刑務所に入ることになるよとか、死刑になるよ、とか言いましたか?
元交際女性:はい、言いました。
Q:措置入院後は、それになんと言っていた?
A:世間一般の人がタブー視しているような重い障害者をやることで、自分が先駆者になるというか、もしかして、刑務所に入るかもしれないけど、すぐ出てこれると。
Q:どうして被告が「先駆者になる」といった、考えになったと思うか?
A:当時、アメリカのトランプ大統領など、一般的に過激と言われるような発言で賞賛されていたり注目されたりという世間の反応をみて、自分もその中に入りたい、実行者になりたい、という気持ちだったのではないかと思います。
Q:映画をみているときにそういった発言はあったか?
A:はい、あります。
Q:障害者に対して?
A:障害者、というより人権についてです。
Q:何の映画を見ているとき?
A:『テッド2』という映画をみているとき、世間知らず、と。
Q:それは、映画館でみたのか自宅でみたのか?
A:DVDを借りて、自宅で一緒にみました。
Q:どんな場面でどんなことを話していた?
A:話ができる熊の人形に対して人権や市民権を与えるかという裁判の場面がありました。
 テッドの弁護士が「人間性の基準とは何か。自己を認識できることだ。自己を認識できる証拠として、あなたの名前は?」と訊ねられ、聞かれた人形が名前を答え、人権が認められる場面です。その時に「これだ、俺が言いたかったのはこれだ!」と興奮して言っていました。
Q:どういった様子だったか?
A:私の肩をポンと叩き、目をきらきらさせて、合点がいっているような感じでした。
Q:それはいつ頃か?
A:措置入院の翌月。退院して、4月くらいと思います。

3.DVD『テッド2』に着想があった

 映画『テッド2』は、いのちを吹き込まれたテディベアに人権を与えるか否かをテーマにした作品である。テッドは「熊のぬいぐるみ」で、CG映像が使用されている。
 テッドは、タミ=リンという女性と結婚したが、人形であるため子供を儲けることができず、人間の精子提供者を探すことになる。タミ=リンは婦人科医から薬物濫用のため子供をつくれないと宣言され、養子縁組を考える。養子斡旋所に向かったが役所にテッドは人間ではなく「所有物」と言われ、スーパーの仕事を首にされ、銀行口座やクレジットカードも失効とされる。さらにはタミ=リンとの結婚も無効にされたのだ。身元調査の過程で、それまで人間同様に扱われていたテッドの法的人権が当局より否定されため、裁判に向けて動き出す。裁判では、テッドは胸にあるボタンで喋る「ぬいぐるみ」であり、「人権」はなく「所有物」であるとする判決が下る。「君の望みは法的な人間だ……人間というのは、社会貢献や国民の向上に役立つ必要がある。だが君はどうか」「テッド、君は特別だ。世界を変え、指導者や人々の模範になれたのに、今の君は……まわりの人間に悪い影響しか与えていない」。人権派の弁護士に弁護を頼むが断られる。テッドが人間ではなく物となれば罪に問えないので、玩具として量産して儲けようとする悪人まで現れる。
 ある時テッドは、誘拐され、危うく解体されそうになる。テッドは助けを呼び、友人がその身代り事故に遭い、意識不明で病院に運ばれる。友人は心肺停止に陥るが無事蘇生。医師と共謀してテッドらに死んだと思わせ、周囲を驚かす。そこにテレビに映し出されたテッドの涙に感動した人権派の弁護士が現れ、再び裁判に挑むことになる。

 人間の定義は何か、所有物とは何か、その違いは?/人類学者・倫理学者のドーン・ヒューズ(架空の人物――筆者)が人間性の基準は、自己認識と複合感情を理解する能力と/共感する力にあると主張/ご存じですね/テッドは自己を認識できる/名前は?/テッド・クラバー・ラング/複合感情と共感する力に関しては/映像をご覧のはず/倒れたジョンの隣で/テッドは泣いていた/あの映像でテッドは人間性の資質の全てを提示したのです/誰の目にも明らかだ/法廷は定義上それらに値する全ての者に基本的人権を与えなければならない/奴隷解放宣言のように/合衆国憲法修正第13条にあるように/陪審員の皆さん私が招待します/一緒に世界を変えよう/完全勝利ね/人間と認められた今、何か声明は?/あるよ/タミ=リン結婚して/はい/これで物語は終わり。テッドとタミは再び結婚ほどなくして男の子を養子に迎えた。

 植松被告は、『獄中手記』において人間の条件を「自己認識ができる」「複合感情が理解できる」「他人と共有することができる」としているが、これは『テッド2』に着想を得たことに間違いない。意思疎通がとれるか否か、「熊のぬいぐるみ」のテッドを人間として認めるか否かもこの作品のテーマである。そればかりではない。薬物濫用もベースにある。『テッド2』の結末ではテッドに人権が認められたが、被告は、意思疎通がとれないものには人権を与えてはいけないという。むしろ、安楽死・抹殺の対象とするべきだというのだ。しかし、テッドには感情と心があり人間と同じだということは被告自身も認めている。ではなぜ、殺害へと突き進んだのか。事件そのものを起こすことにより注目され、社会的に賞賛されることを望んだとみるべきではなかろうか。
 元交際女性は当時の被告の様子を次のように証言している。「一般的に過激と言われるような発言で賞賛されていたり注目されたりという世間の反応をみて、自分もその中に入りたい、実行者になりたい、という気持ちだった」。トランプ大統領への賞賛もそうだが、これは、まさに『テッド2』そのものである。事件は、そして裁判は、空想、妄想の世界から現実世界へとまるでタイムスリップしたかのようだ。ベースには大麻による快楽・恍惚感がある。
 拘置所にはジャーナリストや学者、弁護士、障害者団体など様々な人が面会に訪れている。「面会取材を受けることは事前から計画している」とも語っている。彼自身は、自分の主張をほとんど「一問一答形式」で応えており、これは裁判のリハーサルであったともいえる。事件発生から半年以降、被告はメディア各社に自分の主張や書画を送りつけている。メディアはこれを「身勝手な主張」として取り扱わなかったが相当程度送っており、面会では、「自分の主張は社会に伝わっている」と自信を見せていた。まさに自作自演の劇場型犯罪なのである。
 「裁判では本質的なことが審理されない」「責任能力のあるか否かを論じた裁判でしかない」「真実が解明しきれていない」などという批判があるが、被告は世間から注目される事件を起こし「意思疎通がとれなくなったらどうするのか」を広く社会に問いたかったのではないかと推測する。両親が証人として出廷しないのは様々な理由が考えられるが、出廷することが被告自身の自己演出型の裁判の妨げになるからではないか。だとすれば、裁判において、施設のあり方、支援のあり方などを問題にしないのも理解できる。責任能力の有無が争点なのだから。これは、あまりにも現実とは乖離し過ぎているのではないか。

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著者略歴

  1. 西角 純志

    1965年山口県生まれ。専修大学講師(社会思想史)。津久井やまゆり園には2001年~05年に勤務し、事件の犠牲者19人のうち7人の生活支援を担当した。被告とは、2017年9月以降、手紙のやりとりをし、これまで10回以上接見している。著書に『移動する理論――ルカーチの思想』(御茶の水書房、2011年)、『開けられたパンドラの箱』(共著、創出版、2018年)などがある。

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