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『ウクライナを知るための65章』特別公開

独立ウクライナの歩みの概観(藤森信吉)

2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻は全世界に衝撃を与えました。ウクライナへの時事的な関心が高まっている今だからこそ、多角的にウクライナという国を理解する必要があります。
メディアではいろいろな情報が錯綜していますが、そもそもウクライナとはどのような国なのでしょうか?
さまざまな専門家が自然、歴史、民族、言語、宗教、文化などの面からウクライナを紹介する『ウクライナを知るための65章』(2018年刊行)は、そうした疑問に答える格好の1冊です。今般の関心の高まりから注目を集めている本書の一部を、このたび特別公開。 ウクライナを知り、今何が起きているのかを冷静に考えるためにお役立ていただき、是非書籍も手に取ってみてください。

独立ウクライナの歩みの概観~東西の狭間で苦悩~

1991年末に独立したウクライナは独立国家共同体(CIS)創設条約に調印したものの、旧ソ連諸国との経済・軍事統合に関心はなく、自国を「ヨーロッパ国」あるいは「中・東欧国」と定義して脱露入欧政策を進めた。1992年10月に暫定通貨カルボヴァネツを導入してルーブル経済圏からの離脱を急ぎ、「ウクライナの外交政策基本方針に関する」議会決議(1993)においては欧州共同体(EC)への加盟方針が明記された。しかし、この政策はウクライナ経済の崩壊により修正を余儀なくされた。特に1993年初頭からのロシアのエネルギー価格の国際化は、ウクライナ経済に決定的な打撃を与え、ウクライナ政権は93年半ばには早くもロシアとの経済再統合を模索し始めた。この路線転換をめぐりウクライナ政界は二分され、1994年大統領選挙の決選投票では、所謂「ウクライナ東西分裂」が観察された。

安全保障面でもウクライナは厳しい立場に置かれた。当時のウクライナは軍事的中立を掲げていたことに加え、国際的な義務となっていた旧ソ連戦略核兵器の搬出を渋っていたため、欧州安全保障体制から孤立していた。隣国ロシアとはあらゆる分野で対立しており、特に黒海艦隊分割問題、クリミア・セヴァストーポリ市の帰属問題は、武力紛争に発展する危険性を孕んでいた。

一方で、国民統合政策はうまく機能した。ウクライナは異なる歴史経験を有する諸地域から形成されているため、政府は「ウクライナ民族」の定義を明確にせず、民族主義に由来する紛争を避けることに成功した。ウクライナ国籍は希望する領内旧ソ連市民に無条件で付与され、ウクライナ語化も強制されず公的空間でのロシア語使用が維持された。正教会の分裂に関しても、独立当初こそ政権はキエフ主教座と蜜月であったが、クチマ大統領時代になると国家介入は控えられた。歴史問題はおおよそソ連時代の解釈を踏襲し、ウクライナ蜂起軍(UPA)の復権はなく、短期的に存在したウクライナ人民共和国も独立ウクライナと結び付けられなかった。こうした曖昧さを残したままの国民統合政策は、中央の弱さや特定のイデオロギーに基づく動員の弱さを意味し、結果として一極支配を防ぎ、民主主義や多元性が機能することにつながった。しかし、2000年代に入るとユーシチェンコ大統領の拙速な民族主義化政策とその反動とも言えるヤヌコーヴィチ大統領の政策により凍結されていた地域・社会の亀裂が徐々に表面化し、ユーロマイダン革命時に外部の煽動によって露呈することになる。

 

国際環境の変化

独立前後に危機に直面したウクライナだったが、国際社会の変化がウクライナに有利に傾き始めた。まず、核兵器の拡散を恐れるアメリカが経済援助と安全保障の確約を組み合わせることで、戦略核兵器の搬出が開始された。併せて、国際通貨基金(IMF)の融資も実施され、ウクライナは経済危機から脱することに成功した。1993年10月のモスクワの争乱や1994年以降のチェチェン紛争で、ロシアと欧米関係が冷却化したこともウクライナにとって好都合であった。ロシアは、旧ソ連圏における「特別な地位」を主張し始めており、アメリカは、ロシアに対抗するためウクライナの独立を維持して西側陣営につなぎとめようとする政策へ転換した。

図 「東西選択」に関するウクライナ世論調査

このような国際環境の変化の中、ウクライナは軍事的中立を維持しつつ「ヨーロッパ統合・ロシアとの協力拡大」をスローガンに欧米・ロシア間でバランスをとる外交政策を採る。エリツィン・ロシア大統領が介入を控えたことにより、クリミアの分離主義はウクライナ政府によって抑え込まれた。1997年には、NATOとウクライナとの間で特権的パートナーシップ協定が、ロシアとの間で友好・協力・パートナーシップ条約がそれぞれ結ばれた。

