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教わることに頼らないための自学自習法

覚えるとは何か? ぶらぶら散歩するのがいい

柳原浩紀

 「理解する」で書いたように、理解していくためには学習内容の中であなたにとって当たり前の知識を増やしていかねばならない。こう言われたら、学校や塾のようにテストがないことにあなたは不安を感じるかもしれない。最近の学校では定期テストだけでなく、小テストがとても多い。小テストの勉強だけしてたら他の勉強をできずに一週間が終わってしまう学校もある。しかし、その数多くのテストは、あなたが覚えることに本当に役立っていると言えるのだろうか。

 小テストで点がとれないと、たいていはあなたの努力が足りないことにされて、責められがちだ。しかし、あなたは正しい覚え方をちゃんと教えられてきたのだろうか。覚えるためにテスト範囲は適切な量に絞られているのだろうか。あなたの努力が実を結ぶための配慮や工夫を先生から受けたことがあるだろうか。そもそもそうしたテストで点数が取れることは、あなたが覚えることに本当につながっているのか。誰もが覚えることは大切だと強調するものの、こうしたテスト漬けが覚えることにどうつながっているのかについて、大人たちはあまり深くは考えていないように思える。

 さらに、こんな不思議もある。「覚える」ということは、勉強の中で大切なわりにとても評判の悪い行為であるということだ。小さい頃は駅名や植物や動物の名を覚えたり、覚えることがとても楽しかったはずなのに、わたしたちはどうして覚えることをこんなに嫌いになってしまったのか。それがテストのせいだとしたら、なぜテストはわたしたちに覚えることを嫌いにさせるのだろうか。そこからまず書いていきたい。

 

 小さな子どもたちが知識を増やしたがるのは、それが彼らの「なぜ?」を誘発してくれるからだ。知ることは、次の「なぜ?」を生む。もちろん小さな頃から知識を得ることに伴う権力欲(「わたしってすごいでしょ!」)がないわけではない。それでも、知識を得るために覚えることは、次のなぜ?を生み出すことで、彼らの世界を広げてくれる。

 これは、人間の学習プロセスにも根付いているのかもしれない。たとえば小さな子が言葉を学ぶとき、初めは意味がわからなくても、真似して覚えたがるものだ。このとき彼らは「意味はわからないけど覚えて再現するのは面白い!」という感覚を持っているということになる。

 そのようにして集められた未整理の知識に対して文法などのロジックが後から発達してくる。体系的に文法を学ぶことの前に、わたしたちは言い間違いを指摘されたり正しい形を教えられることで、集められた用例に対してどのような活用をするのかを自分で類推していく。子どもたちは、人間が種として体系化してきたロジックを個体としての成長の中で再発見しつつ、学んでいるかのようだ。

 こう考えてみると、「『これは意味があるから』『なぜ?と問わずに』覚えなさい!」という指導は、二重に失敗していることがわかる。意味があるものを覚えることは、子どもたちにとっては苦痛だ。意味を他人になんか教えられたくないからだ。そして、後から「なぜ?」を問えないものを覚えることもまた苦痛だ。自分でロジックを見出す余裕や機会を奪われたら、意味を見つけられた!という喜びを味わえないからだ。

 すると、無意味に覚えたことについて、あとから自分で意味を見いだせるような覚え方が自然である、ということになるのではないだろうか。

 

 さて、それとは別に覚えるときに知っておくべき大切なことが二つある。それは、

 

①人はとても忘れてしまう。

②人はとても覚えてしまう。

 

という二つの性質だ。この二つの性質をしっかりと意識しながら覚えようとしていくのが正しい記憶法だということになる。

 この二つは一見反対の内容のように見える。忘れてしまうなら覚えられていないのでは?あるいは覚えてしまうなら忘れてしまわないのでは?というように。

 そこで、まず①について説明してみよう。人はとても忘れてしまう。だからこそ、わたしたちが覚えるときには、いずれ忘れることを前提として、忘れたとしても思い出せるように覚えることが大切だ。

