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『ウクライナを知るための65章』特別公開

ウクライナ文化揺籃の地となった北東部(イーホル・ダツェンコ/訳:原田義也)

2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻は全世界に衝撃を与えました。ウクライナへの時事的な関心が高まっている今だからこそ、多角的にウクライナという国を理解する必要があります。
メディアではいろいろな情報が錯綜していますが、そもそもウクライナとはどのような国なのでしょうか?
さまざまな専門家が自然、歴史、民族、言語、宗教、文化などの面からウクライナを紹介する『ウクライナを知るための65章』(2018年刊行)は、そうした疑問に答える格好の1冊です。今般の関心の高まりから注目を集めている本書の一部を、このたび特別公開。 ウクライナを知り、今何が起きているのかを冷静に考えるためにお役立ていただき、是非書籍も手に取ってみてください。

ウクライナ文化揺籃の地となった北東部~シーヴェルシチナ、スロボジャンシチナ、ポルタウシチナ~

 

シーヴェルシチナ

ウクライナの北東部には、東スラヴ民族による最初の国家であるキエフ・ルーシと深い関わりを持つ最古の歴史的地方―シーヴェルシチナ(シーヴェル地方)が位置する。シーヴェルシチナには、チェルニーヒフ州のほぼ全域と、スームィ州の北部が含まれる。シーヴェルシチナや、その語源となったシヴェリャーネ族、彼らの都市であるチェルニーヒフやノヴホロド=シーヴェルスキー、フルーヒフ、プティーヴリなどへの言及は、すでにキエフ・ルーシの最古の年代記に収録されている。この地方は東スラヴ民族の最初の詩的作品『イーゴリ軍記』の中でも謳われているが、この作品の古代ルーシ語が最も完全に保持されているのは、シーヴェルシチナの住人が話すところの、他でもないウクライナ語の北東ポリッシヤ方言である、と考える言語学者もいる(ポリッシヤは東ヨーロッパ平原南西部のドニプロ川・プリピャチ川・デスナー川水系に広がる広大な沼沢地方)。

シーヴェルシチナは、その子孫に類稀な古代ルーシの建築物を遺した。チェルニーヒフにあるプレオブラジェンスキー聖堂、エレツキー修道院、イリンスカ(聖エリヤ)教会、ボリス・グレープ聖堂などは、古代ルーシの建築家たちが備えていた匠の思考の偉大さを証明する、11世紀~12世紀の建築遺産である。

16世紀のコサック国家の時代には、シーヴェルシチナにおける正教会の最も重要な拠点であるフリンスカ・プスティーニ修道院がフルーヒフ近郊に創設され、ウクライナ・バロック様式の新たな教会が建立された。これらの教会は今日までその美しい容姿をとどめ、当地方に彩りを添えている。さらに18世紀初頭には、そのフルーヒフが左岸ウクライナのヘトマン(コサックの首領)たちの居所となり、「ヘトマンシチナ」と呼ばれるコサック国家の首都の機能を果たした。

シーヴェルシチナの自然は、その美しさと無垢さによって我々を魅了する。当地方を流れる最も大きな川は、デスナー川とセイム川である。チェルニーヒフ州の20%以上の領域は森林に覆われている。古代の森は、戦争の困難な時期にも、この地方を保護する役割を果たした。シーヴェルシチナを覆う鬱蒼とした森のおかげで、スラヴ人が存在した最古の時代を貫くキエフ・ルーシの文化的・精神的遺産や、民間信仰、神秘的世界観などが保存されたのである。現地住民の間で最も人気を博しているお気に入りの休息地としては、国立歴史文化保護区「カチャニフカ」がある。この保護区の領域内では、風光明媚な公園と、18世紀のかつての貴族の邸宅をベースとした建築物群を目にすることができる。

 

スロボジャンシチナ

悠久のシーヴェルシチナと比べて、スロボジャンシチナ(スロボダー地方)はウクライナの比較的新しい地方に属する。ハルキフ州、スームィ州南部、ポルターヴァ州およびルハンスク州の一部を含む領域に横たわるスロボジャンシチナに人々が入植し始めたのは、およそ15世紀頃からである。その歴史は、ウクライナ・コサックの出現と結び付いている―カトリック・ポーランドのシュラフタ(地主貴族)に抑圧された西ウクライナの正教徒の農民たちが、南部や東部の自由な土地へ向けて逃亡を図っていたのだ。ウクライナの東部で彼らはシュラフタに従属しない新たな村々を形成し、それをスロボダーと名付けた(「スヴォボーダ」(自由)と同じ起源を持つ)。こうして当地方の名称―スロボジャンシチナが生まれたのである。

コサックの軍事行動が集中したウクライナの南部と同様、スロボジャンシチナはロシア国家の南部国境をクリミア・タタールの襲来から守る役割を果たした。17 世紀中頃、このような城塞またコサック連隊の駐屯地として、ハルキフ、スームィ、オフティールカのような現代のウクライナの都市が成立していった。

