言語化すること、つまり、軽々と間違えること
向坂くじら
さて、ここまで読んできたあなたは、すでに「言語化する」ことが必要だと気がついているかもしれない。読んだ内容を理解しているか確かめるために再現しようとしたり、覚えたことを説明したり、自ら「なぜ?」「どこ?」と問うてみたりすることが、自学自習のためには欠かせない。そういうとき、書いたり、口に出して言ったりすることがあなたの助けになるのはもちろん、実際には言いも書きもしていなかったとしても、頭のなかでは言葉に置き換えて考えるはずだ。学びはじめようとするとき、「言語化する」ことはかならず役に立つ。
では、その「言語化する」とはどういうことなんだろう?
……と、言ってはみたものの、実はわたしは「言語化する」という言いかたがあんまりしっくりきていない。最近よく聞くようになった言い回しだけれども、ちょっとあやしいと思っている。たとえば、「Aを言語化する(Aが言語化される)」と言うとしよう。すると、まるで言葉ではない「A」というものが先にはっきりそこにあって、さらにその「A」がもとのボリュームを保ったまま「言語」というかたちに変身できる、みたいなイメージが浮かばないだろうか。けれど、そのイメージは実態に則していない。
試しに、自己紹介をしてみよう。この文章を書いているわたしは1994年生まれで、関東に住んでいる。料理と読み書きが好きで、詩人として作品を発表しながら、国語の塾をひらいている。身長は1.6メートル、右目が近視で左目が遠視だ。運動神経がとても悪くて、50メートル走るのに12秒かかるし、よく転ぶ。
こんなふうに「言語化」をしてみると、たしかにわたしという人間のある面を言葉で説明することができる。けれど同時に、とてもたくさんのことを書きそこねてもいる。
たとえば、わたしは泳ぐのが好きだ。運動が苦手ではあるけれど、下手の横好きというものもある。それからよくゲームをする。こちらも決して上手いとは言えないが、それなりに楽しくやっていて、日々のいい気晴らしになる。でも、そう言うと驚く人が多い。読書が好きで、しかも国語の先生となると、水泳やゲームなんかやらないだろうと思われているらしい。さっきの小さな自己紹介でも、多くの人がそんなふうに受け取るだろう。
つまり、わたしのした自己紹介は、わたしという人間を「言語化」するのにぜんぜん足りていない。そしてそれは、単に短くて適当な自己紹介だったから、というだけではない。もし、この連載をまるごと使ってわたしが自分について語ったとしても、やっぱりなにかを語りのこすだろう。「自分」や、「人間」だけではない。どんなものでも、ある対象を「言語化」しようとするとき、わたしたちはその対象のことをすべて語ることはできない。
だから、「Aを言語化する」と言ったときにイメージするような、なにかがあって、それを「言語」というかたちにそのまま置き換えるような「言語化」なんて、本当はありえない。「Aが言語化される」とき、かならずAのある部分がそこから欠ける。けれどそれは、「言語化しようとしても、かならず失敗する」とか、「だから、言語化することには意味がない」とかいうことを意味しない。むしろその欠けこそが、あなたが「言語化」をうまく使うポイントなのだ。すべてをそのままに「言語化」できないからこそ、あなたが「言語化」をすることには意味がある。
どういうことか。「理解する」で話した、「理解したかどうかチェックするために、自分でイチから説明をしてみる」というプロセスを例に考えてみよう。もう一度確認しておくと、理解するとは「自分の中で既にあたりまえになっている知識へと、新たに学ぶ内容を結びつけていくこと」だ。つまり、ある内容をあなたが理解したということは、それがあなたの中で他の知識と結びついた、ということだ。さらに、その結びつきは分かりやすく一対一で対応するものではない。あなたがこれまで得てきたいろいろな知見や経験と、ときに部分的に重なり合い、ときには反対に違いを映しだし、あちこちを縦断したり横断したりして、複雑に絡みあっていないだろうか。そのような状態を仮に、縦横に広がる面的な理解としておこう。
