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「津久井やまゆり園事件」が問いかけるもの ――元職員の被告接見録にもとづく検証

証言するということ

2016年7月に起こった「津久井やまゆり園事件」が問いかけるものはあまりに大きく重い。優生思想、「生産性」をめぐる議論など、われわれの社会を根底から揺さぶるこの事件の思想的課題について、被告との面会記録を踏まえて検証していく。


第3回 証言するということ

 津久井やまゆり園の事件から半年を経て、NHKは2017年1月26日に「19のいのち」というサイトを立ち上げた。犠牲となった19人のプロフィールをイラストやエピソードを使って紹介し、関係者のコメントやいろいろな意見を取り上げている。CDを聞いたり、畑仕事をしたり、笑顔溢れる日常生活の生き生きとした姿が浮かびあがってくる。現在、正式な形で遺族の手記を公表しているのは、41歳の男性のみである。26歳の女性、35歳の女性、60歳の女性、55歳の男性の遺族らは、時折、取材には応じている様子ではあるが、いずれも正式な形ではない。むしろ記事にされること自体、不愉快、不本意に感じる遺族も少なくない。私が、「証言」が必要だと考えるのは、取材のためではない。「匿名性」は、19人の存在を否定することでもあり、社会に存在したことを示すことができなくなってしまうことにつながるからだ。ややもすれば、事件そのものが虚構(フィクション)に陥ってしまうことを危惧しているのだ。

1.証言の不可能性

 ドキュメンタリー映画『ショアー』のクロード・ランズマン監督は、容赦のない同じ問いを執拗に問い続けている。証人であるとはどういうことか。ホロコーストの証人であるとはどういうことか。証人が単にある出来事を観察し、記録し、記憶するのではなく、ある出来事に対してまったく唯一無二の、代替不可能な地政学的な立場を取ることであるとすれば、証言するとは何を意味しているのか。代替不可能であることをその本質構造としている一つの物語を実際に語ってみせることに証言の唯一無二な点があるとすれば、証言するとは何を意味しているのか。ランズマンは、アウシュヴィッツの表象不可能性に抗して、ひたすら証言を集めるという形で、逆説的に証言不可能性を示そうとした。不可能な証言を証人に要求し、挫折を通して語り得ぬものを語っているのだ。『声の回帰――映画「ショアー」と〈証言〉の時代』(太田出版、1995年)の著者ショシャナ・フェルマンは次のようにいう。
「この映画が現実に証言の必須性を肯定しているとはいえ、まことに逆説的なことに、その必須性は証言の不可能性に由来しているものであり、その不可能性こそをこの映画は描いている。……この映画を横断している証言の不可能性、映画が格闘し、それに抵抗することでまさに自らを作りあげているこの証言の不可能性こそ、実のところこの映画のもっとも深遠でもっとも決定的なテーマである、ということである。『ショアー』は、ホロコーストを、目撃者なき出来事として、そして証言者をもその証言行為をも抹消する。歴史のなかで理解不可能な原光景が与えるトラウマ的証言として、描き出す。それによって『ショアー』は諸限界そのものを探究する。それは、証言行為の歴史的不可能性と、証人である――そして証人とならねばならない――という窮状を免れることの歴史的不可能性、この両者の不可能性を同時に探究することによってなされる。……証言は語ることの不可能性につまずき、同時にその不可能性についても語っているのである」(同書48-49頁)。
言葉がたえず寸断され、極限なく分裂し、極度に断片化されることは避けられない。むしろ断片化のなかにこそ、その証言の意味内容が隠されているのだ。証言とは、単にある事実やエピソードを並べることでもなければ、記録や記憶されてきた事実を単に語ることでもない。証言とは証言しないことの審級であり、語ることの不可能性においてはじめて証言の可能性が開かれるのである。証言とは、聞き手の心に語りかけ、印象を刻印することによってのみ意味内容が開示されるのである。すなわち、それは「応答可能性」である。証言という行為は、本質的に非個人的なものであり、その内容は聞き手の判断に委ねられ、客観的な再構成の可能性を予想することになるのだ。

2.『遺族の手記』の要旨
 
 2018年11月26日、41歳の男性の『遺族の手記』が公表された。各メディアは、これをニュースとして一斉に報じた。手記の全文は、数頁にも及ぶことから割愛し、要旨を収録しておくことにしたい。

