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『ウクライナを知るための65章』特別公開

キエフ・ルーシとビザンツ帝国(三浦清美)

2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻は全世界に衝撃を与えました。ウクライナへの時事的な関心が高まっている今だからこそ、多角的にウクライナという国を理解する必要があります。
メディアではいろいろな情報が錯綜していますが、そもそもウクライナとはどのような国なのでしょうか?
さまざまな専門家が自然、歴史、民族、言語、宗教、文化などの面からウクライナを紹介する『ウクライナを知るための65章』(2018年刊行)は、そうした疑問に答える格好の1冊です。今般の関心の高まりから注目を集めている本書の一部を、このたび特別公開。 ウクライナを知り、今何が起きているのかを冷静に考えるためにお役立ていただき、是非書籍も手に取ってみてください。

キエフ・ルーシとビザンツ帝国~ウクライナの前史~

東西教会分離の兆候は、ルーシがローマではなくコンスタンティノープルからキリスト教を受容した988年にはすでに、明瞭に見えていた。キリスト教の教義は、三位一体を教義として定めたニカイア・コンスタンティノープル信条(381年)、イエス・キリストを完全なる神であり完全なる人であるとするカルケドン信経(451年)を経て確立されたが、東西両キリスト教会は、聖像破壊運動(イコノクラスム)をつうじて別々の道を歩むことになったからである。神と人間を峻別するイスラームの出現によってキリスト教につきつけられた課題は、人知に及び難いはずの神を画像に描くことは許されるのか、という根源的で苛烈なイスラームからの批判への対応であった。より東方に位置し、対イスラームの最前線に立ったビザンツ帝国は、聖画像の否定と肯定の間で激しく揺れ動くことになる。

ビザンツで最終的に聖像擁護派が勝利したとき、理論的支柱になったのはカルケドン信条であった。聖像擁護派の論客、ダマスクスのヨハンネスは、「不可視の神は像化できないが、キリストは神が人として現れたものであるゆえ像化できる」と聖画像崇敬を正当化したが、ギリシャ教会のこのイコン神学は、西方教会に属するカロリング朝の神学者たちには正しく理解されなかった。つまり、コンスタンティノープルの東方教会は、カルケドン信条よりも一歩踏み込んだかたちで、キリストの人性を強調する立場を取った。ルーシは、イエス・キリストの人性を強調する(人だから描ける)ビザンツのキリスト教を受け入れることになったが、キリストにおける人性の強調という思潮は、12世紀キエフ・ルーシの宗教思想家、トゥーロフのキリルによって、さらに発展した。

年表

862

リューリクのルーシへの招聘

988

ウラジーミル聖公によるキリスト教正教への改宗

1015

ウラジーミルの死、スヴャトポルクによりボリスとグレープ暗殺
1019 ヤロスラフ賢公の即位
1051

ルーシ人で最初のキエフ府主教、イラリオンの登位

1054 ヤロスラフ賢公の死
1072 ルーシ最初の聖者、ボリスとグレープの列聖
1097

キエフ・ルーシ諸公、リュベチ会議で内争の終結を合意するが、実効性はなく、12 世紀前半にかけてキエフ・ルーシから北東ルーシ(ウラジーミル)へ権力の中心が移動する

1147 ユーリイ・ドルゴルーキーによるモスクワ建設
1164 ~ 1168 アンドレイ・ボゴリュプスキーによるウラジーミル諸教会の造営
1169

アンドレイ・ボゴリュプスキーのキエフ遠征

1174

アンドレイ・ボゴリュプスキー暗殺

1223

カルカ川の戦い

1238

バトゥによる沿ヴォルガ遠征、ルーシの壊滅

 

キエフ・ルーシとビザンツはこうした文明的環境の中で交流した。キエフ・ルーシ最初の年代記『過ぎし年月の物語』は、両者の関係の変遷を次のように伝えている。

リューリクの招聘によるルーシの建国以来、指導者が変わるたびにキエフ・ルーシの支配者たちはコンスタンティノープルに略奪に出かけて行った。略奪の根底には、きらびやかな文明に対するキエフ・ルーシの側の羨望があったが、コンスタンティノープルの富に魅せられたルーシ人も略奪の中で学びを重ねていく一方、ビザンツ人も野蛮なルーシ人の意外な賢さに気付くようになった。自らをだまして毒殺しようとするビザンツ人の奸計を、ルーシの指導者オレーグは見破った。驚いたビザンツ人たちは、オレーグを聖デメトリオスの生まれ変わりであると信じた(907年)。ルーシの摂政オリガは、自分を妻にしたいと望むビザンツ皇帝の下心を見抜き、皇帝を代父としてキリスト教の洗礼を受けたうえで、娘と結婚するのは許されないと主張してその求婚を退けた。皇帝は、「見事に私を欺いたな、オリガよ」と笑ってオリガに贈り物をあたえたうえで帰した(955年)。

