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教わることに頼らないための自学自習法

実践編:数学

柳原浩紀

 数学においてもまた、覚える・理解する・解くの3つが大切だ。ただ、数学において一番注意しなければならないのは、ほとんどの場合、あなたは問題を解き始めるのが早すぎるし、たくさん解きすぎているということだ。
 覚えるべきもの、理解すべきものがあやふやな状態のままで大量に問題を解いてはならない、というのはこれまで話してきた。未知の問題を解くのが「考える」であるのなら、それは既知→未知への試みだ。それが可能であるためには、既知がしっかりとした土台になっていること(「覚える」)、未知→既知への筋道が見えていること(「理解する」)が必要になる。

 それに対して、数学で苦手な人がよく陥っている状態は、

①公式を覚えて、問題集を解くだけ。
→公式を覚えたらそれをひたすら当てはめているだけ(「理解する」が足りない)

②公式を見ながら、問題集を解くだけ。
→覚えるべきものは覚えてないままに、見ながら解くだけ(「覚える」「理解する」が足りない)

という状態である。この状態ではいずれ行き詰まるし、また問題が少し難しくなればなるほどに、手も足も出なくなるだろう。
 勉強以外にたとえるなら、これは貧困だ。たとえば人は貧しい状態になればなるほど、「毎食節約してカップラーメンを食べる」というような食生活をしてしまう。毎食カップラーメンを食べるよりは自炊をした方がはるかに食費がかからなく、また健康にも良いのに、だ。しかし、そのためにはまとまってお米を何キロか買ったり、炊飯器を用意したり、さらには調理のための時間をとったりなどと初期投資が必要になる。その初期投資をすることで結局は食費を抑えられるとしても、それができないほど貧しい状況に追い込まれれば、はるかに高く付く食費を延々と払い続けることになって、結局貧困からは抜け出せなくなってしまう。

 数学においてもまた、基本的な定義(用語の意味)を覚えることとその定義から定理や公式(定義を決めたことから言えるようになったこと)を理解し、自分の言葉で説明できるようにすること、という2つが大切だ。そしてこれらには時間がかかるものだ。最短距離で入試に間に合わせたいあなたには、さっさと問題集を解いた方が良いように思えるかもしれない。しかし、それはカップラーメンのようなもので、実はとてもコスパが悪い。問題集を解き始める前にじっくりと教科書や参考書を読み、そこに書いてある図やグラフを自分でも書いてみて、覚えたり理解をしたりすることに時間をかけていく、という初期投資をすることが結局は最も近道である。少なくともそのように教科書や参考書に書いてあることを覚えたり理解できた後に教科書や参考書の中の問題を解けばいいし、それがあやふやなうちは例題だけ、というように教科書や参考書の中でもさらに問題数を絞って解くのでもいい、と言ったらあなたは驚くだろうか。定義の把握や定理や公式の導出(なぜそうなるかを自分で説明すること)がある程度できるようになるのを待ってから、問題集へと移行していくことがあなたの力になる。
 定理や公式が大切なのは結果だけではない。なぜそれが成り立つのか、というプロセスや考え方があなたの中にあればあるほど、それらは孤立した知識ではなく多くの周辺情報を伴ってまず覚えやすくなるし、覚えるまでもなく自然な結論ということになる。そして、そのように結果に至るまでのプロセスや考え方こそが、あなたが問題集を解くときに土台として参照することのできる大きな財産になっていくのだ(それはまた、「理解する」のところで書いた「内側の論理」を鍛え上げていく、ということでもある)。それをしないで、さっさと問題集を解こうとすれば、これまた早く成果を出そうと焦っては、所詮は見よう見まねにしかならない。どんなにたくさんの問題を解いてもその記憶はすぐに剥がれ落ちてしまうだろう。
 「問題をたくさん解かなきゃ!」とプレッシャーをかけられ、理解することをおろそかにする勉強の先は行き止まりだ。それは「カップラーメンの方が調理が早くて安い」というのと同じ、浅はかな見方だ。しかし、このようなプレッシャーをとかく学校でも塾でもかけられてしまう。そこでは、問題集で問題を大量に解き始める前に丹念に追われなければならないはずの記憶と理解のプロセスが、「あなたが授業を聞いた」というただそれだけの事実でまるで何の滞りもなく完了していると見なされてしまいがちだ。しかし、授業を聞いただけですべて理解ができるのなら、そのような人は勉強の天才だ。勉強の天才を前提とした無理な進め方を押し付けられることを拒絶し、記憶や理解に丹念に時間をかけられることこそが、自学自習の強みである。逆に言えば、自学自習なのに学校や塾でやらされるのと同じように「質より量!」「習うより慣れよ!」とひたすら問題集を解いてしまえば、その自学自習の強みを自ら捨てることになってしまう。