けれどそれを説明しようと思うと、面のまま出力することはなかなかむずかしい。話し言葉も書き言葉も、二つや三つのことを同時には語れない。そこにはかならず順序があらわれ、隣りあう知識どうしのつながりがあらわれる。理解が面的だとしたら、言語化は線的に行われる。だから言語化をしようと思うと、知識どうしがどのような順序で、どのようにつながっているのかを、説明しながら自分自身で確かめることになる。そして、面的に理解しているものをすべて語ることはできない以上、説明をするときにはかならずなにか捨てないといけない。その、捨てる、が重要なのだ。
言語化をするということは、なにが重要で、なにが重要でないかを選ぶ、ということだ。なんとなくつながっているような気がしていたものも、いざ説明しようと思うと、あまり関係なかったことがわかることがある。反対に、意外なところとのつながりが見えてきたりもする。「説明できる」と「説明できない」の違いは、いらないものを捨てられるかどうか、というところにあるのだ。複雑な理解が頭のなかでつながっていくのは、とても豊かなことで、楽しい。けれどもそれだけではまだ、説明ができる状態には至らない。言語化をしようと試みるときには、わたしたちはその豊かな全部を持ちつづけておくことができなくなる。しかしだからこそ言語化の経験が、あなたが本当に重要なことはなにかを見極めるための力になるのだ。はじめに、言語化するときに起きる欠けこそがあなたの役に立つ、と言ったのはそういうことだ。自分の面的な理解をなんとか線にしようと試みるとき、あなたは必ずなにかを意図して捨てないといけない。そしてそこではじめて、自分がどこを重要だととらえているのか、つまり自分がどのように理解しているのかを、自分自身で知ることができる。
そうそう、ここで誤解をしないでもらいたいのは、言語化から欠けてこぼれた部分に価値がないと言いたいわけではない、ということだ。「言語化できた!」と思えたときはとても気持ちがいいけれど、それが唯一の正解になるわけではない。同じ内容を言語化するとしても、いろいろなルートを通る線を引くことができる。ある視点では重要だったものが、ある視点ではまったく線上にのぼらないということはいくらでもある。あなたの中で起きている複雑で豊かな理解は、いろいろな言語化の可能性を同時に持っているのだ。だからある説明のルートからその大半がこぼれたとしても、うまく言葉にならなかった部分、説明しきれなかった部分も保留しておいて、自分のなかに泳がせておくのがいい。それがあるときほかのこととぱちっとつながって、あなたの新しい理解を助けてくれるはずだ。
だから、説明をしようとするときにはまず、今わかっていることを列挙してみるのがいい。慣れてきたら口頭でもいいけれど、自分でふりかえるためには文字で書くほうが分かりやすいと思う。はじめのうちは、順序やつながりはあえて気にせず、箇条書きのようにバラバラのまま出していくのでかまわない。その次に、バラバラのものを順序づけ、さらにそれがどのようにつながっているのかを考えてみる。実際にはただの順番だけではなく、情報どうしが入れ子のような階層になっていたり、比較できるところがあったり、前にも出てきた「導出」や「たとえ」の関係だったり、いろいろな結びつきかたをしていることだろう。自分が言葉にしたものと、書かれていることや自分の理解とを見比べているうちに、そういう結びつきが見えるようになってくる。そうするとだんだん、言語化があなたの心強い道具になってくれるはずだ。
ここで大事なのは、自分が言葉にしたものを簡単に信じてしまわず、何度も疑い深く見比べることだ。ふしぎなことにわたしたちは、一度言葉にしたことを本当だと思ってしまいたくなるようだ。けれどだからこそ、簡単に間違いもする。だから、何度も確かめてもらいたい。読んでいた文章に書いてあったことと、自分が書いたことは本当に同じか。自分が複雑に理解しているこの感覚と、書いたものを自分で読みなおしたときに受ける感覚は、どのようにズレているか。そこでは、書けたことよりもむしろ、書けていないことのほうを喜んでほしいのだ。言葉にすることがあなたの最終地点ではないのを忘れないでいてもらいたい。あなたの目的はまず学ぶこと、そして学びつづけるための力をつけることだ。そしてそれは、あなたが誰にも、自分自身にさえもごまかされず、たえず考えながら生きていくための力をつけることだと、わたしたちは思っている。