 そしてそのために必要なのが、「なぜそうなるのか?(Why?)」という問いと、「どこにあるのか?(Where?)」という問いだ。なぜそうなるのかということを説明できれば、忘れたとしても再現することができる。もちろん、理由がわかれば導けるから覚えなくても大丈夫!というのもまた、まずい。いくつかの基本的な知識についてはやはり覚えるしかない。それらを覚えたうえで、他の知識を忘れてもそれらから自分で導けるようになることが忘れたときには必要だ。「どこ?」とは他の知識との関連性だ。たとえば地図上での位置関係、年表上での位置関係、化学の周期表やイオン化傾向のように他の記憶事項との相対的位置(関連性)を理解しておくと、これを通じても忘れたときに思い出せるようになる。このように、知識と知識を論理や位置によって関連させておくと、これらの Why? や Where? を通じて思い出せるようになる。

 思い出せるように、という言葉を使ったが、「覚えている」と「思い出す」は表裏一体だ(英語では両方「remember」だ)。しかし、このことが「忘れることは敵!」と言わんばかりのテスト漬けの中ではあまり理解されていない。思い出すことを何度も繰り返せば、だんだんと覚えていける経験があなたにもあるだろう。しかし、思い出すためには、忘れなければならない。そして、その「思い出す」という行為は、Why? と Where? を通じてしか、できそうにない。だからこそ、忘れることを前提としてどのように思い出すかのためのツールを鍛えていくことが、覚えていくことにもつながっていく。ざっくりいえば思い出し方こそが覚え方だ、といってもよい。そのようにロジックを使って忘れていたことを再現できることは実は自分の外に外部記憶装置をゲットするようなものだ。使わないのはもったいない。

 そう考えてみると、理由や関連性がないものをわたしたちが思い出せないのは、むしろ理不尽さを拒絶することで、自分が無意味に覚えられるものよりもより多くを再現できるように、と発達してきた人間の記憶の特徴であるのかもしれない。将棋のプロ棋士のような超人的な記憶力の人たちですら指し手の意味や理由の見えない盤面を覚えることはできないと聞く。だからこそ、「なぜ?」「どこ?」を問わないままにムリヤリ詰め込もうとするのは、とても効率の悪いやり方になってしまう。忘れることを前提として、思い出せるように、というやり方が大切だ。

 

 二つ目の「人はとても覚えてしまう」とは何だろう。それは、わたしたちが何かを覚えようとするとき、周辺の様々な情報を一緒に巻き込みながら覚える、ということだ。単語帳を開いて英単語を覚えているときに、上下にある別の単語の意味とごっちゃにして覚えてしまった経験はないだろうか。あるいは必死に覚えたつもりが、肝心の覚えた内容についての記憶は出てこず、そのとき飲んでた飲み物とか、そのときかかっていた音楽とかの記憶ばかりが出てきたりもする。それは人間の驚くべき能力であるとともに、だいたいの場合、学習の目的を達成するのにも大きく邪魔になってしまう。

 だからこそ、そうした現実世界の周辺情報に頼って覚えてしまっている自分を甘やかさないように、周辺情報だけ絶えず変化させては記憶していくのが良い覚え方になる。もちろんこれは、「だから英単語帳などをコロコロ変えた方がいい!」ということにはならない。定着しないうちに周辺情報を変えることばかりに熱心でも、結局何も覚えられないからだ。定着してきたら、その周辺情報を減らしていく、という勉強の仕方が理想的だと言える。たとえば同じ英単語帳で各ページで覚えているだけよりもさらに索引で見て引き出せる方が、より確かな記憶である、というように。覚えるべき対象を変えずに、チェックの仕方を変えてみる、というのがよいだろう。

 また、現実世界の周辺情報を巻き込んで覚えてしまわないためには、学習内容の中でバーチャルな周辺情報を増やしていく、ということもとても大切だ。このことを理解するために、一つたとえ話をしてみよう。

 あなたが初めて行く場所に向かうときは、地図やアプリを見ながら確認しつつ進んでいくしかないとしても、帰り道は結構スムーズに帰れたりする。これは初めて行く土地の町並みや道などの周辺情報が往路を行くうちに無意識にインプットされていくからだ。目的地に向かって急いでいるときですら、わたしたちはそのように周辺情報をインプットしている。

