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教わることに頼らないための自学自習法

考えるとは何か? 制約と跳躍

柳原浩紀

 ここまでで、様々な自学自習のためのツールの準備ができた。さて、ここでようやく考えることについての話ができる。

 考えることの大切さは強調されるが、この言葉が何を意味するのかは難しい。「考えなければ、結局本当の実力はつかない!」というアドバイスは正しい一方で、これまでの他の取り組みと比べても、「考える」ことこそ学習者が自分で取り組むしかないものとされがちでもある。しかし、ここでまず最初に伝えたいのは未知の問題に取り組もうと考えるためには、様々な条件を踏まえていないとそもそも考えられない、ということだ。

 もちろんここまで書いてきた「読む」「理解する」「覚える」「言語化する」をやっていく中でも、「考える」という行為を含んでいる場合は多かったはずだ。自学自習のために一つ一つのやり方をしっかりと定義していこうとすると、それらが独立のものではなくてやはり相互につながっていることがよくわかってくる。そして、それらをつなげるときに最もよく使われるのが、「考える」という取り組みである。だからあなたは、ここまでの勉強の仕方をしっかりとたどってきているのなら、未知のものと既知のもののギャップを埋めようと各々の取り組みの中で努力しているはずだ。それがつまり、「考える」ということである。

 しかし、今まで話してきたこととは違う点もある。たとえば「理解する」ときに自分にとって当たり前の知識へと結びつけようと考えるのは、ゴールが見えている状態での努力である。もちろんそれは簡単ではないにせよ、しかし、ゴールが見えないままに考える(少なくとも未知の問題を解くときにはあなたはこう感じるはずだ)のとは、やはり難しさが違うように感じるだろう。だとすると、未知の問題について考える、ということにはどう取り組めばいいのだろうか。

 ここまでを整理すれば、考えるとは未知のものと既知のものとのギャップを埋めようとすることである。理解することがあなたにとっての当たり前となっている知識に結びつけていくこと(未知→既知のギャップを埋めること)だとしたら、それとは逆方向にあなたにとっての当たり前の知識から何が出てくるのか、を推論していくことが未知の問題について「考える」(既知→未知のギャップを埋めること)ということである。

 

 ゴールが決まっていない状態で考えるからこそ、このような試みは必ず何度も間違えることになる。言語化のところで軽々と間違えることの大切さを書いたが、同じように、未知の問題について考えることもまた、最初はほぼ間違いばかりだといってよい。自分にとっての当たり前がいくら増えようと、それだけでは答えの出ないものに対して、最初から正解を出すことはできない。むしろ、考えるとは間違えることを嫌がらない、ということでもあるだろう。

 またもちろん、自分にとっての当たり前の知識が少なすぎる状態では、そもそも考えることなどできない。土台となる知識がないままに考えようとしても、それは単なるあてずっぽうであり、仮に万一当たったとしても、再現性のない正解でしかない。考えるためには、知っていなければならない。しかし、知っているだけでは、考えられない。考えるとは既知から未知へのジャンプである。

 そして、そのジャンプのためには、言語化しようとしていくことが必要だ。言語化のところでも書いた通り、言語とは線的であるからこそ、多様な現実を一度にとらえられないという限界がある。一方で、線的であるからこそ、そこから次に何が言えるか、ということを予想して考えるためのツールにもなる。逆に面的なままでとらえているときには、複雑すぎて、次の予想など出てくるはずもない。この点からも、言語化をする、ということが考えるためには必要である、ということはまずあなたに伝えておかねばならない。言語は多様な現実を単純化してしまうという弊害を持つが、それだからこそ予測のツールにもなりうるのだ。そのことを教わらないまま、「しっかり考えなさい!」と言われても、難しいだろう。

 一方で言語が多様な現実を単純化してしまうことは、その線的な予測が現実から大きく食い違う可能性をいつでも持っている、ということでもある。だからこそ、間違えることを前提としての試行錯誤がとても大切であり、未知の問題に対して最初からは正解を導けなくて当たり前、むしろ導けてしまえばそれはただ自分の知っていることにすぎなかった、と捉えることが大切だ。そしてここに関しては、どんなに勉強が得意な子であっても条件は同じだ。未知のものに対しては試行錯誤しつつ、言語化による線的な予測が、現実から離れていないかどうかを確認していくしかない。

 そうした、①自分にとっての当たり前の知識が不足していないかどうか、さらにはそれらを、②言語化することで出てくる線的な予測を利用しようとしているかどうか、これらは考えることについて、あなたがまず初めに確認しなければならない条件である。それと同時に、当たり前になっている知識を増やし、言語化や線的な類推力こそが大切であることを教えてもらえるような素晴らしい授業を受けていても、あなたはその最後の一瞬で、自分で試行錯誤をしていかなければならない。だからこそ、考えるという行為はあなたしかできない孤独な取り組みにならざるをえない。

