明石書店のwebマガジン

MENU

教わることに頼らないための自学自習法

すべての勉強は、「読む」ことからはじまる。

向坂くじら

1.

 最初に宣言しておこう。すべての勉強は、教科書や参考書を「読む」ことからはじまる。
 「勉強する」というとなんとなく、机に向かってカリカリ鉛筆を動かし、問題を解きまくる……みたいなイメージを持たれがちなことを、わたしはとても不満に思っている。学校や塾が説明はそこそこに問題ばかり解かせているせいもあるだろうし、漫画やドラマの影響もあるだろう。
 その気持ちはよくわかる。なんたって、「読む」ことはとても地味だ。手を動かすわけでもなく、はたから見ているとぼーっとしているのと見分けがつかない。鉛筆をカリカリさせておけば観客に伝わりやすいし、先生も生徒がさぼっていないと思えて安心しやすい。学んでいる当人さえ、実際には頭に入っていなくても、手を動かしているだけでつい安心してしまったりする。わたしもよくよく身に覚えがある。
 ひとりで勉強できるあなたは、もちろん観客や先生に対する演出をする必要はない。それは気楽でもあるけれど、同時に、自分で自分をごまかして安心してしまわないように気をつけないといけない、ということでもあるのだ。
 ということでまず、地味だけどごまかしのきかない、「読む」ことからおすすめしたい。


 さて、では、「読む」とはなんだろう。そのことを考えるために、遠まわりに思えるかもしれないけれど、「読めない」ということから話をしてみよう。
 たとえば、わたしは数学が「読めない」。単に苦手なんだと思ってきたけれど、あるとき数学が言語であると聞いてびっくりした。数学ができないというのはつまり、「読めていない」ということになるらしい。日本語以外の言語でいうのなら、英語なら数学よりはよほど読める自信がある。しかし、小説やウェブニュースぐらいまでは読めても、ちょっと専門的な内容になると一気に「読めない」に入ってしまう。
 そして肝心の日本語でも、「読めない」本がたくさんある。わたしの個人的な「読めない」代表がヘーゲルという哲学者の書いた本で、これが何回読もうとしても歯がたたない。興味があったら図書館や本屋さんに行って開いてみてほしい。
 わたしの三つの「読めない」は、それぞれ別の要因を持っている。「読めない」には階層があるのだ。そして「読めない」を知ることが、「読む」ための大事な手がかりになる。わたしの例を使って考えてみたい。
 いちばん苦手な数学が「読めない」のは、「そもそもそれがどのようなルールで記述されているかがわからない」からだ。英語なら、ルール=文法の基本を知っているぶん、数学より読める。けれど専門的な内容になると、また「読めない」へ戻ってしまう。それは、そこで出てくる単語の意味や、慣用的な使い方を知らなかったり、忘れていたりするからだ。つまり、「記述のルールの大枠はわかっているけれど、使われている言葉を覚えていない」という「読めない」になる。そしてさらに、その問題は(ある程度)クリアできるはずの日本語にも、「読めない」ものがある。そういうときのわたしは、「ルール(文法)も単語の意味もわかっていても、言葉と言葉のつながりがわかっていない」。
 ここではわかりやすくするために順番に話したけれど、実際三つの階層は一直線に並んでいるわけではない。わたしの例で言うのなら、英文どうしのつながりで引っかかることもあるし、日本語に知らない単語が出てくることもある。だから、「読めない」ものを読んでいくためには、いくつかの階層を行き来しながら、自分の「読めない」の原因をさぐっていく必要がある。
 つまり「読める」ようになるためには、まず自分の行き当たっている「読めない」を分析することが必要だ。なんだか当たり前のことになってしまうけれど、誰でもあるものは読めて、あるものは読めない。わたしにも読めないものはあったし、今もある。
 「読めない」を考えることからはじめよう。あなたがいま「読めない」と思っているのなら、それ自体が「読む」ことへの第一歩へつながっている。


2.

