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『スピノザ〈触発の思考〉』の世界

【番外】 スピノザの生涯と政治思想



バルーフ・デ・スピノザ(1632~1677)

※以下の記述は、『西洋政治思想資料集』(法政大学出版局)の「スピノザ」の項(浅野俊哉)の記述を版元の了解を得て再編集したものです。

 

小社では、このたび『スピノザ 〈触発の思考〉』を刊行しました。そこで、本書の世界の一端を紹介する「『スピノザ 〈触発の思考〉』の世界」という連載を始めます。ここではまず、スピノザの生涯と政治思想を簡潔におさらいしたいと思います。(編集部)

 

生涯と著作
オランダの思想家。『神・人間および人間の幸福に関する短論文』『知性改善論』、『デカルトの哲学原理』のほか、主著『エチカ』や『神学・政治論』『政治論』等の政治的著作も残しました。宗教的迫害をのがれてポルトガルから移住したユダヤ人(マラーノ)の子孫ですが、不敬虔の疑いでユダヤ教共同体を24歳で破門されます。その後は、知的活動の自由を守るためにハイデルベルク大学の哲学正教授の招きも断り、レンズ磨きを生業の一つとしつつ、生涯、質素な暮らしで知的探究を続けていました。

政治思想の特徴
国家の目的を自由とし最善の国家を民主制国家とした『神学・政治論』と、民主制を「完全な絶対統治(omnino absolutum imperium)」と規定しつつも極めて不安定性を帯びた政体と規定した『政治論』での政治的見解は必ずしも同一視できません。

とはいえ、特に『政治論』と『エチカ』に見られるスピノザの政治思想の特徴として、(1)ホッブズ-ロック-ルソーらが彫琢した社会契約説の系譜からの逸脱、(2)政治とモラルの結びつきを前提に社会理論を組み立てる義務論的あるいは疎外論的な系譜からの逸脱、(3)新しい共同性の構成論理(アソシエーション)の提示という点を指摘することができます。

契約概念の無力化と疎外論からの逸脱
スピノザは政治の目的を、何らかの〈真なるもの〉を実現するという方向(道徳の政治的現実化)ではなく、道徳的理想や宗教的真理性とは異なる次元において、民衆の平和と安寧を実現する点にあると考えていました(道徳と政治との分離)。

スピノザの政治学は、人間は諸感情に隷属しており、それらの感情は人間の能力や徳をはるかに凌駕するという事態の現実主義的な認識を基礎に構築されています。彼によれば、法的な共同社会〔国家〕は、そうした諸感情の法則から構成される必然的な析出物ですが、スピノザは、共同社会状態における個人の自然権に関して、ホッブズにおけるような主権への全面的移譲を認めず、社会構成における契約的諸契機よりも、自己保存の努力(conatus)に基づく力能の表出の一次的優先権を積極的に認めました。

さらに、そのような共同社会が一定の安定性を有するための条件として、統治を委託される人々の徳性や高邁さといった倫理性や理念性を一切前提しない形でのシステム構築の必要性を訴えています。

「マルチチュード」によって構成される権利
このような考えは、スピノザが、権利と力能とを同一とみなし、自然権を所与の固定的実体としてではなく、諸力の結合から産出される一定の構成物とみなしていることの帰結です。

「人間は国民として生まれるのでなくて、生まれてのちに国民にされるのである」という彼の言葉は、彼が、統治の主体を、「個人」ではなく、国家的なものの回収を逸脱する諸々の個体性と諸力の結合体としての「多数者(マルチチュード)」〔群衆‐多数性〕とみなし、人間の自己意識や主体性をも規定する諸力の交錯する状態が、スピノザの政治的関心の焦点であったことを示しています。彼が、共同社会形成の強力な理由を、いわゆる一般意志でも自由に向かう精神でもなく、希望と恐怖といった「感情」にみているのもそのためです。

甦るスピノザ
従来の思想史では、単に合理論の系譜に位置する徹底した汎神論者と位置づけられてきた彼の思想も、20世紀後半以降、ドゥルーズ、ネグリ、アルチュセール、バリバール、マトゥロンらの精力的な努力によって、世界的にその現代的意義の見直しが進められています。

『エチカ』を含めた政治的諸著作において、ミクロポリティックな権力の支配に抵抗する能動的な〈生〉のネットワーク形成の手がかりを示し、目的論的な規範性を除いた地点でなお構想し得る社会性・共同性のあり方を示唆するスピノザの主張には、いまだ耳を傾けるべき点が多いと言えます。

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著者略歴

  1. 浅野 俊哉(あさの・としや)

    1962年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。筑波大学大学院哲学・思想研究科博士課程単位取得満期退学。現在、関東学院大学法学部教員。政治哲学・社会思想史。著書に『スピノザ――共同性のポリティクス』(洛北出版)、翻訳にM・ハート『ドゥルーズの哲学』(法政大学出版局、共訳)など。

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