イーゴリとオリガ夫妻、その息子スヴャトスラフの時代に、その支配領域を飛躍的に拡大させたキエフ・ルーシは、多民族統治の基盤として宗教に注目した。キエフ・ルーシは何らかの一神教による領域の統合を必要としたが、この当時、そうした一神教として、フランクの西方キリスト教、ビザンツの東方キリスト教、ハザール帝国のユダヤ教、ヴォルガ・ブルガール族のイスラムが存在していた。彼らは次々とキエフ大公ウラジーミル(ヴォロディーミル)のもとへ改宗を勧誘する使節を送った(986年)。『過ぎし年月の物語』でも、東西両キリスト教会はあたかも別の宗教のごとく扱われている。

キエフ大公ウラジーミルは、それぞれの使節の言い分を十分に吟味したうえで、自らも調査団を組織してこの四つの一神教それぞれに派遣した(987年)。調査団によれば、コンスタンティノープルのキリスト教が最もすぐれていた。なぜなら、その宗教儀礼は美しく、儀式の間、彼らは自分たちが地上にいるのか、天上にいるのか分からなかったからである。一方、ヴァルダス・フォカスの乱で苦しむビザンツ皇帝、ヴァシレオス二世もウラジーミルの援兵を必要としており、妹アンナを蛮族であるウラジーミルに妻としてあたえる代償を払って、ルーシにキリスト教への改宗を約束させた。

パントクラトール キエフ ソフィア大聖堂(出典:СоборСвятої Софїї в Києві: [Альбом]. К.: Мистецтво, 2001.)

ビザンツ帝国の統治者概念「アウトクラトール=サモジェルジェツ」も、キエフ・ルーシとビザンツ帝国の関係に微妙な影響をあたえた。アウトクラトールとは、ビザンツ史家の渡辺金一によれば、天上の唯一全能の神(パントクラトール)の、地上における代理者としての唯一の全能の皇帝(アウトクラトール)という統治者概念であり、ビザンツ皇帝を特徴付けている。アウトクラトール概念は、ローマ教皇という宗教的権威と、諸王、神聖ローマ皇帝という世俗権力の間の、言わば政教分離を実現させた西方世界と、ビザンツ世界を分ける本質的な相違点でもある。

キエフ・ルーシが、キリスト教を国家統合の基本原理として採用していたことは、キエフ府主教イラリオンの説教において、ルーシをキリスト教化したウラジーミル大公が、最初のアウトクラトールと言うべきコンスタンティヌス大帝に準えられたことに表れている。しかしながら、類比はそこまでで、キエフ・ルーシにおいては、アウトクラトール概念はもっぱらビザンツ皇帝にたいして用いられ、自らの統治者キエフ大公に適用される事例は、一つの例外を除いて存在しなかった。

唯一の例外とは、12世紀後半のアンドレイ・ボゴリュプスキー公(「神に愛されたアンドレイ」の意、1111ころ~74)である。アンドレイ公は、キエフから遠く離れた北東ルーシのウラジーミルに居を定め、数々の壮麗な教会(ウスペンスキー大聖堂、ドミートリイ聖堂、ポクロフ・ナ・ネルリ聖堂など)を建設してウラジーミルに首都の威容を調えた。1169年、キエフを攻め、略奪、占領したが、すぐに放棄し、北東ルーシに引き上げた。キエフ大公として君臨する意図はまったくなかったのである。これはキエフ・ルーシの終焉を告げるメルクマールと言える。

アンドレイは野望実現のために、ロストフ主教座の傀儡化を図った。自らの腹心である聖職者フェオドルをむりやりロストフ主教につけ、政教一致のビザンツ的統治体制を確立させようと画策したのである。当時の代表的な聖職者で偉大な説教者であったトゥーロフのキリルは、アンドレイとフェオドルを諷〈ふう〉する説教『人間の魂と肉体について』を書いて、この試みに絶対反対の立場を貫いた。最終的には、この試みは頓挫した。フェオドルはロストフ主教を追われたのち、舌を切られて言語を絶する苦しみのうちに息絶え、アンドレイ公は中央集権化を嫌う配下の貴族によって暗殺された。ビザンツ化の試みが失敗したのち、ルーシはなすすべもなくモンゴル勢力に席巻されることになる。

(三浦清美)

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著者略歴

  1. 三浦 清美

    電気通信大学情報理工学域共通教育部 教授。
    【主要著作】
    『ロシアの源流』(講談社叢書メチエ、2003 年)、「宗教説話に滲出する自叙―ポリカルプと逸脱の精神」(中村唯史・大平陽一編『自叙の迷宮―近代ロシア文化における自伝的言説』水声社、2018 年)、「終末論としてのローマ―「モスクワ第三理念」をめぐって」(甚野尚志・踊共二編『中近世ヨーロッパの宗教と政治』ミネルヴァ書房、2014 年)。

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