 街をぶらぶら歩くのはもっといい。景色や人、様々なものを見たり感じたり考えたりしながら歩くことは、あなたの記憶にとてもよく残るだろう。

 それなら、これを学習内容についてもやればいい。「なぜ?」「どこ?」を覚える内容について考え、味わうことは、忘れても論理的に導ける、というメリットだけではない。学習内容の中で行きつ戻りつしながら得たバーチャルな周辺情報は、覚えること自体にも強力なツールになる。だからこそ、数学の定理や公式はその結果だけ覚えるのではなく、なぜそうなるのかを導出しようとぶらぶらした方がいいし、歴史の事実もムリヤリ年号を覚えるのではなく、歴史の流れを踏まえたり、地図をじっくり見て、ぶらぶらした方がいい。英単語だって派生語や接頭辞・接尾辞も色々見て、辞書を引いて読んだり、ぶらぶらした方がいい。

 幼児の例を思い出してみよう。結局わたしたちがよく覚えるのは、無意味にぶらぶらを楽しんだときなのではないだろうか。意味や目的は、プロセスを味わう余裕をわたしたちから奪ってしまう。覚えようとするとき、プロセスを省略するのが効率が良いように見えて実は非常に悪いのは、このことからもわかる。

 

 ここまでを踏まえれば、

 

A.覚えるためには、なぜそうなるのかを考えたり思い出そうと、諸々ぶらぶらしてみる。

のが覚えるコツだと言える。

 すると、定期テストや小テストは機能しているのだろうか。それがAの「なぜ?」や「どこ?」を考える余裕なく、ただただ大量に覚えさせられているとすると、すぐに抜けてしまうし、思い出す手がかりも残らないだろう。テストの頻度を高くすること、テストで問う分量を多くすること、内容を難しくすることなどはすべて、「なぜ?」を考えることをあきらめさせ、じっくりぶらぶら行きつ戻りつする時間の余裕をなくさせ、そしてただ詰め込むしかない状況へとあなたを追い込んでしまう。そのようなテスト勉強をいくらがんばっても、あなたの武器は何一つ増えない。

 自学自習は違う。吟味する暇なく無理なペースで詰め込まれることから、きっちりと距離を置ける。自分のペースで「なぜ?」を考え、他の知識とのつながりを確認し、そしてあやしいところは何度でも繰り返すことができる。基本的なことを覚えてなければ、戻って覚え直そう。毎回の分量を減らしてもいいし、余裕があるなら増やしてもいい。何を調べてもいい。ぶらぶらし放題だ。そのようにぶらぶらすればするほど、バーチャルな周辺情報が増え、覚えることはどんどんあなたの味方になっていく。一律に無茶な速さで要求される覚え方から距離をとり、「なぜ?」「どこ?」を大切にぶらぶらと散歩を楽しむように覚えることが大切だ。

 

B.再現できるまで、繰り返す。

 繰り返して言えるようにしたり、書くのでもいい。「なぜ?」や「どこ?」ができて初めて、繰り返すことが記憶の定着につながる、というその順番が大切だ。

 そして、この二つの方法を取るために何より大切なことが

 

C.最初に覚える知識をとにかく少なくする。

ということだ。

 情報量を絞った方がBの繰り返しの周回数が多くなるから覚えやすくなるのはわかりやすいだろう。それだけではなく、Aの「なぜ?」や「どこ?」についても、量が少ないほど、それらを考えたり確認しながら覚える時間を作ることができる。そのようにして、量を絞って覚えれば、これがあなたの記憶の「幹」になっていき、「幹」との関係性でより細かい「枝葉」の知識も覚えやすくなる。厳選のための基準は、「なぜ?」を考える道具になるような知識をまず優先することだ。そこから色々なことがわかるような知識と、一つ覚えたらそれでおしまいの知識を区別するとよい。英単語で例を出せば、固有名詞を覚えるなんてナンセンスだ。逆に接頭辞や接尾辞(いろんな単語にくっついている、意味を持ったパーツ)は、きっちり覚えることで、その努力が何百倍にもなって返ってくる。

 BGMやページの中の位置のような現実世界での周辺情報をついつい覚えてしまうのは、誰でも最初は現実世界の情報の方がリアリティがあるからだろう。「関係ないことばかり気になって、全然覚えられないよ?」というときは、その学習内容の中に、リアリティを持って感じられるものが少なすぎて、現実世界の周辺情報の持つリアリティばかりがあなたの感覚に強く訴えかけてくる、ということでもある。

