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『ウクライナを知るための65章』特別公開

ロシア文学とウクライナ(中村唯史)

2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻は全世界に衝撃を与えました。ウクライナへの時事的な関心が高まっている今だからこそ、多角的にウクライナという国を理解する必要があります。
メディアではいろいろな情報が錯綜していますが、そもそもウクライナとはどのような国なのでしょうか?
さまざまな専門家が自然、歴史、民族、言語、宗教、文化などの面からウクライナを紹介する『ウクライナを知るための65章』(2018年刊行)は、そうした疑問に答える格好の1冊です。今般の関心の高まりから注目を集めている本書の一部を、このたび特別公開。 ウクライナを知り、今何が起きているのかを冷静に考えるためにお役立ていただき、是非書籍も手に取ってみてください。

ロシア文学とウクライナ~言語、民族、トポスの錯綜~

文学におけるロシアとウクライナとの関係史を語ることには、一定の困難が伴う。その理由のひとつは、両者が過去において、いつも明確に分かれて存在していたわけではないことだ。例えば『原初年代記』(12世紀初)や『イーゴリ軍記』(1187年頃)がロシア文学かウクライナ文学かを、現代の視点から遡及的に問うことには意味がない。当時はまだ両民族は分離しておらず、「ルーシの民」という意識が優越していたからだ。

もう一つの理由は、両者を分かつ基準が複数あることだ。作品の帰属を決める根拠としては、作者の民族・人種、自己認識、使用言語、作品の舞台のほか、様々な要因が考えられる。だが歴史上、民族的にはウクライナ人だがロシア語で執筆し、ロシア帝国(後にはソ連)への帰属意識を持つ作家も少なくなかったのである。

このように流動的で錯綜した「ロシア」と「ウクライナ」の文芸における関係を、以下に概観してみよう。

広義の文学においてロシアとウクライナの「関係」を論じることができるのは、17世紀からと言われている。この時期、キエフを中心とする地域とモスクワを中心とする地域の文芸の間に、明らかな相違が認められるようになったからだ。きっかけとなったのは、キエフ神学校でのラテン語教育の導入である。これを契機として、主にポーランド経由で西欧の文化がキエフに流入し、それが後にモスクワに影響を及ぼすルートが生まれた。ロシア文学に音節詩や戯曲といったジャンルが伝わったのは、このルートを通してである。文芸の世俗化が進み、西欧の騎士道物語の翻訳が人気を集めた。このようなロシア文学に対するウクライナの啓蒙的な役割は、18世紀初頭まで続いた。

だが、ロシアに対するウクライナの文化的な影響力は、18世紀を通して、しだいに弱まっていった。その理由の第一は、ピョートル一世(在位1682~1725)による西欧化の推進である。バルト海に面した首都サンクトペテルブルグの建設で、物資や情報をヨーロッパから直接入手する経路が確保されたことで、ロシア帝国におけるキエフの「西欧への窓」としての役割は相対的に低下した。またエカテリーナ二世(在位1762~96)は南下政策を推進し、オスマン・トルコとの数次の戦争によって黒海に至る現在のウクライナ領のほぼ全域を版図に加えたが、当時の帝国の国家理念においては、古典主義の影響もあって、ギリシャとその後継国家ビザンツ帝国がロシアの源流と考えられていた。ウクライナは帝国の辺境、またはニューフロンティアというふうに位置付けられた。

ウクライナがロシア文学の重要なトポスとなり、多くの作品の舞台となったのは、19世紀前半のことだ。その際に活躍したオレスト・ソモフ(1793~1833)とニコライ・ゴーゴリ(1809~52)は、どちらもウクライナの小地主階級出身である。ハリコフ(ハルキフ)大学を卒業後、1817年からサンクトペテルブルグで暮らしたソモフは、『キキモラ』『ルサールカ』(ともに1829)、『キエフの魔女たち』(1833)など、ウクライナの伝承や風土に根ざした短編を発表した。『鼻』(1836)、『外套』(1841)などのペテルブルグを舞台とした小説で後にロシア文学史上の巨人となるゴーゴリもまた、文学的出発は『ディカニカ近郷夜話』(1831~32)や『ミルゴロド』(1835)など、ウクライナの民間伝承に取材したとされる幻想的な作品集だった。

この時期のロシア文学で、ウクライナが題材として関心を呼んだ背景には、ロマン主義の影響があった。ゴーゴリの「ウクライナもの」が必ずしも伝承に忠実でなく、むしろホフマン(1776~1822)など、同時代のドイツ文学の影響が大きかったことは定説だが、伝承に注目すること自体は、同じくドイツで生まれた「民族」という概念の精粋を、民衆が語り継いできた物語に見いだそうとするナショナリスティックな志向の浸透の結果だった。特にウクライナの伝承が注目されたのは、キエフ・ルーシ以来の歴史から、この時期には、ウクライナこそロシア民族の源流であると考えられようになったためだった。