「息子は、生まれたと同時に、ダウン症であることをお医者さんから告げられました。それでも授かった大事な命ですから、夫婦で『いい薬がないか』『いいお医者さんはいないか』と一生懸命に探しました。実家は(病院のある)千葉から距離があり、通院するのは大変だったので、家族で相模原に越すことにしました。こうして息子は相模原で、幼稚園から、養護学校の高等部まで通うことになったわけです。私たちはご近所に息子のことを隠したりせず、普通に生活をしていたので、ご近所の方からは私たちに対して、声を掛けてもらったり、気に掛けていただいたりしました。近所の方々に支えていただいて生活でき、心強く思ったものです。2年経った今も私たち家族にとってつらい気持ちで、日々過ごすことに変わりはありません。息子に会いたいという思いは強くなるばかりです。頑固でやさしく、ひょうきん、争いごとは好まず避ける。ダンスが好きで、休みはB'zのCDをかけて踊っていました。今でも、みんなでいるときはいいのですが、一人で写真の前に立つといたたまれない気持ちになります。私たちは初め、意見を発表するつもりは全くありませんでした。そっとしておいてほしかったからです。亡くなったということを否定したいのに、周りから何か言われれば、亡くなったということを押し付けられているみたいで、余計落ち込んでしまうからです。今でもその気持ちに変わりはありません。
 でも、犯人が言っていることに賛同している人たちがいるということを聞き、ショックを受けました。『障害者がつらい立場に置かれる』と、居ても立ってもいられなくなりました。意見を出すと言ってみたものの、自分には無理だと思いました。でもここで声を上げなければ後悔すると思いました。声を上げないと息子に申し訳ない、とも思いました。障害者に対してもっと目を向けてほしい。今回の件をきっかけに、障害者についてもっと議論してほしい。そう思っています。裁判がいつ始まるかはまだ正確には分からないそうです。でも一日も早く始まってほしい。たとえ犯人の刑が決まり、裁判が終わっても、私たち遺族にとって、それは事件の終わりではありません。それでも一日も早く裁判が始まってほしいと願うのは、犯人がどうしてこういう事件を起こしたのか、なぜ息子が死ななければならなかったのかを知りたいからです。そして、犯人に聞きたいからです。もしあなたの家族、親、兄弟、子どもが障害者となったら、同じような行動が取れるのか? 自身を含めて、いつ障害者の立場になるか分からないのに」(2018年11月26日『東京新聞』朝刊)。

3.『遺族の手記』の考察

 ここには遺族が手記を公表するにあたっての葛藤や苦悩が読み取れる。語るべきか否か悩みながらも、障害者を否定する被告の言葉に賛同する人がいることを知り、「ここで声を上げなければ後悔する」「障害者に対してもっと目を向けてほしい」という思いから手記を綴ったという。犠牲となった41歳のこの男性は、事件当時、つばさホームに5日間の短期入所の予定で利用していたが、私自身は、接点も面識もない。この男性は、地域で生活していたので、家族は近所には隠したりせず、普通に生活していた。だが、入所2日後、事件は起こった。家族のささやかな日常生活を奪い、一瞬にして家族を「深淵」に貶めたのだ。何年たっても「つらい」「いたたまれない」。「裁判が終わっても、私たち遺族にとって、それは事件の終わりではありません」という言葉は、とても重い言葉である。「犯人がどうしてこういう事件を起こしたのか」「なぜ息子が死ななければならなかったのか」「もしあなたの家族、親、兄弟、子どもが障害者となったら、同じような行動が取れるのか」といった問いに対しては答えが見つからない。この問いに対して被告の手紙には次のように綴られていた。
「御遺族の手記には『被告の考えを知りたい』とありますが、『創』をはじめ、様々なメディアに取り上げて頂きました。自分が意思疎通とれなくなれば延命すべきとは思えません。家族や友人、恋人が意志疎通とれなくなれば、勿論、悲しく思います。仕方の無い事、受け入れなくてはならない事と考えております。重度障害児の親が大変な事は理解しているつもりです」(2019年1月9日付)。
 被告の獄中手記は既に公表されているので、知ろうと思えば、知ることもできるはずだ。遺族は敢えて、それを意図的に避けているのである。本人の口から直接、そのことを聞きたい。それが遺族の本心ではないかと思う。だが、裁判においては時間の制限もあり、全容の解明を期待するのは難しい。被告は、質問に対して淡々と答えることが予想され、自らの犯行に対して後悔や反省というよりも自論を展開する可能性が高い。次回は、遺族訪問時の様子について記しておくことにしたい。

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著者略歴

  1. 西角 純志(にしかど・じゅんじ)

    1965年山口県生まれ。専修大学講師(社会学・社会思想史)。博士(政治学)。津久井やまゆり園には2001年~05年に勤務。犠牲者19人の「生きた証」を記録する活動がNHK『ハートネットTV』(2016年12月6日放送)ほか、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌にて紹介される。主要著作に『移動する理論――ルカーチの思想』(御茶の水書房、2011年)、『開けられたパンドラの箱』(共著、創出版、2018年)などがある。
    『批評理論と社会理論(叢書アレテイア14)』(共著、御茶の水書房)、『現代思想の海図』(共著、法律文化社、2014年)、「青い芝の会と〈否定的なるもの〉――〈語り得ぬもの〉からの問い」『危機からの脱出』(共著、御茶の水書房、2010年)、「津久井やまゆり園の悲劇――〈内なる優生思想〉に抗して」『現代思想』(第44巻第19号、2016年)、「戦後障害者運動と津久井やまゆり園――施設と地域の〈共生〉の諸相」『専修人文論集』(第103号、2018年)、「根源悪と人間の尊厳――アイヒマン裁判から考える相模原障害者殺傷事件」『専修人文論集』(第105号、2019年)、「法・正義・暴力――法と法外なもの」『社会科学年報』(第54号、2020年)、「津久井やまゆり園事件の『本質』はどこにあるか」『飢餓陣営』(第52号、2020年)ほか多数。

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