 では、どのように「読めない」ところから「読む」ことをはじめられるだろうか。
 ここでは最も多いであろう、三つめ、「言葉と言葉のつながりがわかっていない」場合にかぎって説明しよう(なお、一つめと二つめ、「ルール(文法)がわかっていない」「単語を覚えていない」ときには、それぞれこの後に続く第4回「理解する」第5回「覚える」の回を参照してもらいたい)。


 まず、「読む」とはどういうことかを説明していこう。勉強には「読む」ことが欠かせない。問題を解いたあとには解説を読まなければいけないし、暗記するときにもまず説明を読まなければいけない。しかしその「読む」とは、そもそもどういうことなのだろう。
 読むことは、「並んでいる文字列や数式をわかろうとする」ということからはじまる。大事なのは「わかろうとする」ということだ。ただ目で追っただけで「わからない」と決めつけてしまうのはもったいない。どんな文章も、一回さらっと読むだけでわかる人なんてそうそういない。一見わからないように思えた文章も、くりかえし読んでいると、じわじわとわかる部分が出てくる。全部はわからなかったとしても、わかる部分とわからない部分とがはっきりしてくる。
 ここまで、「わかる」とはなにかを説明せずに話を進めてしまった。さしあたって、「わかる」=「テキストを見ずに、それを自分で再現できる状態」としておこう。言い換えたり具体例を出せたりするともっと頼もしいけれど、まずはそのまんま言ったり書いたりできれば十分だ。「そのまんま言ったり書いたりする」のも、意味がわかっていないと案外きつい。赤ちゃんが大人の言葉を真似しながら言葉を覚えていくように、わからないテキストを再現することで、あなたのなかに意味を考えることがはじまってくる。


 そうして少しずつ書かれていることの意味がわかってくると、「なぜ?」と思う箇所にかならず行き当たるはずだ。そうしたら、まずは前に戻って読み返してみることをおすすめする。一部分だけではうまく入ってこなかったところが、「文脈」=前の文とあとの文のつながりをたどることで、なんとなくしっくりきはじめることも多い。
 しかし、それだけでは解決できないものもあるだろう。そういうときには、その疑問を抱えたまま先に進んでいってかまわない。少し先を読むとあっさり疑問が解決したり、前の「文脈」をたどったのと同様、今度は次の「文脈」からも類推できたりする。
 意外に思えるかもしれないけれど、「読む」のがうまい人ほど、そこの判断がうまい。言い換えるとしたら、自分の「読めない」にきちんと気づくことができる、と言ってもいい。もう一度くりかえしておこう。ひとりで勉強しているあなたは、自分で自分をごまかす必要はない。「わかろう」としてもなお「読めない」ところは「読めない」のだと認めて、そのまま進んでかまわない。
(何回読み返しても、前を読んでもあとを読んでも一向にわからない、ということもしょっちゅうある。そういうときも、とりあえず諦めるのをおすすめする。別の本を調べるのもいいけれど、いかんせん面倒くさいし、時間もかかる。だから、自学自習の初心者にとっては、「その本に載っていないものは諦める」くらいの大胆な姿勢の方が勉強を続けやすい。あなたが自学自習をはじめられたとしたら、それはあなたが思っているよりもはるかに貴重なことなのだと思ってほしい。続けられることをなにより優先しよう。)
 「なぜ?」という思いは簡単には消えない。一旦諦めて次に進むことにしたとしても、心のなかにはきちんと残っている。その証拠に、初めの本をしっかりと読み込むことができた後にその「なぜ?」が自然にわかってきたり、他の本に書いてあったときに気づけたりする経験を、あなたもこれからするはずだ。


3.

 ひとまず、「読む」ということを説明しなおしてみよう。
 ここまでの内容をまとめると、「読む」とはつまり、

「意味をわかろうと努力する(そのためにまず見ないで再現できるようにする)」→「『なぜ?』が浮かんでくる」→「それを考えたり前に戻って読み返したりして解決すればよし、解決しなかったらそれを抱えたまま先を読んでいく」→ ……

という一連の流れであると言えそうだ。
 さて、どうだろう。ここまでしてはじめて「読んだ」と言えるとしたら、あなたは今まで教科書や参考書を「読んで」いただろうか。もしそうでないと思うのなら、あなたは「読んだけれど、読めなかった」わけではない。単に、これまで本当の意味で「読んで」こなかっただけだ。もちろん、あなたのせいだと言いたいわけではない。「読む」ということをきちんとあなたに教えてこなかった大人たちのせいである。
 「読む」ことに関して勉強が苦手だった人がもれなく勘違いをしていることがある。それは、「勉強が得意な人は、読み直す回数が少なくとも、読み直す範囲が狭くてもだいたい理解できている」ということだ。
 実際には、教科書や参考書を1,2回読むだけで理解できるほど勉強が得意な人、というのはほとんどいない。あなたの知りあいで優秀だったあの子どころか、全国模試でいつも上位掲載のあの子ですら違う、という意味で、ほとんどいない。人間の理解力なんて、新しいことを学ぶときにはそんなに大差はない。大きく差をつけているのは、少し読んだだけで「自分にはわからない……」と決めつけてしまわないかどうかである。それなら、あなたもくりかえし読む習慣を身につければいい。