だから、自分の言葉にしたものを、何度も見返して、自分自身で疑ってほしい。書いたものを読み返すのでも、しゃべったものを録音して聞き直すのでもいい。言語化に失敗したことを情けなく思う必要はない。あなたはそこではじめて、あなたがどのように理解していたかを「こうではない」という形で知るからだ。「こうではない」を重ねていくことで、あなたの理解は鍛錬され、しなやかに、強くなっていく。
そんなふうに自分のした言語化を確かめていくことには、行きつ戻りつするだけの時間がかかる。だから、たくさんの人が一律に勉強を進めていくような環境でやるのはなかなかむずかしい。わたしがときどき「言語化」という言葉にどうしても引っかかってしまうのは、「言語化される前のA=言語化されたA」というようなイメージに違和感を持つから、だけではない。そうやって他人のペースやリアクションにあわせることのほうを優先し、自分自身の言葉への疑いをなくした言葉が、「言語化するのはいいことだ」という文句つきで出回っているのを、たびたび見かけるからでもある。
くりかえしておくけれど、言語化することが目的なのではない。大事なのはそのあとのことだ。言葉を発してみたそのあとで、実際に発された言葉と、本来自分の発したかったこととをしぶとく見比べること。そして、くりかえし修正をすること。それが、わたしたちの目的である。そしてひとりで学びはじめるあなたのほうが、ずっとそれがやりやすいはずだ。その点で、あなたをとても心強く思っている。
言語化をして、疑い、修正すること。それは、自分の理解に他者として向きあいなおすことであり、ひいては「世界がどのようであるか」と出会いなおすことだ。
ところで、考えたことや感じたことを言葉にするのがどうも苦手だという人は、大人でもたくさんいる。そういう人はどこかで、「言葉にするときには、自分を表現しないといけない」と思っているみたいだ。まして、「価値のある自分、いい自分を表現しないといけない」なんて思いはじめると、そりゃあ、うんざりしてくるに決まっている。あなたも経験したことがあるかもしれない。「ありのままの気持ちを自分の言葉にしなさい」なんて言われたわりに、暗に言ってはいけないことがたくさん決まっていたり、それがのちのち良し悪しをつけられたりすると、いよいよ「自分の言葉」なんかなにもないような気持ちになってくることだろう。
けれど、ここまで読んだあなたにはきっと分かってもらえただろう。自分を表現するなんて、言葉にすることのなかの、本当にちっぽけな一部分にすぎない。学ぶために言語化をすることは、重要なこととそうでないこと、関係することとしないこととを見分け、一本の線を引くことである。それはつまり、あなたがいかにあなた以外のことについて語れるか、ということなのだ。
だから学ぼうとするときには、「私はAだと思う」という重たい装飾を外して、「Aである」と言い切ることだ。「私は~思う」があるうちは、あなたの世界がどれだけ豊かに結びつきながら広がっていたとしても、ちっぽけな自分のことしか語れない。それに、間違うことができない。
けれど、あなたは間違えなくてはいけない。間違えないのなら、そのあとに修正することもできないからだ。言語化すること、つまり、重要でないと思ったものをいったん捨ててしまうことは、確かに怖い。前述したとおり、わたしたちはとてもよく間違える。あなたが「Aである」と言い切るならば、いよいよあなたの言葉は、決定的な間違いの可能性を含むだろう。
確かに、だれかの前で話すなら、間違いに対して慎重になったほうがいいこともある。けれど幸い、あなたはひとりだ。だから自分という重たい装飾を離れて、軽々と言い切ってみてほしい。それはつまり、ときに軽々と間違えてみてほしい、ということだ。そして、それを自分で疑い、何度も修正して、行ったり来たりしてみてほしい。すべてを言葉にすることはできないとしても、しかしよりあなたの理解へ近づく言葉を探してみてほしい。あなたは、条件つきの「ありのままの自分」なるものを表現する必要はない。「自分の言葉」なんていうあやしげな文句も、あなたにはいらない。学ぶため、考える力のためには、理解したものを、ただふつうの言葉にすればいい。それで十分、あなたの言葉は鍛えられる。
ひとりのあなたにならば、それができるはずだ。