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教わることに頼らないための自学自習法

実践編:国語

向坂くじら

 ここまで説明してきたとおり、覚えること、理解すること、考えることは、どの教科の学習でも重要になる。もちろん、それは国語でも変わらない。それなのにそのバランスがもっとも軽んじられがちなのが、国語という教科、とくに現代文だ。
 その原因には、「日本語を使って日常生活が送れているのだから、日本語で書かれた文ならある程度は読めるだろう」という前提のもと学習をはじめようとしてしまうことがある。英語も勉強していると、かえってこんなふうに思ってしまいがちだ。「英語は文法や語彙が必要でも、国語には必要ない」「英語は言葉の仕組みから理解しないといけないが、国語は書かれている内容や主張を理解していればいい」……けれどもまずはじめに確かめておきたいのは、わたしたちはどれほどに日本語を「読めて」いるのか、ということだ。
 国語が苦手な人の中には、そもそも「読む」という動作があやしい人が多い。現代文にしろ、古文漢文にしろ、ついでに英語長文にしろ、問題を解く前にまず本文を読まないといけない。設問を先に見て傍線部の近くだけを読めとか、各段落の最初の一文だけ読めとか、そういう「いかに読まないか」に重点が置かれた解き方はウソだと思っていい。百歩譲って、時間制限のあるテストでの戦略としてはそれらがある程度正しかったとしても、ひとりで勉強をしているときにそれをやるのには全く意味がない(これにかぎらず、「テストの解き方」と「正しい学習法」には乖離があることが多いため、そのふたつを混同しないように気をつけてほしい)。
 多くの人は、自分が思っているよりはるかに、日本語が読めていない。それは、筆者の主張が、とか、表現の意図が、とか、そういうレベルの話ではない。英語が読めていないときのように、日本語も読めていないと思ってもらいたい。逆に言えば、そこをスタートラインに設定することによって、国語の学習の第一歩は一気にクリアになる。

 先に大まかな方針を示しておこう。だれしもはじめは「読めない」。そこを脱却するためには、第一に文法と語彙の知識が必要だ。古文漢文はもちろん、現代文でも文法や単語が必要だというと、意外に思う人も多いかもしれない。けれどくりかえしておこう。多くの人は、英語が読めないというのと同じように、日本語が読めていない。だから知らない言語を学習するときのように、まず言語の仕組みを意識していくのがいい。
 一文単位の組み立てを理解したら、今度は文が集まってできた「文章」の組み立てを理解していく必要がある。ここで気をつけないといけないのは、読解問題を解いて丸つけをし、その解説を読むだけでは、文章を読む力はついていかないということだ。それよりもむしろ、引っかからずにすらすらと読める文章をたくさん読んでいくことをおすすめする。
 文章の難易度を決める要素はいろいろある。使われている単語や話題が日常に馴染みがあるかどうか、一文に使われている単語の密度、詳しく説明せず読者に委ねられている部分がどれほどあるか……など。けれど、実は読みやすい文章も読みにくい文章も、大きな構成はそこまで変わらない。単語をひとつひとつ調べながらじゃないと読めない文章を無理して読んでいくよりも、無理なく読める文章をたくさん読んでいく方が、文章の全体像をつかむための引き出しが増えていく。それだと同じレベルの文章しか読めるようにならない、と不安になるかもしれない。ここでも、先に挙げた文法と語彙の学習とが役に立つ。複雑な文を読み解く力をつけたり、語彙やその背景にある知識を増やしたりすることが、あなたの読める文章のレベルを上げてくれる。
 まとめるとこうだ。

① 文法・語彙の知識をつけることで、まずは文を読めるようになる。
② 文がある程度読めるようになったら、無理なく読めるレベルの文章を読み、文章の構成を意識できるようにする。
③ 語彙や語彙に関する知識を増やし、「無理なく読める」のレベルを底上げしていく。

 では、ひとつひとつを詳しく説明しよう。

 まず、「文が読める」とはなんだろう。ひとつの文はいくつかの文節でできている。「文節」という言葉に耳なじみのない人もいるかもしれない。先ほどの文を例に出せば、「そして/文は/いくつかの/文節で/できている。」というような、文を役割ごとに細かく区切った単位のことだ。
 文節どうしは互いに関係を持っている。たとえば上の文なら、「文は」が主語、「できている」が述語である。「いくつかの」は「文節で」を、「文節で」は「できている」を修飾する修飾語、「そして」は前の文とこの文とをつなげる接続語である。そんなふうに文節どうしはつながっている。
 そしてそれと同じように、文もそれぞれ役割を持ってつながり、段落を成している。その段落もまた、ひとつの文章の中である役割を持ち、たがいにつながっている。
 つまり、段落と段落との関係が把握できてはじめて、「文章が読める」と言える。そのためには段落を成す文と文との関係を、さらにそのためには文を成す文節と文節との関係を把握しなければいけない。まずはひとつの文が読めなければ、文章を読むのはむずかしくなる。
 整理しておこう。