 はじめに言ったことに戻ろう。すべての勉強は「読む」ことからはじまる。あなたがひとりで勉強をしたいと思うのなら、なおさら。もっと正確に言えば、どの地点にいたとしても、「読む」ことははじめられる。「読む」こととはつまり「読めない」を発見し、分析して、少しでも多く「わかろうとする」道のりだからだ。
 授業を黙って聞くことにくらべて、「読む」ことの便利な点はびっくりするほど多い。まずはなにより、何回もくりかえし読めること。「くりかえし読む」ことがどれほど大切か、この章で何回も書いてきた。しかし、授業を聞いているだけではそれができない。先生には「質問をすればいい」と言われるかもしれないけれど、真剣に考え、わかろうとしているときに行き当たる「なぜ?」の数は、いちいち質問をしていては到底追いつけないほどになるはずだ。くりかえしになるけれど、あなたにはこの「なぜ?」をまずなにより大事にしてほしい。そのためには、あなたが何度もつまずき、ふりかえり、行ったり来たりできる環境が必要なのだ。理解につまずくことは悪いことではない。それこそが、あなたの学びを深めていく唯一の道である。
 それに、読むことで勉強できれば、いちいち先生の顔色をうかがう必要もない。人間関係というのはやっかいで、良くも悪くも学習の成果に影響してしまう。めったにいないいい先生に出会えればラッキーかもしれないけれど、いつまでもその先生に教わりつづけるわけにはいかない。読むことはつまり、人間関係と離れたところで勉強ができるやり方である。それを早くから身につけておくことは、かならずあなたの役に立つ。
 授業はだめでも、動画なら巻き戻せるしひとりで見られるからいい、という人もいる。たしかに、いまは動画がたくさん作られていて、すばらしい動画も多い。けれど、読み返すのに比べてやや手間がかかるのを気にしないことにするとしても、動画には欠点がある。あなたがこの先人生で勉強することをすべて動画だけですませるのは不可能だろう、ということだ。五教科の勉強を越えて学びつづけるとき、あなたはどこかで必ずもう死んだ人たちの考えに行き合う。解説してくれる動画ぐらいは運良くあったとしても、それが本当にあなたに必要な叡智だったなら、それを文字で確かめなければ、誰かの語り口が正しいものと信じるしかなくなってしまう。文字で書かれていれば、何度でも読み返してそれがおかしくないかを考えることができる。人類の記録媒体としての動画の歴史がたかだか100年あまりであるのに対して、文字、本の歴史は5000年である。何度でも確認できるテキストを読んでの自学自習だけが、様々なメディアの変遷を超え、あなたが長い間、遠くまで旅するための強力な武器となる。


 だからこそ、読むことが苦手ならなおさら、読めるようになることを目指して自学自習をしていくことをおすすめする。
 最後にしつこく念押ししておこう。そのためには、

「一、二度狭く読んでもわからないのは当たり前!」であるという事実を踏まえて、ぼやっとわかるまでいろいろな範囲で何度も読み返す、という習慣を身につけていくこと

が必要だ。

 

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 向坂 くじら(さきさか・くじら)

    詩人。「国語教室ことぱ舎」代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」朗読担当。著書に第一詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)、エッセイ集『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)。現在、百万年書房Live!にてエッセイ「犬ではないと言われた犬」、NHK出版「本がひらく」にてエッセイ「ことぱの観察」を連載中。ほか、『文藝春秋』『文藝』『群像』『現代詩手帖』、共同通信社配信の各地方紙などに詩や書評を寄稿。2022年、ことぱ舎を創設。取り組みがNHK「おはよう日本」、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞などで紹介される。1994年名古屋生まれ。慶應義塾大学文学部卒。

  2. 柳原 浩紀(やなぎはら・ひろき)

    1976年東京生まれ。東京大学法学部第3類卒業。「一人一人の力を伸ばすためには、自学自習スタイルの洗練こそが最善の方法」と確信し、一人一人にカリキュラムを組んで自学自習する「反転授業」形式の嚮心塾(きょうしんじゅく)を2005年に東京・西荻窪に開く。勉強の内容だけでなく、子どもたち自身がその方法論をも考える力を鍛えることを目指して、小中高生を指導する。

閉じる