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「津久井やまゆり園事件」が問いかけるもの ――元職員の被告接見録にもとづく検証

遺族訪問記

2016年7月に起こった「津久井やまゆり園事件」が問いかけるものはあまりに大きく重い。優生思想、「生産性」をめぐる議論など、われわれの社会を根底から揺さぶるこの事件の思想的課題について、被告との面会記録を踏まえて検証していく。


第4回 遺族訪問記

1. 追悼式

 2019年7月22日、津久井やまゆり園事件追悼式が開かれた。主催者は、神奈川県・相模原市・かながわ共同会である。追悼式は、事件翌年の2017年から毎年相模女子大学グリーンホールで開催されている。追悼式には、神奈川県知事や県会議員、市町村の議員だけではなく、国会議員の姿もある。総理大臣の「追悼文」も読み上げられた。しかし感動するのは、入倉かおる園長のスピーチである。「園の仲間はこんなにも輝いている。人の命は、地球より重いことを伝えていきます」と語りかけた。7月23日の『神奈川新聞』によれば、参列者は、2017年は671人、2018年は609人、そして2019年は685人である。他方、参列した遺族は、2017年は12組25人、2018年は9組19人、2019年は7組10人である。この数字から19人の犠牲者の遺族が12組から9組、そして7組へと減少していることがわかる。裁判員裁判は、来年1月に開かれるが、今回の追悼式との対比でみるとすれば、遺族は、裁判に半数も参加しないことになる。事態はいっそう深刻だ。現在のところ遺族の弁護団は結成されていない。
 7月26日の『毎日新聞』には「ペンダントに娘の遺骨」を収めた26歳女性の遺族の現在の心境が紹介されている。「頭では分かっているが死を受け止めきれない」という。かかりつけの心療内科医に相談し、災害や事故の被害にあった遺族を紹介された。日航機墜落事故現場である「御巣鷹の尾根」を登ったり、東日本大震災の被災地を訪れたり遺族との交流をしているという。今回の追悼式には参加し、裁判にも臨む予定だ。追悼式に参加した遺族には、面識がある人もいるがない人もいる。ある遺族は、「裁判には参加するつもりで、弁護士に相談している」と語った。

2. 67歳男性の遺族訪問記

 事件発生から1年を迎えるにあたり、67歳の男性を長年にわたって担当していた元職員の細野秀夫さんから遺品を返したいという申し出があった。その遺品とは湯飲みである。湯飲みは、この67歳の男性が、北島三郎のコンサートに行った帰り際、直接プレゼントしてくれたものである。男性は北島三郎の大ファンで、CDやカセットテープなど数え切れないほど持っていたという。2004年正月明けの1月15日、細野さんは、男性のリクエストに応えるために北島三郎の歌謡コンサートを二人で観に行くことにした。場所は、神奈川県民ホールである。相模湖から電車に乗り、男性は、切符もはじめて自分で買ったが、紙幣で購入したため、おつりを貰い忘れたというエピソードもある。コンサート終了後、出入口付近のグッズ売場で、男性は「この茶碗ほしいな」と手にとった。一個でよいのに、なぜか二つ買って、「これひとつ先生にあげるよ」と細野さんに手渡した。それが、遺品となった湯飲みである。細野さんは、お揃いのその一つを大切に使っていた。細野さんによれば、「この男性が園で愛用していたもう一つの湯飲みの所在は分からないが、遺族が、遺品になった湯飲みを引き取りたいといわれれば、そうするつもりであった」という。しかし、遺族は「本人のためにも使い続けてほしい」とのことである。私たちは、遺族に直接話を聞くことができ、細野さんと二人でお墓参りをして帰った。遺族は多くは語らなかったが、「事件を風化させない」、「犠牲者を忘れない」ということについては了解は得られた。その時の様子を記しておくことにする。

 2017年6月28日午前10時頃、小雨が降っているなかでの訪問であった。お兄さんと連れ合いの義理のお姉さんは、物置小屋で農作業をしているところであった。お姉さんが「お墓へ行ったら」と言われた。細野さんがお花をもってお墓に行き、後からお姉さんと私がついていった。お墓は、家から近く、畑の急な傾斜を登った頂にある。家の裏方の上段に位置するその場所には、大きく立派なお墓がそびえ立っていた。周辺には梅の木が生い茂っていた。鹿も出没するそうだ。本人が夏期の帰宅訓練中、庭の蛇口からバケツに水汲みをして畑に水をやってくれ、帰宅した時、刈った草を一輪車で運んでくれたこともあったという。帰り際にお兄さんに挨拶したら、「いいよ。いいよ」と、ニコニコして「また来てください」とのことであった。亡くなった彼の分まで長生きして下さいということで、別れた。お兄さんは、県から追悼式の案内状が来たから追悼式には参加しますとのことであった。

