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『ウクライナを知るための65章』特別公開

ウクライナ人ディアスポラ(光吉淑江)

2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻は全世界に衝撃を与えました。ウクライナへの時事的な関心が高まっている今だからこそ、多角的にウクライナという国を理解する必要があります。
メディアではいろいろな情報が錯綜していますが、そもそもウクライナとはどのような国なのでしょうか?
さまざまな専門家が自然、歴史、民族、言語、宗教、文化などの面からウクライナを紹介する『ウクライナを知るための65章』(2018年刊行)は、そうした疑問に答える格好の1冊です。今般の関心の高まりから注目を集めている本書の一部を、このたび特別公開。 ウクライナを知り、今何が起きているのかを冷静に考えるためにお役立ていただき、是非書籍も手に取ってみてください。

ウクライナ人ディアスポラ~遠い祖国への熱き想い~

21世紀初め、ウクライナの人口は約4500万人であるが、ポーランドやロシアなど近隣国にも、ウクライナ人が数多く住んでいる。さらにヨーロッパから遠く離れた南北アメリカ大陸、オセアニアにもウクライナ人あるいはウクライナ系住民がまとまって住む国がいくつかある。在外ウクライナ人が最も多いのはロシア連邦で約300万、次いでカザフスタン約200万、モルドヴァ50万、ウズベキスタン15万、キルギス10万、ラトヴィア9万、ベラルーシ5万、ジョージア(グルジア)に5万人ほどが住んでいる。旧ソ連以外の近隣国では、ポーランド50万、スロヴァキア10万、ルーマニア9万、旧ユーゴスラヴィア6万、チェコ5万、ギリシャ3万5千人などである。

19世紀後半から第一次世界大戦にかけての世界的な大規模移民の時代に、ハプスブルク帝国下の西ウクライナから約50万人以上が、新大陸に向かった。アメリカ合衆国に移住したウクライナ人は、炭鉱夫や、自動車工などの都市部の工場労働者として働くことが多かった。現在でもアメリカ東部のフィラデルフィア、ペンシルヴァニア、ニューヨーク、ミシガン、ニュージャージー、マサチューセッツ、イリノイ、オハイオ、そして西部ではカリフォルニアにウクライナ人が多く定住している。現在、ウクライナ系アメリカ人は約100万人だが、これはアメリカの総人口において約0・3%と他の移民グループに比べてそれほど大きな存在ではない。

アメリカよりも一足遅れて西部開拓が始まったカナダでは、酷寒の西部を開拓する農民として約57万人のウクライナ人が移住した。カナダへの農業移民を推進した移民担当大臣は、ウクライナ移民について「羊の皮のコートをまとい、大地に生まれ、十世代続く農民の家系で、たくましい妻と半ダースの子どもを持つ屈強な農民」と称賛した。

しかし、当時の北米社会において、東欧移民に対する人種的な偏見は強かった。同じキリスト教徒とはいえ、プロテスタントやローマ・カトリックと異なるウクライナ・カトリックや東方正教会の宗教行事、独特の民族衣装、言語、食生活、習俗はイギリス流儀と英語を重んじるカナダ社会の中では蔑視された。第一次世界大戦時には、敵国オーストリア=ハンガリー帝国の出身移民に対する排斥ムードが高まり、ハリチナー(ガリツィア)出身のウクライナ人は敵性外国人として強制収容所に送られた。今日、毎年世界中から観光客が訪れるカナディアン・ロッキー山脈の高速道路は、このとき強制労働に駆り出されたウクライナ系カナダ人が建設したものである。

社会的な差別に苦しみながらも、過酷な自然環境と戦いながら農地開拓に貢献したウクライナ人の苦労話や、カナダ西部の農村に建設されたウクライナ教会、ウクライナ系カナダ人の画家ウィリアム・クレリークWilluam Kurelek(1927~77、邦訳ではクアレックとも)の作品は、ウクライナ人のカナダへの歴史的貢献を今に伝えている。今日、ウクライナ系カナダ人は約120万人、民族別の人口規模では第九位のエスニック・グループである。ウクライナ風ロールキャベツ、ボルシチ、ピロシキ、民族舞踊、ピーサンキ製作などのウクライナ文化は現在ではカナダの多文化社会を象徴するものとして、ウクライナ系以外の人々にも広く親しまれている。

カナダ西部のウクライナ教会

 

第二次世界大戦終了後、戦争難民(DP)として南北アメリカ各国やオーストラリアに到着したウクライナ人は、それまでのウクライナ農民とだいぶ趣の異なる人々であり、移民社会に大きな変容をもたらした。戦後のウクライナ移民の中には、独ソ戦時にオストアルバイターとしてドイツに連行されていたソヴィエト・ウクライナ人、西ウクライナのウクライナ蜂起軍の闘士など、様々な社会的背景を持つ人々がいた。彼らは高い教養と専門的知識を備え、移民先での積極的な政治活動も厭わなかった。

