バーリンとスピノザ(2)
スピノザの「能力としての自由論」には、バーリンの二項対立を超える新しい可能性があると考えることができます。(編集部)
支配という問題
スピノザは、自然的な限界によるものも人為的な介入によるものも含め、能力の拡張を妨げる一切の外からの力を、必然性に基づく力の展開――自らの能力それ自体に根拠を置いた、内的力能の解放――に対する障害とみなしています。「強制」ではなく「支配」を問題化しようとしているのです。
この観点の利点は、実効性がある形で、具体的に何が実現されているかという実質的自由の問題を扱うことが可能となるところにあります。
個人的自由はブルジョワ社会の基礎を構成するものでしかなかったというマルクスの古典的な批判にもあるように、たとえ法的に自由な権利が謳われていても、事実上、ある事柄をなし得る能力が、ある任意の個人において実現されていなければ、実質的自由の観点からは、件の個人にとってその自由が実現できる状態にあるとは言えません。「政治的自由は、ある行為者に対して開かれているドアの数と性格によって測定されなければならない」と主張するバーリンの視角からだけでは、支配の構造それ自体を問題視できないためです。
例えば、それぞれのドアには様々な展望が開かれていたとしても、そもそも選択できるドアの数が誰かによって、または何らかの力によって制限されている場合にも――その制限は可視的な場合も不可視の場合もあり得ます――我々は自由であると言えるでしょうか。経済的な格差と貧困ゆえに、自らの進みたい道を当初から想像できないでいる子どもたちは自由を奪われていないのでしょうか。
自分が目にしたいニュースや刺激だけの溢れる閉じた空間に引きこもる人々、あるいは本人には全く無自覚な形で、巧妙にパーソナライズされた情報によって自らの見解を形成され、それに基づいて「自由に」政治的行動をしている人々は、人為的な強制がない以上、自由だと言えるのでしょうか。
さらには、拘禁や拷問を受けることもなく有り余る選択肢が目の前に開かれているにもかかわらず、人々があえて自分たちの自由を束縛する途に開かれた一つのドアに殺到する場合にも、それを自由と呼ぶのでしょうか。
二項対立を超えて
自由を能力として、すなわち力の実効的な実現の度合いとして捉えるスピノザの見方は、特定の人々の行為に起因するものとは必ずしも規定し得ない、様々な支配の構造を炙り出すことに役立つだけではありません。この見解は、自由の主観的捉え方に結びつく「孤立した個人」という近代自由主義の前提を外して問題を捉える点で、様々な領域で遂行されてきた抵抗と解放の系譜を、相対的に客観的な仕方で捉え直すことをも可能にします。
つまり、人々が、必ずしも「人による強制」とは限らない支配の壁を乗り越え、多様な形の自由を獲得するため――自分たちの能力を拡張するため――に、連携し、抵抗し、集合的に力能を合成し、力の新たな創造を図ってきたという事実への再評価です。
もちろん、この新しい次元から捉えられた自由によって、バーリンの消極的自由が否定されるわけではありません。人による強制も、能力を能動的に展開する際の明らかな障害の一つにほかならないからです。
消極的自由をめぐる議論は、能力としての自由の議論の一角として包摂され、さらに広く、豊かな自由の領域のもとに、再定位されていくことが可能です。その一つの方途をスピノザの思想が提供しています。
イメージするならば、一方には、自由の内包する問題を、明確化すると同時に単純化もした結果、現実的な自由の位相の変化に追従することが困難になり、出口が判然としない状態になっている思想的袋小路があります。
しかし他方には、そのような地平など意に介さず、息のできる空間を求め、まるでモグラやヘビのように縦横に動き回り、離合集散し、新しい集合の組み合わせを試す無数の存在があります。
様々な支配を掻い潜り、自らの感性や想像力、思考や欲望の限界を押し広げつつ、自己を通して表現される様々な能力の拡張と解放に余念のない人々。
あるいは、網の目のように張り巡らされたネットワークを目も眩む速度で移動しながら、誰も想像したことのない事を試みたり、まだ見ぬ次元を作り出す実験を行いつつ、物質的とも精神的とも規定し難い新たな経験の領野を切り開くことを止めない夥しい数の人々や集団も。
そのような存在は、どのような意味で自由なのか、そして自由でないのでしょうか。
スピノザによる能力としての自由論が問題にしているのは、その点にほかなりません。
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