実際、ソモフやゴーゴリには、自分がウクライナ民族であるという認識は希薄だった。ソモフは論文『ロマン主義の詩について』(1823)で、ロシア帝国の多様な風土がいかにロマン主義という新しい詩学に適しているかを力説したが、ウクライナは広大な帝国の版図の一地域として以上には論じられていない。17世紀を舞台にザポロージエ・コサックのポーランドとの闘争を描いたゴーゴリの歴史小説『タラス・ブーリバ』(1835)では、コサックたちはくり返し「わがロシアの国土」と口にし、自分たちに「ロシア人の感情」が漲っていることを誇る。ロシア文学におけるウクライナ・トポスの興隆は、ウクライナ・ナショナリズムによるのではなく、ウクライナがロシアの原故郷であるという認識に支えられていた。

ロシア絵画とウクライナ:イリヤ・レーピン『トルコのスルタンに手紙を書くザポロージエのコサックたち』(1880~1891)

ロシア絵画とウクライナ:イリヤ・レーピン『トルコのスルタンに手紙を書くザポロージエのコサックたち』(1880~1891)

ウクライナを舞台とした作品は、19世紀後半にも少なからず書かれたが、リアリズムが主流だったためもあって、この地に象徴的な意味を見いだそうとする傾向は弱かった。例えばウクライナ人とポーランド人の両親の下で少年時代をジトーミルで過ごしたヴラジーミル・コロレンコ(1853~1921)は、『悪い仲間』(1885)、『森はざわめく』(1886)などでウクライナの伝承や少年時代の記憶に基づいた作品を書いているが、代表作『マカールの夢』(1885)ではヤクート地方のロシア人農民を主人公とするなど、とりたててウクライナの風土や記憶に固執していたわけではない。

ただしこのような「ウクライナ性」の希薄さは、あくまでもロシア語で書くことを選択した作家について言えることだ。タラス・シェフチェンコ(1814~61)やニコライ(ミコーラ)・コストマーロフ(1817~85)のようにウクライナ人意識を持ち、ウクライナ語で執筆する者が、この時期に現れてきたことも忘れてはならない。もっとも、近代ウクライナ文学の黎明を担った彼らはバイリンガル作家であり、ロシア語による著作も少なくなかった。

ロシア文学とウクライナを考えるうえで重要なもう一つの潮流は、ユダヤ人の文学だ。ウクライナには多くのユダヤ人が居住していたが、その中からショーレム・アレイヘム(1859~1916)などの作家が現れた。彼は主にイディッシュ語で執筆を行なったが、自作品をみずからもロシア語に翻訳・発表したため、ユダヤ人社会の枠を越えて広範な読者を獲得した。

20世紀に入ると、ユダヤ人の若い世代はイディッシュ語でなく、直接ロシア語で詩や小説を書くようになった。この傾向はとりわけユダヤ人が多かった国際都市オデッサゆかりの者たちに顕著で、ロシア革命によってユダヤ人に対する種々の制限が撤廃された1920年代になると、彼らはモスクワの雑誌に次々と作品を発表し、ロシア文学に新風を送り込んだ。オデッサの無法地区を舞台にした『オデッサ物語』(1921~24)や、ガリツィア(ハリチナー)地方での内戦に取材した『騎兵隊』(1926刊)などで一世を風靡した作家イサーク・バーベリ(1894~1940)や、国内戦の複雑な様相をウクライナの伝統的叙事民謡の形式でうたった『オパナスの歌』(1926)の詩人エドゥアルド・バグリツキー(1895~1934)などがその代表である。

ソ連文学の初期には、その他にも、南ウクライナの零落ポーランド貴族の家に生まれ、オデッサで育ったユーリー・オレーシャ(1899~1960、代表作に『羨望』1927)、キエフで育ったウクライナ・コサックの末裔コンスタンチン・パウストフスキー(1892~1968、黒海沿岸に取材した代表作に『ロマンチストたち』1929)など、ウクライナで育ち、その風土を題材にした作家の活躍が目立った。彼らは自分たちの明晰で行動的な文学を「南方的」と位置付け、「北」に象徴される神秘的・思索的な従来の文学に対置しようとした。ただし、それはあくまで、ロシア語を共通語とするソ連文学の枠内での独自性の主張だった。1930年代に入り、文学に対する政治の統制が強まると、彼らはしだいに発表の場を失い、沈黙や死へと追い込まれた。パウストフスキーはその作品の舞台を、ウクライナなどの南方から、しだいにロシアの北部や中部へと移していった。

若き日のパウストフスキー

若き日のパウストフスキー

多民族・多言語文化を理念としていたソ連では、その後はロシア語作家とウクライナ語作家の分離と住み分けが進んだ。ウクライナ独立後、この傾向はさらに強まっているが、その一方で『ペンギンの憂鬱』(原題『局外者の死』1996)のアンドレイ・クルコフ(1961~)のように、ウクライナで暮らしながらロシア語で書き、両国で人気の作家もいる。文芸において、ロシアとウクライナの間に明確で固定的な境界が成立したとは、なおも言えないのである。

(中村唯史)

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著者略歴

  1. 中村 唯史(なかむら・ただし)

    京都大学大学院文学研究科 教授。
    【主要著作】
    『自叙の迷宮――近代ロシア文化における自伝的言説』(大平陽一氏と共編著、水声社、2018年)、『映像の中の冷戦後世界――ロシア・ドイツ・東欧研究とフィルム・アーカイブ』(高橋和氏、山崎彰氏と共編著、山形大学出版会、2013年)、『再考ロシア・フォルマリズム――言語・メディア・知覚』(貝澤哉氏、野中進氏と共編著、せりか書房、 2012年)ほか。

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