18世紀のスロボジャンシチナには、最も高名なウクライナの哲人であるフリホーリイ・スコヴォロダー(1722~ 94 )が住んでいた。「マロロシア(小ロシア)はわが母、ウクライナはわが伯母」とは彼の言葉だが、マロロシアという概念には自らの小さな祖国スロボジャンシチナの意味合いを込め、ウクライナという概念にはウクライナ・コサックの地全土の意味を込めた。マロロシアも、ウクライナも、この哲人にとっては母や伯母のように近しく親しいものであった。

スコヴォロダーの肖像画(作者不詳、19世紀)

18世紀末以降、ハルキフはスロボジャンシチナの行政の中心となり、この地のウクライナ文化の形成において重要な役割を果たした。1805年にはハルキフに左岸ウクライナにおける最初の大学が設立され、1812年には最初の新聞「ハリコフ週報」が刊行された(当時はロシア帝政下であるので、週報の呼称はロシア語読みの「ハリコフ」となる)。

1917年、ハルキフは新設のウクライナ社会主義ソヴィエト共和国の首都となった(1934年にはキエフに遷都)。ちょうどこの時期、ハルキフではボリシェヴィキによるウクライナ化政策が集中的に行なわれ、作家ミコーラ・クリーシ(1892~1937)、舞台監督レーシ・クールバス(1887~1937)、作家で詩人のミコーラ・フヴィリョヴィー(1893~1933)、言語学者レオニード・ブラホフスキー(1888~1961)およびユーリイ・シェヴェリョフ(1908~2002)らが活躍した。

第二次世界大戦後、ハルキフはウクライナの先導的な学術・教育センターとなり、航空機製造、機械製作、軍事工学、並びに国内交通網の一大中心地として現在に至る。

 

ポルタウシチナ

ウクライナのちょうど中心に位置するポルタウシチナ(ポルターヴァ地方)は、現代ウクライナ文化の形成において主要な役割を果たした。ポルタウシチナの領域には、キエフ・ルーシの古代建築が残されているわけではないが、ポルターヴァ、ルブヌイ、ミールホロド、ホロールなどの都市は、東スラヴ民族が絶えず居住してきた最古の集落であり、各種年代記においてもそれらへの言及が見られる。紀元前8~紀元前3世紀には、スキタイ国家の首都ゲロノスがポルタウシチナの北東部に存在した、という説もある。

ポルタウシチナの歴史は、コサックとも密接に結び付いている。17世紀中頃、ハージャチは左岸ウクライナのヘトマンシチナの首都となり、コサックのヘトマンたちの居所が置かれた。コサックの時代には、ウクライナの建築や文学が著しく発展しただけでなく、民俗芸術の最良の模範が生み出された。17世紀のポルターヴァの女流詩人マルーシャ・チュライ(1625~53)の手になる歌のモチーフは、ウクライナの音楽的遺産をさらに豊かなものにした。

マルーシャ・チュライ(ウクライナの切手)

1798年、ロシアのペテルブルグでは、近代ウクライナ語で書かれた最初の文学作品である『エネイーダ』が刊行されたが、その作者はポルターヴァで生まれ育ったイヴァン・コトリャレフスキー(1769~1838)であった。そして彼の次作『ナタールカ・ポルタウカ』および『魔法使いの兵隊』の二つの戯曲は、ウクライナ近代劇の礎を築いた。

ロシア文学の作家として有名なニコライ・ゴーゴリ(1809~52:ウクライナ語名ミコーラ・ホーホリ)の名前も、ポルタウシチナと繋がりがある。由緒あるウクライナ・コサックの家系出身で、ウクライナの作家ワシーリ・ホーホリ=ヤノフスキーの息子であった若きゴーゴリは、ポルタウシチナの自然、その文化、料理、伝統、神秘的な信仰、人々の精神世界、ロマンティックなコサックの来し方などを、世界中に知らしめた。現代ウクライナにおいて最大の定期市である「ソローチンツィの定期市」が年に一度行なわれる伝統も、ゴーゴリの作品と結び付いている。

ポルタウシチナは、ウクライナ古典文学の作家たちを最も多く輩出した地方かもしれない。すでに言及したコトリャレフスキーやゴーゴリの他にも、パナス・ミールヌイ(1849~1920)、レオニード・フリーボフ(1827~93)、エヴヘン・フレビンカ(1812~48)、ミハイロ・スタリツキー(1840~1904)、国民詩人レーシャ・ウクラインカ(1871~1913)の伯父と母であるミハイロ・ドラホマーノフ(1841~95)とオレーナ・プチールカ(1849~1930)兄妹、その他多くの者がこの地に生まれ、またはこの地で活躍した。

(イーホル・ダツェンコ/訳:原田義也)

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著者略歴

  1. ダツェンコ、イーホル(Datsenko, Ihor)

    中京大学・名古屋市立大学 非常勤講師。歴史学Ph.D.(ウィーン大学)。
    【主要著作】
    『オーストリアのガリツィアにおける行政言語としてのウクライナ語(1849-1895)』(ウィーン大学Ph.D. 論文、2012 年、ウクライナ語)、「ウクライナ語を愛でることはロシア語を護ること―ウクライナにおけるバイリンガリズムの問題に寄せて」(『神戸学院大学経済学論集』第47 巻第1-2 号、2015 年)など。

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