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『ウクライナを知るための65章』特別公開

「ウクライナ」とは何か(原田義也)

2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻は全世界に衝撃を与えました。ウクライナへの時事的な関心が高まっている今だからこそ、多角的にウクライナという国を理解する必要があります。
メディアではいろいろな情報が錯綜していますが、そもそもウクライナとはどのような国なのでしょうか?
さまざまな専門家が自然、歴史、民族、言語、宗教、文化などの面からウクライナを紹介する『ウクライナを知るための65章』(2018年刊行)は、そうした疑問に答える格好の1冊です。今般の関心の高まりから注目を集めている本書の一部を、このたび特別公開。 ウクライナを知り、今何が起きているのかを冷静に考えるためにお役立ていただき、是非書籍も手に取ってみてください。

「ウクライナ」とは何か~国名の由来とその解釈~

 国名や地名はもちろんのこと、あらゆる呼称にはそれが生まれた背景がある。この背景をドラマと言い換えてもよい。つまり、あらゆる呼称はドラマティックである。

では、「ウクライナ」の語源は、一体何か。その答えは定かではない。はっきりしているのは、その呼称が「分かつ」ことを意味する印欧祖語由来の語根「クライ」を内包していることである(現代ウクライナ語においても、「分かつ」を意味する動詞の一つに「ウクラーヤティ」がある)。アカデミー版ウクライナ語辞典(11巻本)の「クライ」(名詞)の項を紐解くと、①「何かの表面を区切る線、またその線に沿ってあるもの」、②「一片、一塊」、③「終わり」、④「国」、⑤「一定の自然および気候的特徴を持つ地方、州、地区等」とある。「分かつ」ことにまつわる語感が派生して、「クライ」はこうした諸概念を表すようになったわけだ。

興味深いのは、「分かつ」ことが、対照的な二つの概念を生み出していることだ。一つは、対象が分かたれることによって生じる「境界」という概念で、そこからは自ずと一番目、三番目の意味が導き出される。そしてもう一つは、分かたれた対象が固有の輪郭を帯びることによって生じる「(一定の)領域」という概念で、そこからは二番目、四番目、五番目の意味が導き出されよう。

「ウクライナ」という呼称が史書において最初に確認できるのは、キエフ・ルーシの歴史が著された『原初年代記』(イパーチイ写本)の1187年の項である。この年、ステップ地帯の遊牧民ポロヴェツ人に対して軍事遠征を行なったペレヤスラフ公ヴォロディーミルが戦死し、「彼を思ってすべてのペレヤスラフ人が哭(な)いた」「ウクライナは大いに悲しんだ」と記されている。そしてこれに続く1189年の項ではハーリチ公国に対して「ハーリチ・ウクライナ」という表現が、1213年の項ではルーシ諸国とポーランドの間の係争地となっていた西ヴォルイニ地方の諸都市に対して「すべてのウクライナ」という表現がそれぞれなされており、キエフ・ルーシの版図に属する諸国・諸地方に対してこの呼称が用いられたことが察せられる。

ところで、先程「ウクラーヤティ(分かつ)」というウクライナ語の動詞を紹介したが、「分かたれた」という語形は「ウクラーヤナ」となり、「分かたれた土地」は「ウクラーヤナ・ゼムリャー」となる。キエフ・ルーシ隆盛の時代において、前出の「ウクライナ」と呼ばれる諸地方がキエフ大公を長とする分封公国であったことを踏まえると、分封地の固有地名が「分かたれた土地」を修飾する形容詞となったとしても(ハーリチ公国であればおそらく「ハーリチ(地方)の分封地」すなわち「ハーリツィカ・ウクラーヤナ・ゼムリャー」となるだろう)、あるいはそれが慣用化されて個々の分封地が簡潔に「ウクライナ(=ウクラーヤナ・ゼムリャー)」と呼ばれるようになったとしても、それらは領域概念から構想された内名(エンドニム)―現地の人々によって呼び慣わされている地元由来の地名―としての「ウクライナ」の、理に適った用法であるように思われる。あらゆる風土は、文化的に任意の特徴を帯びながら成長して固有の領域となり、その母胎から発展的に「分かたれる」ことによって誕生するものだからだ。

その後キエフ・ルーシは、諸公の権力争いによる内紛や外敵との戦い、あるいはモンゴル・タタールの侵入のために衰退し、その政治的・文化的求心力は、大公座の置かれていたキエフから、北東のウラジーミル・スーズダリ公国や、南西のハーリチ・ヴォルイニ公国へと移っていった。そして中世から近世にかけての東ヨーロッパ平原南部一帯は、モスクワ・ロシア、リトアニアおよびポーランド、クリミア・タタールおよびオスマン・トルコ等の列強の緩衝地帯となり、その無帰属性と人口の希薄さゆえに「荒野(ディーケ・ポーレ)」と呼ばれた。

