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『ウクライナを知るための65章』特別公開

青と黄のシンボリカ(原田義也)

2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻は全世界に衝撃を与えました。ウクライナへの時事的な関心が高まっている今だからこそ、多角的にウクライナという国を理解する必要があります。
メディアではいろいろな情報が錯綜していますが、そもそもウクライナとはどのような国なのでしょうか?
さまざまな専門家が自然、歴史、民族、言語、宗教、文化などの面からウクライナを紹介する『ウクライナを知るための65章』(2018年刊行)は、そうした疑問に答える格好の1冊です。今般の関心の高まりから注目を集めている本書の一部を、このたび特別公開。 ウクライナを知り、今何が起きているのかを冷静に考えるためにお役立ていただき、是非書籍も手に取ってみてください。

青と黄のシンボリカ~ウクライナの国旗・国章・国歌~

「世界の国旗の中で最も情景的なものは?」と問われたら、筆者は真っ先にウクライナの国旗を思い浮かべてしまう。なぜなら、青と黄からなる色彩の境界部分をじっと見つめていると、それが平面上の図柄であることを忘れて、まるで青空の下に小麦畑(あるいは向日葵畑)の地平線がどこまでも広がる、立体的で奥行きのある光景を眺めているかのような錯覚に捉われるからだ。

ウクライナの国旗

ウクライナの歴史において、この青と黄という色の取り合わせが確認できる最初期の明確な事例は、12~14世紀に繁栄したハーリチ・ヴォルイニ公国の国旗であろう。そこには青地に黄の獅子が描かれていたが、ヨーロッパの紋章学的原則によれば黄は金(オーア)と等価の色であり、青地に金獅子が躍り上がるこのモチーフは、写実的にも視覚効果の上でも、躍動感と生命力に溢れるものとして人々の目に映ったに違いない。

ハーリチ・ヴォルイニ公国の国旗

なお、ポーランド・リトアニア連合軍とドイツ騎士団との間に行なわれたタンネンベルクの戦い(1410)では、前者の一員として馳せ参じたルーシ諸国のリヴィウ連隊とペレミシュリ連隊の軍旗が、それぞれ獅子と双頭の鷲をモチーフとしながら、同じく青地に金/黄の図像の取り合わせで描かれていた。その後、16~18世紀のコサック隆盛の時代には軍旗の配色が多様化し、青と黄に加えて赤、白、黒等が用いられ、これらの色の様々な取り合わせのもとに、十字や魚(いずれもキリストの象徴)、大天使、聖人、星、太陽、半月、弓矢、鷲等が図像に取り入れられた。

国家としてのウクライナ(ヘトマンシチナ)は、18世紀末にエカテリーナ二世によって解体され、ロシア帝国に併合されてしまうが、1848年にヨーロッパを席巻した革命「諸国民の春」に際しては、当時第一次ポーランド分割によってオーストリア帝国に組み込まれていた西ウクライナのリヴィウにおいて、ルーシ(ウクライナ)人の議会が民族意識の高まりを受けてかつてのルーシ時代の紋章(青地に金獅子が「ランパント」の姿勢を取っている)を採用し、同時期以降、現在の国旗の原型となる青/黄の横縞の二色旗が広く知れ渡るようになった。

興味深いのは、この二色旗のパターンに、上半分が青で下半分が黄のもの(現在の国旗と同じ配置)と、上半分が黄で下半分が青のものとの、二種類が存在することだ。一説によると、後者(黄/青)の由来は、上段の縞に紋章の主な図像の色が配される、ドイツの紋章学の影響を蒙ったものであるという。確かに、現在のドイツの国章は金/黄の下地に赤い嘴〈くちばし〉と下肢を持つ黒い鷲が描かれたもので、その国旗の配色を見てみると、上から順に三本の縞で黒、赤、黄という構成になっている。ここから、青地に金獅子をモチーフとした伝統を持つウクライナの二色旗も、上側が黄、下側が青となった、というわけだ。

この黄/青のパターンには、もう一つ印象的な解釈が存在する。それは、青は古来、生命の源である水の象徴であり、豊かに揺蕩〈たゆた〉う大河を表し、黄はその河岸に燦然と輝く金色の丸屋根を持つ教会だとする解釈である。所説の真偽はともかくとして、この解釈はちょっと意表を突いているところもあって、かつ情景的で華麗だ。やはり青と黄の境界部分をじっと見つめていると、ドニプロ(ドニエプル)川の河岸に立つペチェルスク大修道院、あるいは聖ミハイル修道院の黄金ドームが、空全体を輝き照らしているような気がしてくる。

