コラム:勉強仲間は必要か?
向坂くじら
「勉強仲間」がいた方がいいという意見を、あなたも聞いたことがあるかもしれない。ともに勉強をする仲間がいると、たとえば情報交換ができたり、他人ならではの視点を聞けたり、さらには切磋琢磨やら励ましあいさえできたりするらしい。
あっ。いま読むのをやめようとしただろうか。ちょっと待ってほしい。この連載をここまで読んだうえで、わたしが急に「やっぱりひとりで勉強するよりみんなでやった方がいいよね、だから勉強仲間を作ろう!」なんて言い出すとあなたに思われているとしたら、それはなんというのか、さびしすぎる。
だいたい、ここまで読んでなおそんな誤解をするんなら、それはもうあなたにもいくらか原因がある。もう一回「はじめに」から読みなおしてください、と言いたいところだが、「『学ぶ』とは何か?」の項から一文だけふりかえるにとどめておこう。
これらは、あなたがたったひとりでもできることだ。いや、たったひとりのあなたにしかできないことなのだ。
前置きはこのくらいで十分だろうか。
ここからはそのうえでなお、「勉強仲間」にまつわる問題について考えてみたい。あなたがひとりで勉強していたら、人から「勉強仲間がいた方がいいよ!」と言われることもあるだろう。あなたがそのたびに不安にならなくてすむように、ここであきらかにしておこう。
勉強するのに仲間はいらない。むしろ反対に、ひとりでいつづけられるために、勉強をしなくてはならない。わたしがあなたに勉強をしてほしいのは、あなたにひとりでいられるようになってほしいからだ。
「勉強仲間がいた方がいいよ!」と言われるときの「勉強仲間」とは、おおむね「同じ目標に向かって、ある程度近い段階の勉強をしている人」というようなことを指していることが多そうだ。
けれど、この「同じ目標に向かって、ある程度近い段階の勉強をしている人」と一緒に勉強をしつづけるのは、なかなかむずかしい。これまでに確認してきたような学習法、つまり、
●自分に足りないものをチェックしつづけ
●「読めた」「覚えた」と思えるまで何度も繰り返し
●しかしその繰り返しそのものに逃げ込んでしまわないようにつねに方法を模索しつづける
というような学習法は、人と足並みをそろえて行うには不向きだ。あなたが「教わることに頼らない」一番の利点は、一斉授業に待たされたり、反対に置いていかれたりして、自分のできていないところから目を背けずに済むことなのを思い出してもらいたい。
たしかに「仲間」という言葉には、なにか甘美な響きがある。「仲間」なら、「教わる」のとは違って対等な、よりよい関係なのだ! と、つい思いたくなってしまうのもよくわかる。けれど、「一緒に勉強する」ことを目指してしまうのなら、結局みんなで授業を受けるのとそんなに変わらない。せっかくはぐれたあなたがふたたびそこへ戻ってしまうのは、ちょっともったいない。だいたい、どれだけ勉強熱心な仲間がいてもあなたが勉強したことにはならない。あなたが勉強するためには、あなたが勉強しないといけないのだ。なんだか同じことを二回言っただけのようになってしまったけれど、これが案外忘れやすい。
一斉授業が持つもうひとつの弱点についても、同じことが言える。
それは、似たような人たちによって構成された集団、同質な集団が作られやすいということだ。同時に授業をし、大勢をいっぺんに育てるためには、ある程度学習の進行度を合わせた集団を集める必要がある。その結果、教室で出会える相手はあなたとおおむね近い環境で暮らす、おおむね近い価値観を持った相手であることが多い(もちろん気の合わない奴はたくさんいると思うけれど、例えばあなたの家の三倍大きな家で、もしくは反対に三倍小さな家で暮らす人と比べたときの近さのことだと思ってほしい)。そして、一緒に勉強ができる仲間を求めるときも、簡単に出会えてしまうのは近い相手であることが多い。しかしそれもまた、やっぱりもったいないことではないだろうか。
あなたがしようとしているのは勉強である。テスト前に集まって「勉強してないわー」と言いあったり、お互いに共通点を見つけて喜んだりして、関係の維持だけが目的のような空虚な関係を維持することではない。そういうことからうまく逃れるためにこそ、あなたは勉強をしなくてはいけないのだ。空虚ではない関係がどこにもないとは言わないが、少なくとも空虚な関係の方が膨大にありふれているのは、あなたもすでに知っているんじゃないか。
