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『スピノザ〈触発の思考〉』の世界

三木清とスピノザ(1)

三木清(1897~1945)

哲学者。法政大学教授。京都大学で西田幾多郎、波多野精一らに学び、ドイツではリッケルト、ハイデガーに師事する。帰国後『パスカルに於ける人間の研究』を発表。西田哲学への接近とともに、ヘーゲル・カントの影響下でマルクス主義と哲学の内面的・論理的結合を試みたが、戦時中は近衛内閣の政策集団「昭和研究会」に参画、『新日本の思想原理』では「東亜協同体論」を提起した。45年3月、治安維持法違反のかどで二度目の投獄をされ、終戦直後に獄死。著作に『構想力の論理』『哲学ノート』『人生論ノート』など。1932年、スピノザに関して「スピノザにおける人間と国家」を発表。

※本稿は、小社刊、浅野俊哉『スピノザ〈触発の思考〉』の一部を再編集したものです(本文の注・参照文献の表記は、変更あるいは削除しました)。

 

 

三木清は戦前の思想界においては珍しく、スピノザの思想の先進的な意義のいくつかを読み解いていました。(編集部)

 

スピノザとの出会い

三木清は、19歳の時に西田幾多郎の『善の研究』を読んで「踊躍歓喜」し、彼のもとで学ぶことを決心します。「もしこれが哲学であるならば、そしてこれが本当の哲学であるべきであるならば、それは私が要求せざるにはいられない哲学であり、また情熱を高めこそすれ決して否定しないところの哲学であると私は信ぜざるを得なかった」(『語られざる哲学』)。

しかし、その西田哲学への陶酔と時を同じくして、彼が心を動かされた思想家がスピノザだったことはあまり注目されていません。「それと前後して私が接する幸福な機会を持つことが出来たスピノザ哲学は、私の心に、自然が与えると同じような、けれどもっと純化され透明にされた安静を与えた」。

実際、その後の三木の思索において、スピノザとの縁は決して浅いとは言えません。スピノザとロックの生誕300年にあたる1942年、「二つの三百年祭」という記事を三木は新聞に寄せ、次のように語っています。

曰く、一つの哲学・思想の偉大さは、「それが後の諸時代に対し、その時代のそれぞれの立場から解釈されてそれぞれの場合に栄養となり得る可能性をより多く含むものほど、より大である」と言えますが、「ちょうどスピノザがその例を示している」。また、哲学の偉大さには明晰さのほかに「深さ」という、その哲学の「創作性」を示す次元が存在し、「この二つの方面を兼ね備えた哲学にして初めて真に偉大と云われ得る」のであり、スピノザの『エチカ』には、この「不思議な深さがあった」、と。

この記事の末尾で、スピノザを読むことは当時の日本の思想界にとって「義務」であるとすら記した三木は、その任を果たそうとするかのように、同年、「スピノザに於ける人間と国家」(以下「スピノザ論文」)を発表します。

スピノザの最初期の論文や書簡集まで渉猟したこの包括的な論考には、三木が本格的にスピノザ哲学に取り組んだ痕跡を見いだせるだけでなく、一つの思想家の勘所を敏速かつ的確に把捉する「直感的な識別力」と彼自身が自負するところのものを確認することができます。

例えばこの中で三木は、スピノザ哲学の特徴をなす実体の概念は「存在の純粋な肯定を意味する」と述べたあと、次のように続けています。

スピノザは non-esse〔非‐有〕をば defectus〔欠陥〕いな、「最大の不完全」と見做した。凡てこのような考え方が単に彼の存在論、思惟方法ばかりでなく、彼の倫理学的思想、人間学に至るまで支配している。この点に於いてスピノザはまことに驚嘆すべく徹底的であった。〔…〕否定の積極性、否定の媒介性の思想はスピノザには存しない。

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著者略歴

  1. 浅野 俊哉(あさの・としや)

    1962年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。筑波大学大学院哲学・思想研究科博士課程単位取得満期退学。現在、関東学院大学法学部教員。政治哲学・社会思想史。著書に『スピノザ――共同性のポリティクス』(洛北出版)、翻訳にM・ハート『ドゥルーズの哲学』(法政大学出版局、共訳)など。

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