 情報を絞ってそれを定着させていけば、学習内容の中に、現実世界であなたの気を逸らすものと同じ、あるいはそれ以上のリアリティを獲得していくことになる。それを一気に大量に定着させることなんかできない。学習内容がリアリティを競う相手は、わたしたちの生活するこの現実なのだから、とても手強い相手だ。だからこそ、それが定着するまでは記憶対象を徹底的に絞り、それらについてぶらぶらしながら楽しむことで、それらをこの現実と同じようにリアルなものに少しずつしていくことが大切だ。

 ここまで繰り返してきた「ぶらぶら」という言葉は「つれづれ(徒然)」ということでもある。その中身は、「調べる」「読む」「理解する」「解く」などなど、「覚える」こと以外の様々な学習行為であることが多い。このように「覚える」とされている行為も、実は様々な他の学習行為と深くつながっている。いや、むしろ、覚えるために覚えることしかやっていなければ覚えられるわけがない、というのが正しいだろう。問題を解いていれば、問題が解けるようになる、という思い込みが間違っているのと全く同じように、だ。

 この連載では自学自習のために、学びの現場で何となく行われている方法を一つ一つ明確にあなたに伝えたい。それがあなたにあいまいな言葉で自学自習を励ますだけに終わらないように、わたしたちが自分に課した一つのルールだ。しかし、そのように一つ一つ学び方を明確にしようと説明すればするほど、実はそれらがお互い深くつながっているという事実にぶつかるようだ。

 

 まとめよう。覚えるときには、

 

①人はとても忘れてしまう。

②人はとても覚えてしまう。

 

という性質を踏まえたうえで、

 

A.覚えるためには、なぜそうなるのかを考えたり思い出そうと、諸々ぶらぶらしてみる。

B.なぜがわかったあとに、繰り返す。

C.最初に覚える知識をとにかく少なくする。

 

という三つを念頭に置くことが大切だった。これらを意識して、覚え方を工夫していくことが大切だ。

 このように、あなたの努力不足のせいにされがちだった覚えることですら、与えられた方法が間違いであることが多い。自学自習とはそのように、奪われてきた学びの喜びを、正しい方法を通じて回復していくプロセスでもある。

 覚えるためには何度でも思い出さねばならないし、思い出すためにはなぜそうなるのかを考えねばならないのは、何も受験勉強に限ったことではない。絶句するような惨劇を日々目の前にして、わたしたち大人はこの世界の歴史を、顕在化する前に内在していた諸問題を、そのような意味で「覚えて」いたのだろうか。そこに日々の労働と生活に負けないリアリティを感じられていたのだろうか。今は感じているのだろうか。「ボーっとしてないで勉強に集中しなさい!」と偉そうによく言うわたしたち大人だって、それが全然できていないじゃないか!と言われれば、返す言葉もなく恥じ入るしかない。しかし、それでもなお、あなたに、覚えるとはどういうことかを正しくとらえ、それを自分の手に取り戻してもらいたい、と思う。忘れてしまう自らの愚かさを前提として、何度でも思い出していくために。

 そのうえで、このように忘れることを前提として思い出す理路を得た知識、それを繰り返す中であなたにとって実物と同じくらいリアルになった知識はあなたの理解や思考の土台となる。そしてそれは、次に「考える」というプロセスへの入り口となるはずだ。

 

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著者略歴

  1. 向坂 くじら(さきさか・くじら)

    詩人。「国語教室ことぱ舎」代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」朗読担当。著書に第一詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)、エッセイ集『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)。現在、百万年書房Live!にてエッセイ「犬ではないと言われた犬」、NHK出版「本がひらく」にてエッセイ「ことぱの観察」を連載中。ほか、『文藝春秋』『文藝』『群像』『現代詩手帖』、共同通信社配信の各地方紙などに詩や書評を寄稿。2022年、ことぱ舎を創設。取り組みがNHK「おはよう日本」、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞などで紹介される。1994年名古屋生まれ。慶應義塾大学文学部卒。

  2. 柳原 浩紀(やなぎはら・ひろき)

    1976年東京生まれ。東京大学法学部第3類卒業。「一人一人の力を伸ばすためには、自学自習スタイルの洗練こそが最善の方法」と確信し、一人一人にカリキュラムを組んで自学自習する「反転授業」形式の嚮心塾(きょうしんじゅく)を2005年に東京・西荻窪に開く。勉強の内容だけでなく、子どもたち自身がその方法論をも考える力を鍛えることを目指して、小中高生を指導する。

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