スピノザにおける〈良心〉/あるいは、悲しみの情動(2)
スピノザは、いわゆる〈良心〉に関して、非常に素っ気ない扱いをしています。
「有害かつ悪」である良心
スピノザが良心について最初の明確な記述をしているのは、1650年代の後半から60年代前半に書かれたと推定されている『神・人間および人間の幸福に関する短論文』においてです。その第2部第10章「良心の呵責と後悔について」と題された部分を確認してみます。以下は、その章の全文です。
この 二つ〔良心の呵責と後悔〕は、驚きからのみ生じる。というのも、良心の呵責は私たちが、善か悪かを後になって疑うような何かを為すことにのみ由来し、一方、後悔は私たちが何らかの悪を為したことから生じるためである。多くの人々は、自分たちの知性を常に適切に使う際に求められる訓練を欠いているがゆえに、知性をよく用いながらもしばしば誤る。そのため、良心の呵責と後悔は、そうした人々に正しい道を示すものとみなされ、かくして、世間全般でそう考えられているように、この二つは善であると結論する人々もいるかもしれない。
しかし適切に考えてみれば、私たちはそれら二つが善でないばかりか、むしろ逆に有害であり、結果として悪であることが理解できる。なぜなら、私たちは、理性と真理への愛によってのほうが良心の呵責と後悔によってよりも常に正しい道に至ることは明白だからである。さらに言えばこれら二つが、一種の悲しみだからである。悲しみは、私たちが先に証明したように、有害であり、それゆえ私たちはそれを悪として自分たちから遠ざけなければならない。ゆえに良心の呵責と後悔も、有害かつ悪であって、避けかつ逃れるべきものである。
スピノザはここで、良心の呵責と後悔が、「有害かつ悪」であると断言しています。その理由は、それが「悲しみ」だからです。すでに初期の段階から、スピノザが良心を尊重すべきものとしては位置づけていないことが窺えます。
ではこのような考えは、スピノザの思想の最も円熟した形態とみなし得る『エチカ』ではどのような発展を見せているのでしょうか。
実は『エチカ』において、彼がいわゆる「良心の呵責」について述べたと推定される部分は、一箇所しかありません。
意識 の責め〔良心の呵責〕(morsus conscientiae)とは、満悦(gaudium)に対する、悲しみである。(『エチカ』第3部定理18備考2)
ニーチェが先に引用した部分、ここだけです。なんとあっけない記述でしょうか。
『エチカ』では「良心の呵責」という主題が展開されるどころか、スピノザはそれを「悲しみ」の一種に包含し、その問題を大きく取り扱わない方向性をむしろ強めています。聖書を聖書のみから解釈することを訴えた『神学・政治論』が、匿名で出版されたにもかかわらず「無神論」という轟々たる非難を招いたことからもわかるように、相当な言論の自由を謳歌していた17世紀のオランダにおいても、一般的な思潮はスピノザに極めて厳しかったと言えます。
そのためスピノザは、推敲を重ねていた『エチカ』の公開(本書は生前には出版されていません)にあたっては相当慎重に、しかし、彼にとって常にそうであるように、書くべきことはあくまで大胆に述べようと心がけていたはずです。こうした状況を考えると、このスピノザの良心に対するつれなさとその評価の切り下げは、確信犯とみなすことができるでしょう。
しかし「常識的」に考えた場合、もし人が「良心なし」に活動するとしたら、それは非常に大きな危機を社会に招き寄せることになるのではないでしょうか。各人によってその大小・強弱は様々であれ、良心という「万人にとっての番人」が絶えず目を光らせているからこそ、人々は、曲がりなりにもよりよき生を営み、よりよき社会を創り出すことができるのではないでしょうか。
そういった意味で、仮にスピノザの思想がニーチェの語るような「良心なき世界」の賛美なのだとしたら、それは「病からの快癒」であるどころか、人間を一切の社会的・倫理的制約から放免し、何の縛りもない野獣のような状態、無秩序なカオスへと頽落させる危険な囁きとさえ言えるのではないでしょうか。