 義理のお姉さんによれば、本人は、自分の名前を書くことも言うこともできなかった。数字も知らない。耳が不自由だったという。40歳過ぎまで、家のお手伝いをしていた。山に行くのが好きで、ゴルフボールを拾いによく行っていた。ある時「危ないから来ないでください」「お客さんが怖がっていますから」「寄せつけないでください」と言われた。「行ってはいけない」と言うと、行き場がなく、何もすることがないから、家で滅茶苦茶に暴れ出した。叩いたり、物を壊したりした。当時、本人は会社で働いていて、手に負えないので呼び出されることがあった。電話がしょっちゅうかかってきて、どうにもならなかった。幻覚をわずらったりしていた。それで仕方なく市役所の職員を呼んだ。「年金を出しますから施設に入れて下さい」と言われ、入所となった。体はいたって健康だった。入所までは、家で竹や薪を割ったり、草を刈ったりとお手伝いをしていた。「のぞみホーム」と「つばさホーム」を経験して「すばるホーム」に移った。その頃は千昌夫の『星影のワルツ』がお気に入りであった。当時、職員は地元採用で、園は、本人と実姉の二人を受け入れてくれた。帰宅訓練ではよく家に戻ってきていた。自宅でみることはいつも考えていたが、40歳を過ぎても、物を壊したり、窓を壊したりと、暴れることがあったので、その経緯を考えると地域生活移行は難しいと感じたようである。
 義理のお姉さんによれば、事件後いきなり報道陣が来てカメラをパチパチやったので、近所から苦情がきたという。近所には何も話していないので、近隣住民から怒られることもあったという。近所にわからないように、ひっそりと身内だけで通夜をやったそうだ。詳細については弁護士に任せており、かかわりたくないというのが本音である。訪問以降、弁護士から細野さん宅へ電話がかかってきた。「湯飲み茶碗のことは知っていたが、あなたでしたか。彼のよいところばかり引き出してくれてありがとうございます」ということであった。細野さんは、その弁護士がこの男性に心を寄せて対応している様子を感じ、あたたかい気持ちになったという。

3. 35歳女性の遺族訪問記

 事件発生から1年が経過した2017年9月20日、35歳女性の遺族の自宅を私一人で訪問した。午後2時頃、お花と香典、手紙を持ってのアポなしの突然の訪問だった。自宅は駅から歩いて10分程度で、大きなマンションの一角にある。出入口1階には警備事務所があり、インターフォンで家族に取り次いでもらった。「やまゆり園の元職員で、お見舞いに来ました」と伝えると、快く中に通してくれた。エレベーターを上がってベルを押すと、半袖の白いTシャツを着た父親が出迎えてくれた。今回の報道で自分の病が母親に知られたのが心残りであるとのことであった。話すことは何もなく、毎日新聞に話をしたことがすべてだと語る。ただ一つ言いたいことがある。それは匿名についてだった。匿名にしたのは、騒ぎ立ててもらいたくないからである。職場には公表していないが、知り合いとか何人かにはバレた。「まさか」ということで知り合いから電話がかかってきたこともある。ただただ娘の死に向き合いたいだけである。影響力を考えたら匿名にしてよかった。世間では障害者だから匿名にされているといわれるが「ふざけんな」と思っている。言っている奴らが逆に騒がせているのではないか。遺族の個々人ではみんなそうだとは思わないが自分はそうだと思う。障害者として娘をみたことは一度もない。甘えん坊で愛嬌があり、家族の人気ものだった。テレビ番組の「お母さんといっしょ」を楽しみにし、繰り返し見ていた。年に何回か1時間拡大版があり、録画して一日中見ていた。
 園から一時帰宅したときも、椅子に腰掛けた父親の足をトントンとたたいて抱っこをせがんだ。胸に抱かれ、安心したように腕を首に回した。いつもべったりくっついていたという。事件当初電話が通じなくて、その後、園から電話があり、すぐ来てくれとのことであった。葬儀は、息子夫婦と自宅で行った。建て替えについては、元通りにするのがよい。分散施設にすれば行事が難しくなるのではないか。2004年5月にはじめて短期入所でやまゆり園を利用した。8年ほど前に母親にがんが見つかり、母親の入院・治療のため、短期利用を繰り返していたが、2012年7月に本入所になった。遺族の会のようなものは形成されてはいないし、裁判の傍聴は望んでいないという。訪問時は、父は末期の肺がん。咳き込みや、かすれた声で十分には聴きとれないところもあった。

 26歳女性の遺族も訪問したが、あいにく留守であった。遺族が心境を語るのはとても勇気のいることでもあり、私自身、正直、気が引ける。複数の報道陣を前に毎度のように同じ内容を話すということは負担になるからだ。そればかりではない。精神に変調を来してもおかしくない状況に追い込まれるのだ。そこまでして取材に応じなければならないのか。疑問が残る。今年になって、ある遺族は、従来から付き合いがあるうちの一部の記者以外は取材に応じないということを、代理人を通じて報道機関に伝えてきた。遺族が口を開いてくれるのを待つ以外には、方法はないのではなかろうか。41歳男性の遺族のように、手記という形で公表するのも一つの方法である。ただ言えるのは、それぞれの遺族が、それなりに事件を乗り越えようとしていることもまた事実であるということだ。ある遺族は集会や講演にも参加しているし、また、ある遺族は、被告を相手取り、損害賠償の民事訴訟も起こしている。不慮の事故に重ね合わせるように災害や事故の遺族と交流をし、いわば、心の「巡礼」をはじめた遺族もいる。19人の犠牲者のうち、直接遺族に当たることができたのは6人である。

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著者略歴

  1. 西角 純志

    1965年山口県生まれ。専修大学講師(社会思想史)。津久井やまゆり園には2001年~05年に勤務し、事件の犠牲者19人のうち7人の生活支援を担当した。被告とは、2017年9月以降、手紙のやりとりをし、これまで10回以上接見している。著書に『移動する理論――ルカーチの思想』(御茶の水書房、2011年)、『開けられたパンドラの箱』(共著、創出版、2018年)などがある。

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