カフカの『訴訟』から考える(その1)
2016年7月に起こった「津久井やまゆり園事件」が問いかけるものはあまりに大きく重い。優生思想、「生産性」をめぐる議論など、われわれの社会を根底から揺さぶるこの事件の思想的課題について、被告との面会記録を踏まえて検証していく。
第8回 カフカの『訴訟』から考える (その1)
1.『訴訟』とは
フランツ・カフカ(Franz Kafka, 1883-1924)の『訴訟』(Der Prozeß, 1925)は、長編小説として知られている。銀行員ヨーゼフ・Kが、30歳の誕生日の朝、突然逮捕され、判事にも弁護士にもまったく説明されず、わけのわからないまま審理が行われ、窮地に追い込まれていく作品だ。逮捕されたとはいえ普段通りの生活をすることが許される。日曜日に裁判所を訪ねると、大勢の人間がひしめき合い、誰が誰やらわからないような光景を目にする。Kは、自分の逮捕が不当であることを主張し、官僚組織と役人批判をし、捲し立てる。Kは、その直後に、その場にいる誰もが役人のバッジをつけていることに気付き、動転しながら捨て台詞を残して去る。Kが告訴されたと聞いて叔父が田舎から突然やってきて色々と口を出す。弁護士に相談するが事態は進展しない。冬のある日、Kは、銀行の取引先の工場主から、裁判所おかかえの画家を紹介してもらい、画家のアトリエを訪れる。『訴訟』の末尾の大聖堂の章では、主人公のヨーゼフ・Kが教誨師である聖職者に呼び止められる。教誨師というのは、受刑者に対して、その非を悔い改めるよう教え諭す人である。その時、語られるのが『掟の門』という寓話である。このテキストは、法律家にもよく知られており、しばしば、現代思想の焦点にもなっている作品である。
2.『掟の門』(Vor dem Gesetz)
掟の前に門番が立っていた。この門番のところに田舎から男がやってきて、掟のなかに入れてくれと頼んだ。だが門番は言った。まだ入れてやるわけにはいかんな。男はじっと考えてから、たずねた。じゃ、後でなら入れてもらえるのかい。「ああ、そうだな」と門番が言った。「でも、いまはだめだ」。掟の門はいつものように開いていて、門番がわきに寄ったので、男は身をかがめて中をのぞきこんだ。それに気づいた門番が、笑って言った。「そんなに気にいったのなら、入ってみたらどうだ。おれの制止を無視して。だが忘れるな。おれには力がある。おまけに、おれは一番下っ端の番人にすぎん。広間と広間のあいだにも番人がいて、先の広間にいくほど番人の力が強い。このおれでさえ、3番目の番人の姿を見ただけで、大変な目にあうんだから」。こんなやっかいなことがあるとは田舎の男は考えてもいなかった。掟というものは誰にでもいつでも開かれているべきじゃないか、と思った。しかし、毛皮のコートを着た門番をこれまで以上にしげしげとながめ、大きくてとんがった鼻、長くて細くて黒い
テキストは、掟であり、鍵がなければ入ることができない。テキストは、開かれてはいるが、テキストを守っているのは門番である。だが、鍵を握っているのもまた門番である。門番とは、法律家であり、マスコミ関係者であり、遺族であり、批評家である。彼らは、門番であると同時に田舎男である。彼らは頑なにテキストを守っている。すなわち、掟とは接近可能であるにもかかわらず、接近不可能な物語なのである。テキストは、掟のように自らを守っているのだ。テキストを見た瞬間に読者がたじろぐのは、この接近不可能性である。カントは、掟は尊敬されるべきだといった。カントによれば「尊敬」の感情は掟の結果=効果にほかならず、それは掟にのみ帰せられ、掟の前でのみ正当に現われる。尊敬の念が人間に向けられるのは、その人格が、掟は尊敬されねばならぬことの模範を身をもって示す限りにおいてのみである。掟も人格も人は直接的なかたちで接近することは決してない。人はこれらの審級のいずれの前にも直接的に立たされることは決してない。迂回は限りなく続くのだ。
3.「法」と「法外なもの」という視点
カフカの『訴訟』に挿入されている『掟の門』という寓話は、接近不可能な物語である。だが、法と「法外なもの」という視点から考察する時、有益な論点を呈示している。すなわち、法と「法外なもの」を線引きする「境界」は何かという問題である。「法外なもの」として扱われた者たちが、自らを法の外部に追いやっている法に向き合う時、直面する問題はまさにこれである。それゆえ、「法外なもの」として扱われた者たちは、批判の対象を法それ自体に向けるのではなく、法や掟の前の社会的な偏見や差別に向けているのだ。法に対する批判が困難なのは、批判の対象である法が批判後も存続し続けているからに他ならない。それどころか、法にとって法の外部に追いやられた「法外なもの」こそが、非合理的であったという論理が構築されてしまうのだ。法に対する批判を困難にしている問題は、「法外なもの」は、法それ自体が産み出しているにもかかわらず、法を批判するためにこの問題を解こうとすると法が批判の対象から逃れてしまうということだ。法は、境界を画定し、境界の画定によって「法外なもの」を排除する力を行使する。この法と「法外」なもののパラドックスを見極めることこそが、法批判を困難にしている問題に対して応え、法を批判の俎上に挙げることができるのではなかろうか。
現代思想を代表するイタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンや、フランスの哲学者ジャック・デリダ、そして、ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンらが参照しているのがカフカの『掟の門』のテキストである。アガンベンはこのテキストのなかに「主権の締め出しの構造」を読み取っている。法は、主人公に対して、法の適用を外すことによって法を適用し、法外に遺棄することで締め出すとする。権力は、何者かを外部に排除し、同時にその何者かを外部で包摂するものであり、それこそが権力の基盤だからだ。デリダは、法の「神秘的基礎」には「行為遂行的な力」が働いており、人々の行動を強制し、人々に法を自明の「正義」と信奉させるとしている。「行為遂行的な力」は、法を繰り返し遵守し、信奉させることを強いる力を含んでいるからである。ベンヤミンの議論では「暴力」自体が「法外なもの」として原理的に規定されており、「神話的暴力」と「神的暴力」が区別されている。「神話的暴力」は、暴力が法の内側に入ってきた法の暴力であり、法暴力の否定の根拠になるのが「法外なもの」としての「神的暴力」である。カフカの『掟の門』のテキスト解釈は論者によって異なるが、法と「法外なもの」をテーマにしていることに共通点が見出せる。法と「法外なもの」を線引きする「境界」は何か。そして、法・正義・暴力とどのような関係にあるのだろうか。こうした問いに応えるために、被告にも『掟の門』のテキストの感想をもらった。次回は、被告のレポートの紹介をすることにする。