一方で、「部分的な経済改革」や民営化によって、1990年代半ばにオリガルヒや地方経済ボスが次々に誕生し、民主主義の後退と汚職蔓延が顕著になっていった。1999年の大統領選挙はその頂点とも言えるもので、2000年以降に一連の反政権運動を引き起こし、2004年のオレンジ革命につながった。

ウクライナは「9・11同時多発テロ」後の米ロ関係の改善を奇貨として2002年春にNATO加盟の意思を公式に表明していたが、オレンジ革命後は脱露入欧政策に一層、拍車がかけられた。革命の高揚感と、2000年以降の長期的な好景気と相俟って、政府はEU・NATO早期加盟の展望を描いた。一方、革命後もオリガルヒの影響力は維持された。オレンジ革命を受け就任したユーシチェンコ大統領自身、プリヴァト・グループやポロシェンコといったオリガルヒの支援を受けており、前政権を支えていたアフメトフ、ピンチュークらオリガルヒがヤヌコーヴィチ落選で一時的に後退したに過ぎなかった。

 

表 ウクライナの大統領と首相
大統領 首相(一部代行機関を含む))
1992 L・クラフチューク91.12.5-94.7.19 V・フォーキン
90.10.23-92.10.1
1993 L・クチマ
92.10.13-93.9.21
1994 Yu・ズヴャヒリスキー
93.9.22-94.6.15
V・マソル
94.6.16-95.3.6
1995 L・クチマ94.7.19-05.1.23

 

Ye・マルチューク
1995.3.6-96.5.27
1996 P・ラザレンコ
96.5.28-97.6.18
1997

V・プストヴォイテンコ97.7.16-99.12.22

1998
1999
2000 V・ユーシチェンコ99.12.22-01.5.29
2001
2002 A・キナフ
01.5.29-02.11.21

2003

V・ヤヌコーヴィチ02.11.21.-05.1.5
2004
2005 V・ユーシチェンコ05-1.23-10.2.25 Yu・ティモシェンコ
05.1.24-05.9.8
2006 Yu・エハヌロフ
05.9.8-06.8.4
2007 V・ヤヌコーヴィチ
06.8.4-07.12.18
2008 Yu・ティモシェンコ07.12.18-10.3.11
2009
2010 V・ヤヌコーヴィチ10.2.25-14.2.22
2011 M・アザロフ10.3.11-14.1.28
2012
2013
2014 P・ポロシェンコ14.6.7- A・ヤツェニューク14.2.27-16.4.10
2015
2016 V・フロイスマン16.4.14-
2017
2018

 

リーマンショックからマイダン、ウクライナ危機へ

楽観論は、2008年の世界的な経済危機と2009年初頭のロシア・天然ガス価格の引き上げにより霧散していく。ウクライナ経済はマイナス成長に転落、東部ドンバスの重工業を支持基盤とする地域党のヤヌコーヴィチが、政権批判を追い風に大統領選挙で当選した。しかし、政権交代後もウクライナ経済は好転せず、次第に行き詰まりの様相を呈するようになる。ヤヌコーヴィチ政権は、ロシアをパトロンと定め、EU・NATO加盟政策の休止と引き換えに、天然ガス価格の値引きや輸出市場確保を実現してきた。こうしたロシア寄りの政策は、ウクライナ経済を救う側面があったが、ヤヌコーヴィチ政権下の腐敗とヨーロッパ統合路線からの逸脱に対する反発が勝り、ユーロマイダン革命(尊厳の革命)により2014年2月に政権は瓦解した。

ロシアがクリミアを併合し、ドンバスに干渉し続ける中、新政権の政策は、ヨーロッパ化、すなわち外交面ではEU・NATO加盟、内政面ではEUスタンダードの徹底となるしかなく、あらゆる分野における対ロシア関係が断絶されていくことになった。ロシア語、ロシア文化、ロシア帝国・ソ連の文化・歴史等、あらゆるロシア性が公的空間から排除され、ウクライナ化に取って代わられている。教育、歴史解釈や正教会においても政権はウクライナ化を推進しており、独立当初の曖昧で寛容な政策は終わりを遂げ、ウクライナ民族主義に立脚する国民統合政策が全面に押し出されている。このようなウクライナ化は、自由・民主主義やマイノリティー権利の観点から問題があるだけでなく、ロシアや東欧諸国の反発を招くことになっている。

(藤森信吉)

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著者略歴

  1. 藤森 信吉

    ウクライナ研究者。
    【主要著作】
    「未承認国家問題の再考―沿ドニエストルの発電問題を中心に」(『神戸学院経済学論集』第49 巻、第1・2 号、2017 年)、「ウクライナの天然ガス市場―ガストレイダーを中心にして」(『比較経済体制学会年報』第39 巻、 2002 年)、「ウクライナとNATOの東方拡大」(『スラヴ研究』47 号、2000 年)。

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