 あなたにとっては多くの場合、未知の問題を考えることは「問題を解く」ときに求められることが多いだろう。問題を解いているだけでは解けるようにはならない、ということを以前に書いたが、その理由は解くことが既知のものをなぞるだけに終始してしまっていることが多いからだ。未知の問題をどんなに覚えて既知の問題を増やしたとしても、それは新たな未知の問題を解くことには直接はつながらない。また、記憶力にも限界はある。だとすると、問題を解くことが未知の問題を解けるようになることにつながっていくためには、未知のものについて考えるという行為を練習する必要がある。

 そのためには、あなたの当たり前の知識の中で、どれが目の前の未知の問題を考えるための土台として関連するのかを分析する必要がある。関係の深くないことから目の前の問題を解こうと努力しても、その既知→未知のギャップを埋めることは難しいからだ。そしてこの分析にもまた、言語化は必要となる。未知の問題を考えるということが既知から未知とのギャップを埋めるためのジャンプであるなら、どこからジャンプすれば届くのかを探さずに、むやみやたらにジャンプするのは無謀だ。ジャンプする幅は小さければ小さいほどよい。そのためには目の前の、③未知の問題があなたの当たり前の知識の中でどれと距離が近いのかを選べるようにならねばならない。

 また、正しい答えにたどり着くまでには試行錯誤のプロセスこそが大切だ。そして、その試行錯誤のプロセスでは、④頭の中にあることを書き出し、書き出したことからフィードバックを受けて、再びそれについて考える、ということが必要となってくる。考えるとは、言語の線的な性質を利用した予測であるとして、その線的な予測が本当に現実をとらえているのか、そもそもどういう意味合いを持っているのか、ということをチェックするためには、頭の中でぼんやりと漂わせているだけではダメで、実際に書き出してみなければわからない。書き出したことをじっくりと吟味してみて初めて、「こうではないか?」と最初に予測したことが現実をとらえているのか、それともどうにも違う方向性に進んでしまっているのかを私たちはチェックすることができる。

 

 と、ここまでを読んでもらえばわかるように、「考える」ということには、とにかく時間がかかる。あなたにとっての当たり前の中から適切なものを選び、言語化による線的な予測を立て、それが実際に現実に合っているかどうかを書き出してはチェックしていく、というように。逆に時間をかけないで考える、ということはどのような天才にもできない。あなたの解けない問題に対して誰かがすぐに答えを出せるのは、あなたにとっては未知の問題であったとしても、その人にとっては既知の問題である、というだけである。未知の問題に瞬時に答えを出せる人など、実は地球上に一人も居ない。だからこそ、考えることには十分に時間を取っていかねばならない。

 そしてそのためには、ここでも「とにかく大量の問題を解けばいい」というのが有害であることに気をつけよう。大量の問題をこなすことができるのなら、あなたにとってその問題は既に既知であるので、考える必要のないアウトプットの練習になっているだけだ、もちろんそれはそれで必要だが、それは未知の問題を考える練習にはならない。あなたにとって未知の問題を大量にこなすことは、考えることに時間をかけるべきである以上、物理的に不可能である。だからこそ、あなたが「考える」必要のあるレベルの問題を解くときには、問題数は徹底的に絞り込まねばならないことになる。考える時間を確保せずに大量に解く、などというもったいないことをしてしまっては、あなたの考える力は決して伸びないだろう。

 既知から未知へのジャンプを成功するためには、足場(自分の持っている知識)をしっかり確認し、どの足場からが一番近いか(その中でどれを選ぶか)を選び、そのうえで、自分のジャンプ力でそれが飛べそうであるか、頭の中で線的類推(言語化による補助線)を引かねばならない。失敗しても断崖からジャンプするのとは違う。それはそれで大切な試行錯誤の一つだ。しっかりとその失敗を記録し、どこが失敗であったのかを再び言語化によってチェックしていけばよい。そのようにして、より精度の高い補助線や、より精度の高い足場選びができるようになっていく。それが未知の問題を考える力である、と言える。

 ここまでを踏まえてみると、未知の問題を「考える」と何となく言われていることが、複雑な条件を満たしていないと難しいということがわかるだろう。考えるためには、必要な条件のうち、あなたに足りていないものをまず準備しなくてはならない。そのうえで、どれが目の前の問題に関連があるか、どれは関連がないか、またそれはなぜか?なども言語化できなければ取捨選択の基準も作れない。さらに言語による線的な予測と、それが現実に即しているかをチェックするための試行錯誤を何回も必要とする。その試行錯誤は、大抵の場合が失敗である。何が失敗であったかをていねいに分析するために、試行錯誤の過程を書き出していかねばならない。書き出すことによって私たちはそこからフィードバックを受け、自分の頭の中にあった線的な予想自体が現実を捉えているかどうかを自分が考える対象として捉え直すことができる。未知の問題を考えるためには、これらすべての条件を踏まえる必要がある。