①「文が読める」→文節と文節との関係がわかること
②「段落が読める」→文と文との関係がわかること
③「文章が読める」→段落と段落との関係(各段落が文章全体のなかで果たしている役割)がわかること

 ここで念のため、「読む」の章でも書いたことをふりかえっておきたい。「読む」とはつまり、「意味をわかろうと努力する(そのためにまず見ないで再現できるようにする)」→「『なぜ?』が浮かんでくる」→「それを考えたり前に戻って読み返したりして解決すればよし、解決しなかったらそれを抱えたまま先を読んでいく」→ ……という一連の流れのことだ。特にあなたがこれから読むことで学ぼうとするときには、まだ知らない内容について読まないといけないわけだから、この試行錯誤を避けて通ることはできない。
 そう思うと、「すべての文が正しく把握できることによって、はじめて文章が読める」というのはまちがいである。意味がわからないところを保留にしながら読みすすめていけることもまた、読む能力にほかならない。けれども、すぐには理解できない文を読むときにこそ、文の構造や、ほかの文との関係、文章全体との関係をつかむことが必要になる。それに、「意味がわからないところを保留にしながら読みすすめないといけない」ということは当然、「意味がわからなくてもいい」ということを意味しない。「理解する」でも話した通り、わたしたちの理解のプロセスは、すでに知っていることを知らないことへつなげることからはじまる。
 「文章を目に入れてはみたけれど、なんとなく読めない」というときには、上の三段階を下からチェックしてみてもらいたい。そうすると、読んでいるとき自分で思っているよりもはるかに、③で行きづまっていることが多い。
 だからもしも国語が苦手なら、まずは文の構造をしっかりとれるように、文法を学ぶことをおすすめしたい。まずは文の要素(主語、述語、修飾語……)と、品詞(名詞、動詞、形容詞……)の名前を覚え、それぞれの働きを把握するだけでも、一見複雑に見える文が読みやすくなるはずだ。品詞の中でも、用言(述語になれる品詞)と体言(主語になれる品詞)の理解、そして接続詞と助詞をおさえておくと、とくに文構造の把握に役立つ。現代語の場合、読解のためであれば活用表はそこまで神経質に覚えなくてもいい。けれど古文の場合には、英語と同じく品詞分解をおすすめしたい。そのためには、動詞と助動詞の活用表も頭に入れておく必要がある。現代文でも、本文中で重要な役割を果たしていそうなのにうまく読めない文は、英語や古文のように品詞分解をしてみてもらいたい。
 文法が分かっているのに一文がつかみづらい、というときには、使われている語彙でつまずいている可能性が高い。基本的な語彙はまず、漢字を覚えるときに一緒に覚えることをおすすめする。漢字一字の意味やイメージと、その漢字が使われた熟語の意味をそれぞれ覚えることができれば、知らない熟語にも対応しやすくなる。
 また、ある語彙を知るためには、その語彙が前提としている知識を知らないといけないことがある。「産業革命」「ナショナリズム」など歴史的な文脈と深く関連する単語や、「ダイバーシティ」「パンデミック」など現代的な問題と関連する単語、古文なら古典常識は、それらを知っている前提で文章が書かれていることが多々ある。よく出てくるワードは背景と合わせて覚えておくと、楽に読める文章が増えていく。