キエフ・ペチェルスク大修道院とドニプロ川

ちなみに現在の国旗は、独立後の1992年1月にウクライナ最高議会において再制定されたもので、独立記念日の前日(8月23日)は2004年以降「国旗記念日」として国民の祝日となっている。さらに現在、国旗や国歌と共に国家の公的シンボルとされている国章について触れておくと、三叉戟〈げき〉のような形をしたこの紋章の起源はルーシのキリスト教化以前の古代に遡り、キエフ・ルーシ時代には、ヴォロディーミル聖公を始めとするリューリク朝の継承者に家紋として用いられた。しかし、何が最初のモチーフであったのかについては定説がなく、三叉戟の他に、獲物を捕らえようとする鷹、船の碇〈いかり〉、王笏〈おうしゃく〉等が候補として挙げられる。そしてこの国章も現在、国旗と同様に、青地に黄の図像を配したものとして定着している。

国旗、国章と共にウクライナのシンボルとされている国歌「ウクライナは滅びず」については、前二者に比べてその歴史は新しい。1860年代、ウィーン体制崩壊後のヨーロッパにおけるナショナリズム高揚の流れの中で、まず民俗学者パヴロ・チュビンスキーの手になる詩が発表され、これに感銘を受けたグレコ・カトリック教会司祭で音楽家としても名高いミハイロ・ヴェルビツキーが曲を付け、現在の歌の原形が整った。以下は、2003年6月に最高議会で成立した国歌法案において採用された、原詞の一番に当たる部分を抜粋し、一部修正を加えたものである。

 

ウクライナの栄光も自由も未だ死なず

若き兄弟たちよ 運命はきっと我らに微笑むだろう

我らの敵は日の下の露の如く滅びるだろう

兄弟たちよ 我らは我らの地を治めよう

 

我ら自由のために心と体を捧げ 示そう

兄弟たちよ 我らコサックの一族であることを

 

この歌は、ロシア革命期に独立を宣言したウクライナ人民共和国や西ウクライナ人民共和国の国歌として採用されたこともあったが(1917~20年)、ソ連時代にはその「分離主義的」ニュアンスが忌避されて影を潜め、代わりにソ連邦への忠誠と共産党礼讃を強調した「ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国国歌」が正式な国歌として採用された(1949~91年)。そしてソ連崩壊後の1992年に独立ウクライナの新たな国歌として復活し、2003年6月の最高議会における国歌法案成立(三番までの歌詞の一番の部分のみを国歌として採用)を経て現在に至っている。

最後に、青と黄のシンボリカをめぐって付け加えておきたいことがある。「その者、青き衣を纏いて金色の野に降り立つべし……」の語りで知られる映画『風の谷のナウシカ』(1984)のラストシーンは有名であるが、宮崎駿監督はこれに先立って『シュナの旅』(1983)という小品の中で青と黄のシンボリカを登場させている。これは『犬になった王子』というチベットの民話をアレンジした作品で、とある貧しい山国の王子が、苦難の旅の末に祖国に麦の種をもたらし、国と民を救うというモチーフが下地となっている。

「西の彼方/大地果つるところに/黄金の穀物が/豊饒の波となって/ゆれる土地が/あるという……」。旅人の遺言を胸に、シュナは西へ向かって旅立つ。物語の中で、黄金の穀物は「豊かさ」の象徴であり、妙なる夢や願望の対象であった。このような青と黄のシンボリカに立ち現れる「豊かさ」は、物語の結末部分で一つの旅を終えようとしていたシュナたちにとって、すでに実現された幸福である以上に、あくまでも未来の夢や願望の対象として留まり続けるものであるような気がする。なぜなら、その「豊かさ」を実現し、享受するためには、物語の主人公たちがその身で示してくれたように、目標への弛まぬ努力と献身をひたすら積み重ねていかなければならないからだ。

そうした意味で、ウクライナの国旗に象徴される「豊かさ」も、その大地が秘める「豊かさ」を表す以上に、「本当の豊かさとは何か」という根源的な問いを私たちに投げかけ続ける、永遠の憧憬であるのかもしれない。

(原田義也)

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著者略歴

  1. 原田 義也(はらだ・よしなり)

    厚生労働省社会・援護局援護・業務課調査資料室ロシア語通訳、明治大学国際日本学部および東海大学教養学部人間環境学科自然環境課程兼任講師。
    1972年生まれ。大阪外国語大学大学院言語社会研究科博士後期課程単位取得退学。文部科学省アジア諸国等派遣留学生、日本学術振興会特別研究員(PD)、早稲田大学国際言語文化研究所招聘研究員を経て、2008年より期間業務職員として厚労省勤務、2011年からは大学講師を兼任。
    主な論文・研究ノートに「「辺境」という名のトポス――地名で読むウクライナの世界」桑野隆・長與進編著『ロシア・中欧・バルカン世界のことばと文化』(成文堂、2010年)、「ウクライナと日本の文化交流――大陸を越えて響き合うもの」(『明治大学国際日本学研究』9(1)号、2016年)、「現代のマドンナは何を祈るか――リーナ・コステンコの詩的世界」(『明治大学国際日本学研究』10(1)号、2017年)などがある。

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