 そうした条件を踏まえる必要があるという制約は、考えるという行為のヒントとなる。未知から既知へのジャンプだけでなく、既知から未知へのジャンプもまた、既知という制約をじっくりと見つめることから、そのジャンプへの補助線の引き方が見えてくることになる。

 

 まとめよう。自学自習では考えるために必要な4つの要素(①~④)を自分が踏まえているかどうかを確認できる。そしてそのうちのどれかが足りなければ、まずはそれを補う努力からしていくことができる。そして何より、これらの時間がかかる取り組みに、必要なだけ時間をかけることができる。その点でも自学自習は考えることにも向いていると言える。

 考えることは誤りを生み出す場合の方がはるかに多い、というのは「正解」をてっとり早くほしがるならイライラの原因でしかないだろう。しかし、実はそれがまた私たちにとっても大きな可能性でもあると言える。考えた結果がありきたりの現実と違ったら、その考えた結果には価値がないのだとしたら、すべての文学や詩は無価値なものになってしまうはずだが、私たちの多くはそうは思わないはずだ。詩や文学とは、比較的見えやすい現実を足場に想定された一本の補助線が、私たちに普段見えていない現実について、それを指し示すものとなっているものを呼ぶときの名前である。あるいは錬金術という実現不可能な目的のための試行錯誤がどれほど化学を発展させたのかを考えてもよい。試行錯誤した中での誤りは次の思考や発見の宝庫でもあるので、決して無駄にはならない、というのはあなたの勉強においてもまた言えることだ。さらに言えば、考えた結果が現実と違うとき、そこで想定されている現実自体が間違っている、ということもある。その時代の大多数が少なくとも理論的現実だと信じている理論が、一人の「妄想」とされるものによって覆されるなどということは天動説に対する地動説だけでなく、実際に科学史の中で繰り返し起きてきたことでもある。

 考える、ということはあなたが何かを学ぶときやそれを少しだけ応用するときにだけ必要なことではなく、あなたが新しい何かを生み出すときに最も必要なことである。そして、新しい何か、とは常に我々が現実とは思っているものに新たな一面を見せてくれることでもある。思いがけなく引かれた線が現実の気づかなかった「一面」を新たに構成していくように、だ。

 一方で、現実と食い違う結果にはすべて意味がある、というものではない。そこでは言語による線的な連続性があるだけではなく、試行錯誤のプロセスの中でどのようにも現実を捉えていない誤った推論があってはならない。その点で、考えた結果は自由であるとはいえ、それが現実の一側面を確かに描いているかについては、そのプロセスや前提条件を(万人にではなくとも)他の人に共有できるかどうかが厳しく問われる、という制約がある。だからこそ、考えることこそ、様々な条件を満たして取り組まれる必要があると言える。

 考えるための条件をしっかりと満たしたうえで、考えるということにじっくり時間をかけることが大切だ。自学自習をするあなたは、その時間をたくさんとることができる。考える方法を正しく踏まえたあなたがじっくりと考える時間を取ることは、あなたの可能性を広げるだけでなく、この社会全体の可能性を広げることにもつながるのではないか。私はそう信じている。

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著者略歴

  1. 向坂 くじら(さきさか・くじら)

    詩人。「国語教室ことぱ舎」代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」朗読担当。著書に第一詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)、エッセイ集『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)。現在、百万年書房Live!にてエッセイ「犬ではないと言われた犬」、NHK出版「本がひらく」にてエッセイ「ことぱの観察」を連載中。ほか、『文藝春秋』『文藝』『群像』『現代詩手帖』、共同通信社配信の各地方紙などに詩や書評を寄稿。2022年、ことぱ舎を創設。取り組みがNHK「おはよう日本」、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞などで紹介される。1994年名古屋生まれ。慶應義塾大学文学部卒。

  2. 柳原 浩紀(やなぎはら・ひろき)

    1976年東京生まれ。東京大学法学部第3類卒業。「一人一人の力を伸ばすためには、自学自習スタイルの洗練こそが最善の方法」と確信し、一人一人にカリキュラムを組んで自学自習する「反転授業」形式の嚮心塾(きょうしんじゅく)を2005年に東京・西荻窪に開く。勉強の内容だけでなく、子どもたち自身がその方法論をも考える力を鍛えることを目指して、小中高生を指導する。

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