 さて、そのようにして一文をしっかり読むことから、いよいよ読解の練習に入る。
 「文章が読める」とは、先にもあった通り、「再現できる」つまり「読んだことを言い換えられる」ということだ。そのために、ぜひ要約に取り組んでみてもらいたい。要約とはつまり、文章から重要な部分だけを抜き出し、短くまとめることだ。むずかしそうに思うかもしれないけれど、はじめは単純でいい。主語と述語だけ、つまり「Aは/Bである」もしくは「Aが/Bした」というような形で、文のもっとも重要なところを抜き出す練習をしてみてほしい。「もっとも重要なところ」がなにか、というのもいろいろな意見があるけれど、とりあえずは「率直に読んだとき、頭の中に最後に残るところ」のようにとらえてもらえればいい。昔話で言うと、「桃太郎が/鬼退治をした」「白雪姫が/助かった」「人魚姫が/助からなかった」というのではじめはかまわない。
 もっとハイレベルなところでは、「これを言うためにこの文章が書かれている」というようなところが見つかれば、もっとよい。先に述べた通り、段落どうしもまた、文節どうしのように関係を持っている。つまり、重要な段落と、そうでもない段落があるのだ。注意深く読み、ある段落がある段落を支え、引き立てているのを見つけてみてほしい。その目を鍛えるためには、たくさん読むのがもっとも早い。ぜひすらすら読める程度の文章をたくさん読み、要約の練習をたくさんしてみてもらいたい。興味があるものの方が読みやすいと思うけれど、ただあまりに予備知識のある内容だと、要約をするときにもともとあった知識をあてにすることができてしまい、文章を読めたかどうかが判別しづらい。おすすめは、「詳しくはないけれど、興味はある」くらいの分野(「少しはみ出るくらいがいい」!)のことが書かれている本を買い、パートごとに要約していくことだ。中高生向けの新書にもいろいろな分野のことが書かれているから、探してみるといい。
 主語と述語でのシンプルな要約に慣れてきたら、そこに修飾語を足したり、二文に増やして間に接続詞を加えたりすると、より書けることが増え、難易度が上がる。けれどもそのときにも、文の骨格はあくまで主語と述語にあること、そしてあくまで大事な部分だけを抜き出すことを忘れないでいてほしい。
 そして、要約で何よりも大事なのは、要約が終わった後に、自分の要約した文章と元の文章を必ず読み返すことだ。元の文章を読んだあとの感触と、要約したものを読んだあとの感触との違いに対して鋭敏になる必要がある。うまく要約できていない状態というのはつまり、文章に書かれてあった論理と、自分の再現した論理とが、うまく対応していない、ということだ。「理解する」ためには、そのふたつをなんとかつなげなくてはいけない。だから、一度生まれた理解を点検・訂正していくことが、文章を理解する精度を上げるための特訓になる。

 はじめに書いた通り、「いかに読まないか」はまちがっている。では、重要なのはなにか。答えは単純で、「いかに読むか」なのだ。
 「読める」とは「読んだことを言い換えられる」ことだ。それはつまり、文章の中に書かれていること(内側の論理)と、そこから自分が行った理解、また自分のもともと知っていたこと(外側の論理)とが、適切につながっている状態にできる、ということだ。そのための学習には、まずは書かれている言葉そのものを適切に把握できるようにする方向と、書かれていたことと関連づけられる自分の素地を広く鍛えていく方向とのふた通りがある。前者は言葉の構造を把握すること、後者が言葉の持つ背景への知識をつけることだ。知らないことが書かれた文章の仕組みが分かることも、書かれていない知識と関連づけながら考えられることも、どちらも読む力である。そして、どちらかが欠けてしまえばそれがあなたの成長を止める天井となってしまうのは、「学ぶ」で「リービッヒの最小律」について述べたとおりだ。
 それに、読む力をつけていくことで、ほかの教科の学習にもつながる。文法理解が必要で長文読解もある英語は言うまでもない。ほかにも、次回詳しく説明するとおり、社会や理科の学習は「読む」ことを基幹としている。
 国語を侮ってはいけない。「読めていない」からはじめよう。

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著者略歴

  1. 向坂 くじら(さきさか・くじら)

    詩人。「国語教室ことぱ舎」代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」朗読担当。著書に第一詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)、エッセイ集『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)。現在、百万年書房Live!にてエッセイ「犬ではないと言われた犬」、NHK出版「本がひらく」にてエッセイ「ことぱの観察」を連載中。ほか、『文藝春秋』『文藝』『群像』『現代詩手帖』、共同通信社配信の各地方紙などに詩や書評を寄稿。2022年、ことぱ舎を創設。取り組みがNHK「おはよう日本」、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞などで紹介される。1994年名古屋生まれ。慶應義塾大学文学部卒。

  2. 柳原 浩紀(やなぎはら・ひろき)

    1976年東京生まれ。東京大学法学部第3類卒業。「一人一人の力を伸ばすためには、自学自習スタイルの洗練こそが最善の方法」と確信し、一人一人にカリキュラムを組んで自学自習する「反転授業」形式の嚮心塾(きょうしんじゅく)を2005年に東京・西荻窪に開く。勉強の内容だけでなく、子どもたち自身がその方法論をも考える力を鍛えることを目指して、小中高生を指導する。

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