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『ウクライナを知るための65章』特別公開

ロシア帝国下のウクライナ(光吉淑江)

2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻は全世界に衝撃を与えました。ウクライナへの時事的な関心が高まっている今だからこそ、多角的にウクライナという国を理解する必要があります。

メディアではいろいろな情報が錯綜していますが、そもそもウクライナとはどのような国なのでしょうか?

さまざまな専門家が自然、歴史、民族、言語、宗教、文化などの面からウクライナを紹介する『ウクライナを知るための65章』(2018年刊行)は、そうした疑問に答える格好の1冊です。今般の関心の高まりから注目を集めている本書の一部を、このたび特別公開。 ウクライナを知り、今何が起きているのかを冷静に考えるためにお役立ていただき、是非書籍も手に取ってみてください。

ロシア帝国下のウクライナ ~「小ロシア人」から「ウクライナ人」へ~

19世紀、ウクライナ人の居住地域のほとんどは、ロシア帝国かハプスブルク帝国の支配下にあった。18世紀末までポーランド王国下にあったハリチナー(ガリツィア)地方は、ポーランド分割によってハプスブルク領になり、右岸ウクライナはロシア帝国に編入された。ウクライナ人とルーマニア人が拮抗していた北ブコヴィナは、トルコからハプスブルクに譲渡された。さらに、ハンガリー王家の支配下にあったザカルパッチャ地方も、オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立によってハプスブルクの間接統治に入った。

20世紀初めに約2600万人と言われる(ロシア帝国側に2240万人、ハプスブルク帝国に380万人)ウクライナ人は、ヨーロッパ最大の民族少数派の一つで、ロシア人に次いで二番目に多いスラヴ人であった。と同時に、ウクライナ人であるということは、基本的に農民であることを意味していた。ロシア帝国でも、ハプスブルク帝国でもウクライナ語を話す人々の約九割が農民だったからだ。

ロシア、ハプスブルク両帝国下のウクライナ人は、当時「小ロシア人」「ルテニア人」と呼ばれており、彼らの歴史的経験は著しく異なり、その違いは今日に至るまでウクライナ社会の多様性、東西分断の根源として議論される。しかしながら、支配帝国の違いを乗り越えて、「ウクライナ人」という一つのアイデンティティが生まれたのも、この時代であった。

ロシア帝国におけるウクライナ人の民族運動は、文化や言語を共有する「民族」という概念に基づいて活動した知識人によって始まった。ロマン主義の影響を受けた文学者や歴史家は、過去の民間伝承や歌謡、コサックの栄光を探求して、それを文学、詩歌、史書、絵画、音楽で表現することでウクライナ人意識を訴えた。イヴァン・コトリャレフスキー(1769~1838)の『エネイーダ』は、滅亡したコサック国家を再建する物語で、近代ウクライナ文学の幕開けとなった。この文化運動は、詩人タラス・シェフチェンコ(1814~61)の登場によって頂点に達した。ロシア帝国への敵意とウクライナへの愛情に溢れる詩を歌い上げたシェフチェンコは、ウクライナの国民詩人であった。シェフチェンコは、歴史家ミコーラ・コストマーロフ(1817~85)や、作家パンテレイモン・クリーシ(1819~97)らと近代ウクライナ史上最初の政治結社であるキリル・メトディ(キリロ・メフォーディ)団を結成した。彼らは農奴制廃止と、ロシア帝国をスラヴ諸民族の平等で民主的な連邦へ編成することを訴え、ウクライナ政治思想の基礎を築いた。しかし瞬く間にメトディ団は逮捕され、シェフチェンコは中央アジアで十年間の流刑生活を送らねばならなかったのである。

19世紀後半、ロシア帝国全体が改革の気運に包まれていた頃、ウクライナの運動も新たな段階に入った。この時の運動を担ったのはキエフの「フロマーダ(共同体)」であった。旧メトディ団のメンバーが集ったフロマーダは、農民への啓蒙活動を開始した。作曲家ミコーラ・ルイセンコ(1842~1912)はウクライナ各地の民俗歌謡を収集してウクライナ語オペラを制作した。彼らが特に力をいれたのは農民への教育活動であった。日曜学校で農民にウクライナ語を教え、ウクライナ語の唄を歌い、コサックの歴史を教えることでウクライナ人としての自覚を高めようとしたのである。

出典:P.R. Magosci, A History of Ukraine, Tronto, 1996.
表1 ロシア帝国下ウクライナにおける民族別人口(1897年)
民族名 人数 %
ウクライナ人 17,040,000 71.5
ロシア人 2,970,000 12.4
ユダヤ人 2,030,000 8.5
ドイツ人 502,000 2.1
ポーランド人 406,000 1.7
ベラルーシ人 222,000 0.9
タタール人 222,000 0.9
ルーマニア人 187,000 0.8
ギリシャ人 80,000 0.3
ブルガリア人 68,000 0.3
チェコ人 37,000 0.2
その他 71,000 0.3
23,833,000 100.0

 

出典:P.R. Magosci, A History of Ukraine, Tronto, 1996.
表2 ロシア帝国下ウクライナ都市部の民族別住民数(1897年)
民族名 人数 %
ロシア人 1,050,000 34.0
ウクライナ人 937,000 30.3
ユダヤ人 830,000 27.0
その他 268,000 8.6

 