 「理解する」とはどういうことかは「理解する」の章にも書いた。少しはみ出るくらいがいい。逆に言えば、だいぶ自分の知っていることからは遠いところまで来てしまったなと思ったら、自分の知っていること、自分の理解していることを確かめる作業を繰り返すことが大切だ。
 そのために必要な知識を覚えているかのチェックや、理解しているかどうかのチェックはどうやってできるだろうか。それは「自分で」言葉で説明ができるか、ということである。
 「自分の言葉で」と言いたいところだが、自分の言葉を持つというのは難しい。私たちが、借り物の言葉でない自分の言葉などそもそも持つことができるのかという根源的な問いはさておき、教科書や参考書に書いてあることを別の言い方で表現するのは、かなり高度なことだ。まずは教科書や参考書に書いてあるままの定義を、見ないで自分で言えるようになることからスタートしよう。
 すると、それすらも正確にはまるでできない自分にあなたは気づくだろう。「変化の割合って何?」「切片って何?」「円周角の定理って何?」「有理数って何?」「微分係数って何?」と問われて、説明できるだろうか。だいたいは「こんな感じ?」とあやふやな図を書いたり、「変化の割合は傾き!」と断片的な知識で満足していたり、とテキトーだ。しかし、断言しよう。重要な概念の定義(言葉の意味)があやふやな状態で問題を解くのは効率が悪い。それらがあやふやなら、問題を解く前に見ないで言えるようにはしておいたほうがいい。
 また、これらの重要な概念を言葉としてだけ覚えていても仕方がない。(一次関数の)「変化の割合」という言葉を知らない中学生は少ないだろう。聞いたことはあるはずだし、何なら漢字だって書けるはずだ。しかし、それがどう定義されているかを言える中学生となると、とたんにガクンと減ってしまう。そして、それでは全く使いこなすことができない。「変化の割合とはyの増加量/xの増加量(※分数)だ。」まで言えて初めて使いこなせる。
 なぜそれができてないのかといえば、「変化の割合」という言葉だけ覚えるようなテストやチェックをしてしまっているからだ。しかし、言葉だけ知っていてもテストの穴埋め問題しかできない。すべての重要な言葉(教科書の太字の言葉)はその定義(意味)が自分の中からすらすら出てくるところまで定着させるとよい。これが「内側の論理」(「理解する」)を使って理解するためには、単語だけではなく、単語の意味同士の基本的なつながり(関係性)があなたの中にあることが大切だ。
 そして、それが直線の傾きと等しいこと、さらに高校数学では極限を取ることで微分係数という考え方になり、さらにはそこから導関数という概念につながっていくことなど、関連付けて説明できるようになると、様々な知識がつながっていくわけだ。ただ、こうしたつながりをいっぺんに学ぼうとする必要はない。「変化の割合」とは何かを教科書や参考書を見ずに言えるだけで、まずは十分だ。それは内側の論理を使った次の理解へと少しはみ出ていくための、確かな足場となる知識になっていくからだ(実際に高校生に微分を教えるときにも、変化の割合の定義からあやしい子が一定の割合で存在するのが実状だ)。
 そして、そのためには繰り返しになるが重要な言葉については見ないで定義が言えることが大切だ。
 もちろんこれは言葉だけに限らない。グラフや図なども含めて、教科書や参考書に書いてある説明を自分で何も見ないでアウトプットできる状態であることが、基本的に大切だ。
 より深く考えるあなたなら、「それは単なるインプットにしかならず、理解することに直接はつながらないのでは?」と正しい疑問を抱くかもしれない。もちろん、それは正しい。ただし、人間はアウトプットしたものからフィードバックを受けて理解を深めることができる。つまり、言葉にして言う、書く、図を描く、グラフを描くなど、様々なアウトプットを試みることで、自分でもまた徐々に「こういうことか!」とわかってくる。逆に、定義を覚えていない状態では、自分がわかっていないことを知る機会すら得ることができない。だからこそ、定義を見ずにアウトプットできる状態が、理解することを準備していくと言える。
 そのうえで、スムーズに言えるようになった定義を使って、教科書や参考書の定理がなぜそうなるのかを言葉で説明できるようにしていこう。このときも教科書や参考書に書いてある説明がわかるところでとどめずに、それらを見ないで一から説明できる状態を目指すのがよい。説明するのが苦手でも、「一から自分で説明できることがそれを理解している状態だ!」と思って目標を高く設定していこう。基礎については、理解したり考えたりする土台になるからこそ、それは分厚ければ分厚いほど後々の勉強が楽になるからだ。
 このようにして、ある分野について教科書や参考書に載っている重要な概念の定義を見ないで説明できる(言える)こと、さらにはその定義を使って、定理がなぜ成り立つのかを(教科書や参考書に載っている範囲でかまわないので)言葉で説明できるようにしていくこと。そのうえで教科書の問題を(特に例題は解き方を説明しながら)解けるようにしていくこと。これらが問題集を解き始める前に、必要な準備であると言える。それが「覚える」「理解する」の章で書いたことであり、これらができて初めて、問題集を解くことがすべてあなたの血肉となってくる。

