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『スピノザ〈触発の思考〉』の世界

シュミットとスピノザ(2)

不純なる主権

なるほどホッブズも、民衆と主権者との関係を力という概念で規定することを試みてはいます。しかしそれにもかかわらず彼の思想は、最小限の自己保存権のみを残し、構成員の権利を全面的に単一の権威に移譲することを通して、民衆の有するほとんどの諸力を超越的秩序が捕獲する形態をとるため、主権権力であるコモンウェルスと民衆との間には、いったん権威が確立したあとは、原理的に言って主権の側からの――上から下への――一方向的な力の関係性しか現れません。

というよりむしろ、その点にこそホッブズ的権力観の要諦があります。これはシュミットの場合も同じです。

それに対しスピノザは、権利という概念の持つ超越的・規範的な性格を剝奪し、それを力に還元することによって、国家の統治権とそれを構成する諸個人、その双方の力の相互作用のうちに政治的プロセスを見ようとしています。

事実、よく知られている通り、ホッブズの場合と異なって、スピノザにおいては、各人の自然権が国家状態の中で消滅することはありません。

一人一人の自然権は、事態を正しく考えるなら、国家状態の中においても終熄はしない。実際、人間は、自然状態においても国家状態においても、自己の本性の諸法則に従って行動し、自己の利益を計る。人間は――あえて言うが――そのどちらの状態においても、希望ないし恐怖によって、このことやあのことをなしたりなさなかったりするよう導かれる。両状態における主な違いは、国家状態においては、すべての人々が同じ恐怖の対象を持ち、すべての人々が同じ安全の基盤と同じ生活様式とを有するという点にあるが、このことは決して各人の判断能力を解消しない。(『政治論』第3章第3節)

スピノザの考えでは、人々の持つ感情の力、すなわち自らが形作る群衆‐多数性の力を恐れることによって国家状態――法的秩序の措定とそれに対する服従――は構成されますが、そのことは、判断能力や理性を国家に譲り渡すことには、いささかもなりません。

主権の源泉は民衆、すなわち群衆‐多数性(ムルチチュード)の力であり、その力はホッブズのように移譲はされないので、主権の確立後も依然として民衆が保持したままです。民衆の力は、法と主権をおびやかす脅威として常に現前し、後述するようにある閾値を超えた時にはそれらを打ち崩し、新たな法と主権を確立する能力として残り続けます。

スピノザにとって主権は、民衆の力にとって外的に、すなわち超越的に到来する不可抗の存在ではなく、民衆の力が生産したものであり――たとえそれが君主制や貴族制の形態をとったものであろうと――、力の場の中に浮かぶ暫定的な結節点にほかなりません。

したがってスピノザは、政治社会において主権者による決断が存在しないと言っているのではありません。主権的な性格を帯びた決断は存在します。

しかしそれは、一人の主体によって行使される透明なものではなく、それを構成する様々な力によって徹頭徹尾規定された不定形のものであり、一定の政治的諸関係の産物です。それはいわば「不純なもの」なのであり、純粋な起点でも原因でもなく、一つの過程であり、結果に過ぎません。

「真理ではなく権威が法を作る」のがシュミットだとしたら、スピノザの定式では「権威ではなく(諸)力が法を作る」のです。

アウトサイダーの思考

シュミットは、国家的な共同体に対する情緒的な思い入れや、国家の伝統や歴史を重んじる保守主義者としての立場から、スピノザの思想をアウトサイダー、すなわち局外者の思想と評しました。ドイツという国家の中での局外者といえば、その筆頭に挙げられるのがユダヤ人であることを考えると、スピノザがそのように規定されることに驚きはありません。

しかし、シュミットの思想の限界は、彼が依拠する自明性を根拠に、「敵」を境界の外部へ放逐可能な存在、「味方」を境界の内部へ包摂可能な存在と分けてしまうその二分性にあります。

「アウトサイダー」であるスピノザは、そのようには考えません。一つの国家や共同体にも、主権の構成の局面や行使の局面にも、様々な力の分節と組み合わせがあり、刻々とその布置は変化しています。

シュミットに倣って「敵」を、「自分にとって異なるもの」と仮定すると、一つの国家の中にも、一つの主権的決定の中にも、その決定を下す一人の人物の意識や欲望の中にも「敵」がいるのです。アウトサイダーの思考とは、このような「異」性を決して手放さないことほかなりません。

そしておそらく、シュミットが1920年代、中立的国家を嘆きつつ理論的活動をしていた頃からすでに世界は、大規模な技術的・経済的なイノベーションの進行とともに、領域性よりも非領域性が重要度を増す空間が徐々に広まり、そこではむしろ、このような「異」性に満ちた者同士がいかにして一定の共同性を構築することが可能かという問いに対する応答を無視しては、およそ統治という営みが成立し得ない方向へと動き始めていました。

したがってシュミットがさらに一歩進んで問題にすべきだったのは、敵と味方という政治的な区分が、あるいは主権という「表象」が、人々にとってあたかも自明なもの、質感と重みを伴った形象として生成される権力空間とはいかなるものであるか、という問いだったでしょう。

自明性から出発する――『政治的なものの概念』におけるように――のではなく、自明性そのものの成立根拠を問う――「政治的なもの」(das Politische)それ自体の起成原因を追究する――こと、これが政治学の本来の任務の一つであることは間違いありません。

そしてそれは権力の本性をめぐる問いに直結します。

 

 

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著者略歴

  1. 浅野 俊哉

    1962年生まれ。慶応義塾大学文学部卒業。慶応義塾大学法学部を経て筑波大学大学院哲学・思想研究科単位取得満期退学。2004年より関東学院大学法学部教授。2005年より同大学大学院法学研究科教授。政治哲学・社会思想史。著書に『スピノザ――共同性のポリティクス』(洛北出版)、翻訳にM・ハート『ドゥルーズの哲学』(法政大学出版局、共訳)など。

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