しかし、ウクライナ人の民族意識の高まりに警戒心を募らせたロシア政府は様々な制約を加え始めた。1863年、ロシア帝国政府はウクライナ語出版の禁止令を発布して、ウクライナ人がロシア語以外の言葉で教育を受けるのを禁止した。この法令は1876年に「エムス法」として強化され、あらゆる分野でのウクライナ語出版が禁じられた。ロシア帝国では、ウクライナ語の出版活動は事実上、1917年のロシア革命まで不可能になったのである。ロシアでの活動を制約された知識人の多くが、比較的リベラルな政治風土を謳歌していたハプスブルク帝国下の西ウクライナに活動の場を移していった。

東西それぞれの帝国によって分断されていた「小ロシア人」と「ルテニア人」が、一つの「ウクライナ人」というアイデンティティを形成することができたのは、言語と宗教、慣習を同じくする人々の集団を「ウクライナ人」という近代民族として認識し、それを国境を越えて普及しようと努めた東西知識人の交流によるところが大きかった。ポルターヴァ地方出身の思想家ミハイロ・ドラホマーノフ(1841~95)は、亡命先のスイスからハリチナーのウクライナ語雑誌に投稿し、リヴィウ大学のウクライナ人学生に影響を及ぼした。その一人、リヴィウの作家イヴァン・フランコ(1856~1916)は、労働ストライキの指導をするなどハリチナーの政治運動の中心人物となっていく。1894年、キエフのミハイロ・フルシェフスキー(1866~1934)が、リヴィウ大学で初めてウクライナ史講座を任されると、リヴィウにおけるウクライナ史研究やウクライナ語出版は活況を呈していった。フルシェフスキーは、それまでロシア史の一部として扱われていたコサックやキエフ・ルーシの歴史は、ウクライナの歴史であり、ウクライナ史とロシア史は別個のものだと主張した。

さらに、コサックの歴史が東西に分断されていたウクライナの人々を一つにする役割を果たしたことにも注目すべきであろう。ロシア帝国下のウクライナ知識人は、消滅したヘトマン国家への関心を呼び起こし、ウクライナの過去の栄光を象徴する存在として理想化した。シェフチェンコはコサックを称え、それを、本来コサック制度が存在しなかった西ウクライナの人々に伝えた。コサックは、西ウクライナでもウクライナ人のアイデンティティ構成要素になっていったのである。シェフチェンコ自らがハリチナーを訪れたことはなかったが、彼は東西のウクライナ人すべてにとって「ウクライナ」を代表する詩人、精神的支柱になっていった。

しかしながら、ロシア帝国下のウクライナ人は、ウクライナ・アイデンティを育みながらも、ロシアとの強い歴史的絆を放棄することはなかった。ウクライナ民族主義の泰斗と言われるドラホマーノフは、ウクライナ語とロシア語両方で執筆を行ない、その主張はウクライナ民族主義であると同時に民主的社会の確立、社会革命を求めるものであった。コストマーロフやクリーシらロシア帝国下の知識人はロシアとの決別姿勢は唱えず、スラヴ全体、ロシア全体の枠組みにおいてウクライナの特質を強調するという理論展開を行なっていた。

世紀転換期、ロシア帝国下のウクライナ人による初の政党が登場したが、大衆の支持基盤を確立するには至らなかった。主な理由は、エムス法によるウクライナ運動への徹底した抑圧政策にあったと言えよう。ほぼ自由な文化活動が享受されていたハプスブルク帝国下のウクライナ人の状況と比べると、ロシア帝国のウクライナ農民は、自分たちがロシアともポーランドとも異なる言語や宗教、習慣を持つ存在であるという認識はあったものの、それを「ウクライナ人」という近代民族として強く認識する段階には達していなかったのである。

ウクライナ人意識の浸透を阻んだもう一つの要因は、ロシア帝国のウクライナで、特に労働者の間でロシア化が進行していたことである。19世紀後半、ウクライナ南部では工業化が進展し、ドンバス、クリヴイリフ(クリヴォイログ)では炭鉱や冶金産業が成長していた。そこではロシア語文化に同化した労働者階級が誕生し、彼らはロシア政党に参加し、大規模ストライキの組織化にいち早く成功していた。

専制君主制と抑圧を特徴とする帝政ロシアと、議会政治の伝統を持つハプスブルク帝国という異なる体制下に置かれた東西のウクライナ人の違いは、第一次世界大戦、第二次世界大戦、ソ連時代から独立後に至るまで、ウクライナ社会に大きな爪痕を残す。この違いは、時にウクライナ社会の多様性を語り、時に国民統合の困難さ、分断する社会の根源として指摘され続けている。

(光吉淑江)

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著者略歴

  1. 光吉 淑江(みつよし・よしえ)

    西南学院大学 非常勤講師、久留米大学 非常勤講師。
    【主要著作】
    “Maternalism, Soviet-Style: The Working ‘Mothers with Many Children’ in Postwar Western Ukraine,” edited by Marian van der Klein, Maternalism reconsidered : motherhood, welfare and social policy in the twentieth century, Berghahn Books, 2012. “The Zhinviddil Resurrected: Soviet Women’s Organizations in Postwar Western Ukraine,” Journal of Ukrainian Studies, Vol.36, 2011.「 離散するアーカイブとウクライナ史」(『歴史学研究』第 790号、2004年)。

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