スターリン体制下のソ連の抑圧社会を経験したウクライナ移民の到着によって、それまで北米の共産主義者や左派勢力が漠然と抱いていたソ連社会に対するユートピア幻想は打ち砕かれた。冷戦という国際情勢も作用して、北米のウクライナ系コミュニティは反共産主義、反ソ連の姿勢を鮮明に打ち出していった。

北米のウクライナ系移民は、故国への思いではどの移民集団にも劣らないほどの強い愛国心で知られる。それは、なにより、祖国ウクライナでのたび重なる独立運動の失敗の経験から、ウクライナ語とウクライナ文化を抑圧するソヴィエト・ロシア国家に対して、ウクライナ文化と歴史の真実を伝えなくてはならないという使命感に満ちていたからである。この使命感が原動力となって、北米のウクライナ人は、あらゆる場面で積極的に社会に参加し、政治をつき動かそうと努力してきたのである。

今日のウクライナ研究が「学問」として大きく発展したのは、冷戦時代のこのような社会状況によるところが大きかった。西側世界におけるロシア・東欧研究の発展は、冷戦体制下におけるソヴィエトロジー確立という戦略的意図が大いに働いていたが、ウクライナ研究の発展もこれと無関係ではなかった。すでに移民先で財を成していたウクライナ系移民からの潤沢な財政援助によって、ハーバード大学ウクライナ研究所、カナダのアルバータ大学ウクライナ研究所、ウクライナ文書館などが設立されていった。ここで行なわれた研究活動、学術出版、史料集の刊行が北米におけるウクライナ研究の礎となった。

さらにカナダでは、ウクライナ人の愛国心と文化保護への熱意は政治家をも動かした。1970年代、フランス語圏のケベック州で独立運動が高まる中、フランス系移民への和解策として採用された「英仏二言語主義」政策に対して、強い反対の意を唱えたのがウクライナ系カナダ人であった。「西部カナダの開拓者」を自任するウクライナ系カナダ人は、偏狭な「英仏二言語主義」ではなく「多文化主義」を強く求めたのである。

その結果、世界で初めて導入された多文化主義は、カナダに存在するすべてのエスニック・グループの文化遺産を尊重し、語学教育、多文化共存を実践することを国策として定めた。ウクライナ系コミュニティは、政府が進める英仏二言語教育に加えて、移民の継承語(母語)教育として、ウクライナ語・英語バイリンガル教育にどの移民集団よりも熱心に取り組んだ。今日、日本を含む世界の言語教育者が、カナダの多文化教育、バイリンガル・マルチリンガル教育を模範としているが、そこには、ウクライナ系移民が、長年にわたり努力してきたウクライナ語教育への熱い思いが込められているのである。

北米のウクライナ系の人々は、社会の様々な分野で活躍している。著名なウクライナ系カナダ人と言うと、国民的英雄にして史上最高のホッケー選手といわれるウェイン・グレツキー(1961~)や、2015年に発足した自由党ジャスティン・トルドー内閣のフリーランド外務大臣もウクライナ系カナダ人の系譜に属する。2004年のオレンジ革命で時の人となったユーシチェンコ元大統領夫人のカテリーナ・チュマチェンコ(1961~)は、ウクライナ系アメリカ人である。彼女の両親は、第二次世界大戦中、ナチスのソ連侵攻後、強制連行されたドイツで出会い、戦後DPとしてアメリカに移住した。

1991年、ソ連崩壊によって誕生したウクライナの独立を世界で最初に承認したのは、カナダであった。念願の独立を果たしたことで、在外ウクライナ人の思いとアイデンティティの模索も、ひと段落ついたかに見えた。しかし、その後2004年のオレンジ革命、2014年のマイダン革命、そしてクリミア危機の勃発など、ウクライナをめぐる情勢はいまだ非常に不安定である。祖国に平穏のまなざしを向けるのはまだ先のことになりそうだ。

(光吉淑江)

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著者略歴

  1. 光吉 淑江(みつよし・よしえ)

    西南学院大学 非常勤講師、久留米大学 非常勤講師。
    【主要著作】
    “Maternalism, Soviet-Style: The Working ‘Mothers with Many Children’ in Postwar Western Ukraine,” edited by Marian van der Klein, Maternalism reconsidered : motherhood, welfare and social policy in the twentieth century, Berghahn Books, 2012. “The Zhinviddil Resurrected: Soviet Women’s Organizations in Postwar Western Ukraine,” Journal of Ukrainian Studies, Vol.36, 2011.「 離散するアーカイブとウクライナ史」(『歴史学研究』第 790号、2004年)。

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