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教わることに頼らないための自学自習法

コラム:勉強する理由は「楽しいから」か?

向坂くじら 

 ところであなたは、勉強することが楽しいだろうか。

 そしてひょっとしていま、そう聞かれただけで、ちょっと嫌な気持ちにならなかっただろうか。性格の悪いわたしなら、きっとなるだろう。しかも、言葉の外にある意味をあれこれと深読みして。

 「勉強とは楽しいものだ」、さらには、「だから、勉強するべきだ」と言う人がいる。勉強を勧めるものの常套句と言ってもいいかもしれない。言いたいことはわからないでもない。新しいことを知るのがおもしろい、という素朴な感覚は子どもでもあるだろうし、「考える」で説明したような、既知のことから未知のことへ、また未知のことから既知のことへ、高らかにジャンプできる筋道がつながった瞬間には、なんともいえない喜びがあるものだ。

 けれどそのうえで、なお疑問に思う。勉強することは、本当に楽しいだろうか。どちらかというと、苦しいことのほうが多いんじゃないだろうか。

 あなたに勉強することを勧めるものとして、この問題について、そしてわたしの深読みについて、ちょっと話してみたい。

 

 ここまで読んできたあなたにはわかってもらえると思うけれど、勉強するために、さらにはみずから勉強する力をつけていくためには、試行錯誤が欠かせない。自分自身が持っている思い込みを疑い、問いなおし、あらためていく必要がある。そのためには自分の得意なことよりも、今の自分に足りないことのほうを考えないといけない、というのは、「学ぶ」で話したとおりだ。その作業があまり愉快なものになりづらいのは、想像してもらえると思う。

 それに、勉強することの成果はそこまで速くも、わかりやすくも出ない。自ら反省して改善しないとならないことがある(ただ大量の問題を解いたり、結びつかないままの知識を詰め込んだりするだけで満足してしまっていないか、などなど)一方で、結果を急がずに根気よく反復しないといけないこともある(「覚える」まで同じところを読む、じっくり時間をかけて考える練習をする、などなど)。だからこそ自分で自分を観察し、「できるようになった」と自分でわかることも大事なのだけど、そのためにはまず「これができなかった」をわかっていないといけない。だから、勉強を重ねていくほどに自分の「できなさ」にうんざりしてくるのも、当たり前のことだろう。

 それになんたって、あなたには時間がない。なにか試験を受けるのならはっきりと期日が決まっているし、もしそうでないとしても、学ぶことはいつでも次の学ぶべきことを連れてくる。知らないことは無限にあるにもかかわらず、あなたやわたしはそのうち死ぬのだ。学校を卒業したあとだって、わたしたちは急がないといけない。さて、はたして、勉強することは本当に楽しいだろうか?

 だから、あなたに「勉強は楽しいのだから、するべきだ」と言う人がいたら、その人が勉強のなにをもって楽しいとしているのか、ちょっと注意してみてもらいたい。その人は勉強するとき、あなたのように試行錯誤を重ねているだろうか? できることばかりを満足げに数えるのではなく、できないことのほうへ向かっているだろうか? ときに自分の愚かさにうんざりし、日々の短さにため息をついているだろうか? もしそうでないのなら、その人が勉強を楽しんでいるように見え、そしてそれに比べてあなたは楽しめていないように思えるとしても、あなたが気にすることはなにもない。その人が楽しい程度にしか勉強をしていないだけだと思っておけばいい。

 ここで誤解のないように一応言っておくと、「だから、あなたは苦しむべきだ!」と言いたいわけではない。少数とはいえ、試行錯誤すること自体が楽しくてしかたないような、一種のマゾヒスティックな天才もいるものかもしれない。それにさっき話した通り、うんざりしながら勉強しているわたしのような凡人であっても、「理解した」瞬間には喜びがあるものだ。だから、「苦しくなければ勉強とは言えない!」という反対方向に極端な意見もまた間違っている。というかそれは「楽しくなければ勉強とは言えない!」の亜種にすぎず、どっちみちたいした意味を持たない。

 ともかく言いたいのはこういうことだ。勉強が楽しくないことは、あなたが勉強ができていない理由にも、ましてあなたが勉強をしなくていい理由にもならない。かといって特別価値も持たない、ふつうの、よくあることだ。

 