 さて、あなたはそのように数学を勉強しているだろうか。あるいは、そのように学校で教えられてきただろうか(もし、そう教えてくれているなら素晴らしい先生だ!)。実際には、問題集を解き始める前に準備をしっかりとしたほうが、はるかに勉強の効率が良い。逆に、こうした努力を怠った状態で問題集を解けば、結局大量の問題の中にさまよって自分で道なき道を整理していくかのような、非常に効率の悪い勉強法に終始することになってしまう。
 そうした準備ができた後にあなたが取り組む「問題集で未知の問題を解く」という行為は「考える」という行為だ。それは「理解する」のように「未知→既知」につなげる後ろ向きの行為ではなく、「既知→未知」につなげようとする前向きの行為である。
 既知のものがあやふやである状態や「未知→既知」へと結びつける方法がくっきりとは見えていない状態で、「既知→未知」への冒険をしようとするのは無謀な挑戦でしかなく、あなたの貴重な時間や努力を費やすにはあまりにももったいない浪費でしかない。
 もちろん、問題集を解く中であなたが新たに出会うアイディアもあるだろう。すべてが教科書や参考書に載っているわけではないし、特に難しい学校の入試問題となれば、教科書や参考書の記述だけでそれを解けるようになるのは、これまた勉強の天才だろう。しかし、問題集を解き、解説を読んで「未知→既知」と結びつけていくプロセスや、やがてその吸収した新しいアイディアを「既知→未知」へとつなげていこうとするプロセスは、実は問題を解く前に教科書や参考書で定義からなぜ定理が成り立つのかを導出しようとしていたプロセスの延長にあるものでもある。もしあなたにその思考回路がしっかりとできているのであれば、1つの問題から多くのことを学ぶことができる。逆にあなたにその思考回路が確立していないのであれば、100問解いても何も残らない。問題を解く前に、実は勝負はある程度決まっている。
 そして、準備をしっかりとしたうえで問題集を解けば、教科書に書いていることを丹念に追ったはずなのにまだ一面的にしか理解できていなかったことにも再び気付けるはずだ。そのようにして問題集に移った後も、問題集を解くこととそれで見えてきた教科書や参考書のあやふやな部分の読み直しの往復を通じて、あなたはさらに理解を深めていけるはずだ。
 だからこそ、いきなり問題集で問題をたくさん解き始めてはならない。定義を(教科書や参考書を見ないで)説明できるところまでしっかりと覚え、理解し、そのうえでそれを使って定理を(教科書を見ないで)説明できるように、という準備を丁寧にしていこう。そのようにして、それらがあなたにとって当たり前になればなるほど、内側の論理を使ってあなたは理解をしたり、考えたりできるようになるはずだ。
 そうした「初期投資」をきっちりと時間をかけることが、結局は一番賢いやり方だ。そしてそれは自学自習だからこそあなたに必要な時間だけ時間をかけることができる、と言える。

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著者略歴

  1. 向坂 くじら(さきさか・くじら)

    詩人。「国語教室ことぱ舎」代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」朗読担当。著書に第一詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)、エッセイ集『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)。現在、百万年書房Live!にてエッセイ「犬ではないと言われた犬」、NHK出版「本がひらく」にてエッセイ「ことぱの観察」を連載中。ほか、『文藝春秋』『文藝』『群像』『現代詩手帖』、共同通信社配信の各地方紙などに詩や書評を寄稿。2022年、ことぱ舎を創設。取り組みがNHK「おはよう日本」、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞などで紹介される。1994年名古屋生まれ。慶應義塾大学文学部卒。

  2. 柳原 浩紀(やなぎはら・ひろき)

    1976年東京生まれ。東京大学法学部第3類卒業。「一人一人の力を伸ばすためには、自学自習スタイルの洗練こそが最善の方法」と確信し、一人一人にカリキュラムを組んで自学自習する「反転授業」形式の嚮心塾(きょうしんじゅく)を2005年に東京・西荻窪に開く。勉強の内容だけでなく、子どもたち自身がその方法論をも考える力を鍛えることを目指して、小中高生を指導する。

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