そして、勉強の方法がわかっていること、それによって得られた知識があることは、自分の属している集団を冷静に見つめ、また知らない世界に対してひらかれていられる力を、あなたにくれるはずだ。あなたに勉強をしてほしいのは、あなたが近くて小さな関係性に依存させられたり、自分の異質さを怖がったりしなくてすむためでもある。
ただ、付け加えておくと、ひとりで勉強しているからこそ、「勉強仲間」ができることもある。「勉強(をするための)仲間」とか、もっと悪いときには「勉強(を口実にした)仲間」ではない、「勉強(を通じた)仲間」というようなものだ。
では、あなたの真の「勉強仲間」は、どこで見つかるだろうか。あえて勉強のペースを揃えなくてもいい、ときにはむしろそうしない方がいい以上、取り組んでいる勉強の進行度が同じである必要はない。いっそ、勉強でなくてもいいかもしれない。同じように、年齢や趣味が近いことも、たいして役に立つことではない(ただ、いま探しているのはあくまで関係を通じてあなたが勉強することであって、関係性そのものではない、ということを、ここでふたたび確認しておく。一緒に勉強をすることで関係を進展させて親友やパートナーなんかを手に入れたい、という要望については、わたしはあまり興味をもたないし、この連載の射程を超えてもいる)。
そうなるともはや、あなたの勉強仲間になる相手は、どれほどあなたと離れていてもいいと思わないだろうか。「同じ目標に向かって、ある程度近い段階の勉強をしている人」というようなイメージを捨て、「よりよい方向へ向かって進もうとし、修正と模索をつづけている」というところまで、あなたが仲間だと思える相手の範囲を広げてみてほしいのだ。すると、「やるべきことを持っている」という、あいまいで、しかしもっとも大切な部分だけで、あなたはいろいろな人とわずかに共通することができることになる。
そう思うと、テレビにうつるスポーツ選手も、歌手も、あなたのひらく本の作者も(つまりもちろんわたしも)、みんなあなたの仲間みたいなものだ。そしてそう思えることは、あなたを励まし、ともに悩み、あなたが自分の方法に新たな修正を加えるための補助線になってくれるはずだ。
そういう意味で、あなたには勉強仲間が必要だ。世の中にあるのが自分と同質なものだけだと思わなくてすむために。あなたがひとりだとしても、心配することはない。勉強をするというそのことによって、あなたは勉強仲間に出会うことができる。それも、ひとりでいるままで。
あなたはひとりであるからこそ、ひとりではない。同質な集団の中でしか勉強できないものたちが、ときに反射した自分自身の集まりのなかに身を浸しているにすぎないという意味で、どこまでいってもひとりであるのとは対照的に。あなたはひとりでいるからこそ、「勉強している内容が同じである」「年齢や育った環境や住んでいる地域が同じである」というようなどうでもいい理由ではなく、もっと普遍的で、それでいて貴重な理由で、他人とつながることができる。
一斉授業のようにみんなで一緒のことをするのではなく、それぞれがばらばらに自分のやるべきことに取り組んではじめて、異質な存在がともにいつづけることができるのだ。そういう場所がもっと増えてほしいと願ってやまない。
最後に、もしも実際につきあいのある相手、顔をあわせて話せる相手でも、そんなふうに思える誰かがいるのなら、やっぱりぜひ大切にしてもらいたい。自分のやるべきことを持っていて、かつあなたのやるべきことを尊重してくれ、話したあとにもかならずひとりに戻らせてくれるような相手がいるのなら、それは本当に貴重なことだ。
そういう人とかならず出会える魔法のようなやり方はない。けれど、まずはあなたがひとりで自分のやるべきことを持っていなければ、きっと出会えないだろうと思う。結局同じ結論に戻ってしまうのを許してほしい。
さあ、ひとりになるために、ひとりの場所から、勉強をはじめよう。出会うべき仲間には、そのことからしか出会えない。