この黒海北岸のステップ地帯が歴史的に「荒野」と呼ばれた事実こそ、「ウクライナ」が境界概念から構想された外名(エクソニム)―外部の言語社会に充てがわれた外来の地名―として人々に認識される際の本質的理由を雄弁に物語るものである。というのも、中世から近世にかけてのウクライナ・ステップは、モスクワ・ロシアから見ても、リトアニアやポーランドから見ても、あるいはクリミア・タタールやオスマン・トルコから見ても、諸国間の係争が絶えない文字通りの危険な国境地帯であり、最果ての「辺境の地」であり、「荒野」とならざるを得ない運命を地政学的に担わされていたからだ。

図:「荒野」形成の概念図

そして、しばしばウクライナの象徴(シンボル)や代名詞ともなっているコサックが誕生したのが他ならぬこの危険な辺境地帯においてであって、隷属・抑圧からの解放を求める者たちが周辺諸国からこの権力の空白地帯に集い、軍事能力を備えた強力な自治共同体を形成するに至ったことは、ウクライナ史上最大のパラドックスと言えるかもしれない。なぜなら、内名としての「ウクライナ」(=分封公国またはその集合体)が荒廃した結果生じた外名としての「ウクライナ」(=「荒野」)が、内名としての新たな「ウクライナ」(=コサック共同体)を生み出す母胎となったのであるから。

16世紀以降のコサック台頭と共に、「ウクライナ」はコサック国家(ヘトマンシチナ)の領土を意味するようになるが、キエフ中興の祖ペトロ・サハイダーチヌイ(1582~1622)を始めとして、フメリニツキー、ヴィホフスキー、ドロシェンコ、サモイロヴィチ、マゼーパ、オルリク等のヘトマン(コサック軍の首領)たちは、コサック国家の領土のことを哀歓込めて「(我らが)ウクライナ」と呼んだ。つまり彼らヘトマンにとって「ウクライナ」は、外名としての「荒野」である以上に、内名としての「祖国」であったということだ。

ただし、ヘトマンたちの切望にもかかわらず、彼らの存命時に「ウクライナ」が国際舞台の正式な国号として認知されることはなかった。16世紀末から17世紀半ばにかけて東欧平原南部の覇者となり、「荒野」の只中に「祖国」の実現を夢見た彼らも、列強との間断なき戦争やコサック共同体内部の不和のために対外的な権勢を徐々に失ってゆき、エカテリーナ二世によるシーチ(コサック軍の本営)の解体(1775年)を経て、コサック共同体によるウクライナは歴史の表舞台から姿を消した。それが独立国家の公称として正式に採用されるのは、ロシア革命期の一時的例外を除けば、ソ連崩壊に伴う独立が実現した20世紀末の1991年になってからのことである。

最後に今一度、古代から現代まで連綿と生き続ける「ウクライナ」という呼称をめぐる歴史を、駆け足ながら振り返ってみよう。キエフ・ルーシ時代、「ウクライナ」は大公国の版図に属する諸国・諸地方に対する内名として用いられた。これに続くキエフ大公座の衰退や東欧平原南部の「荒野」化の時代になると、「ウクライナ」は危険な辺境・国境地帯を意味する外名としてのニュアンスを帯びてゆく。この「荒野」化が逆説的にもたらしたコサック共同体の発生とその勢力拡大の時代には、「ウクライナ」は自由と独立不羈(ふき)を掲げる彼らの「祖国」を表わす内名となった。そのコサック国家が再び周辺列強の支配下に取り込まれ、かつて「荒野」と呼ばれた地域に「ノヴォロシア(新ロシア)」「マロロシア(小ロシア)」という新たな異名があてがわれた時代、あるいはロシア革命後、ソ連を構成する一共和国として、「ソヴィエト」という称号が国名に冠された時代、「ウクライナ」は中東欧の大局的な「中心/周縁」の政治力学上、やはり「周縁」であることを余儀なくされた外名であった。

そして現在、「ウクライナ」は再び、固有の輪郭を備えた「独立国家」という領域概念の内名として、内政・外政上の様々な課題を抱えながらも、新たな自己形成の歩みを進めようとしている。このドラマティックな呼称を与えられた国は、渾沌とした現代に、いかなる新たな秩序を生み出してくれるのだろうか。その歩みに心から期待せずにはいられない。

(原田義也)

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著者略歴

  1. 原田 義也(はらだ・よしなり)

    厚生労働省社会・援護局援護・業務課調査資料室ロシア語通訳、明治大学国際日本学部および東海大学教養学部人間環境学科自然環境課程兼任講師。
    1972年生まれ。大阪外国語大学大学院言語社会研究科博士後期課程単位取得退学。文部科学省アジア諸国等派遣留学生、日本学術振興会特別研究員(PD)、早稲田大学国際言語文化研究所招聘研究員を経て、2008年より期間業務職員として厚労省勤務、2011年からは大学講師を兼任。
    主な論文・研究ノートに「「辺境」という名のトポス――地名で読むウクライナの世界」桑野隆・長與進編著『ロシア・中欧・バルカン世界のことばと文化』(成文堂、2010年)、「ウクライナと日本の文化交流――大陸を越えて響き合うもの」(『明治大学国際日本学研究』9(1)号、2016年)、「現代のマドンナは何を祈るか――リーナ・コステンコの詩的世界」(『明治大学国際日本学研究』10(1)号、2017年)などがある。

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