 そしてなにより、あなたの「楽しくなさ」こそが、あなたが勉強をする理由にもなるはずだ。「勉強をするべきなのは、勉強が楽しいからだ」というせりふを真に受けるのだとしたら、先に挙げたような少数の「天才」だけが勉強をしていればいいことになってしまう。もとから能力に差があるのは、なんだか不平等だと感じるだろうか。けれど、自分が「天才」でないことを理由にあなたが勉強をしなくなってしまうのなら、それはそのままあなたが不平等を支持することになってしまう。

 そもそも「天才」という言葉がなんだかあやしい、と思ったのなら、あなたはするどい。仮に、生まれつきなにかの能力を持っている人のことを「天才」と呼ぶのなら、それはいわゆる「頭のよさ」だけの問題ではない。生まれた地域や、貧富や、周りにいる人たちの性質によって、わたしたちは大きな影響を受ける。だから天才なんていない、と言うこともできるかもしれない。しかし同時に、そういう広い意味での「生まれ持ったもの」の差は、確かにある。「勉強を楽しめる」という能力にもまた、そういう外がわの要素が大きく影響する。

 そしてわたしは、「生まれ持ったもの」の多い人たちだけが勉強をし、そうでない人たちは「楽しくないなら、しなくてもいい」とみなされて、勉強をしないままでいる世界を、あまりいい世界だとは思わない。「はじめに」で述べたように、勉強することはあなたが自由になるための力をつけていくことにつながる。すでにある不平等を呑み込まされないようにするために、あなたは勉強をしないといけない。「勉強が楽しくないとしても」ではない。「勉強が楽しくないからこそ」、そのあなたが勉強をすることに価値があるのだ。

 ひとりで学びはじめるあなたには、つまり、これからきっと何度もうんざりするであろうあなたには、そのことを覚えておいてもらいたい。もう一度言っておこう。

 勉強が楽しくないことは、あなたが勉強ができていない理由にも、ましてあなたが勉強をしなくていい理由にもならない。

 これから勉強をするかぎり、自分の「できなさ」を睨みつけ、つぎつぎに振り切っていかないといけないあなただ。せめて自分の「楽しくなさ」とは、なんとか連れ添っていくのがいいだろう。そして、同じようにひとりでうんざりしながら勉強しているわたしたちのような凡人がいることを、ときどき思い出してもらえるとうれしい。

 

 最後に余談として、ちょっとだけ大人たちの肩を持っておこう。「楽しいから」とあなたに勉強を勧める大人たちは、必ずしもあなたを都合よくごまかしたいだけではない。かといってなにか生まれ持っただけの「天才」でも、単に試行錯誤をさぼっているだけでもない。十分に苦しんだうえで、しかし本心から勉強が楽しいと言っている大人も、ときにはいるのだ。

 正直に言うと、その気持ちがわからないわけではない。おおむね勉強が苦しいわたしのような凡人であっても、だ。けれどそれはなんというのか、「楽しいから、勉強しよう!」と勧めるには、ちょっと頼りない。苦しいこと、うんざりすることが山ほどあって、その中に時たま楽しい瞬間が、それも予期せずに訪れる、という程度のことにすぎない。あまりにささやかで、どこか暗い楽しみなのだ。収支でいえば完全に赤字だ。

 けれど、その効率の悪い喜びに惹きつけられ、中毒のように苦しみながら勉強をする大人たちがいることも事実だ。そして、もしそのためにあなたが勉強をしたいというのなら、そしてそれに付随するたくさんの苦しみをも引き受けてくれるというのなら、きっと大喜びであなたを歓迎するだろう。

 

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著者略歴

  1. 向坂 くじら(さきさか・くじら)

    詩人。「国語教室ことぱ舎」代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」朗読担当。著書に第一詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)、エッセイ集『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)。現在、百万年書房Live!にてエッセイ「犬ではないと言われた犬」、NHK出版「本がひらく」にてエッセイ「ことぱの観察」を連載中。ほか、『文藝春秋』『文藝』『群像』『現代詩手帖』、共同通信社配信の各地方紙などに詩や書評を寄稿。2022年、ことぱ舎を創設。取り組みがNHK「おはよう日本」、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞などで紹介される。1994年名古屋生まれ。慶應義塾大学文学部卒。

  2. 柳原 浩紀(やなぎはら・ひろき)

    1976年東京生まれ。東京大学法学部第3類卒業。「一人一人の力を伸ばすためには、自学自習スタイルの洗練こそが最善の方法」と確信し、一人一人にカリキュラムを組んで自学自習する「反転授業」形式の嚮心塾(きょうしんじゅく)を2005年に東京・西荻窪に開く。勉強の内容だけでなく、子どもたち自身がその方法論をも考える力を鍛えることを目指して、小中高生を指導する。

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