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『スピノザ〈触発の思考〉』の世界

アドルノとスピノザ

テオドール・アドルノ(1903~1969)

ドイツの哲学者、社会学者。フランクフルト大学教授。ナチスの迫害を逃れ米国に亡命したが、戦後帰国。フランクフルト学派の代表的思想家の一人。その思想はヘーゲルの影響を受けつつも、体系性を拒否し、精神の物象化傾向を鋭く析出するところに特色があり、近代文明と現代社会への批判を主題としている。『啓蒙の弁証法』『否定弁証法』等多数の著書がある。著作の多くの箇所でスピノザ批判を行っている。

※本稿は、小社刊、浅野俊哉『スピノザ〈触発の思考〉』の一部を再編集したものです(本文の注・参照文献の表記は、変更あるいは削除しました)。

 

アドルノは『啓蒙の弁証法』などでスピノザの「自己保存」概念を批判していますが、それには十分な妥当性があるでしょうか(編集部)。

 

自然に反する「自己保存」

ここまでのところからも了解できるように 『啓蒙の弁証法』などでアドルノが執拗に描こうとしているのは、人間における個的生命の生存衝動として表出する自然――すなわち自己保存――が、自らの限界まで展開しようとする際、保持されるべき当の個体すら破壊するに至ってしまうというパラドキシカルな事態です。

後年の『否定弁証法』において彼は、この自己保存概念がスピノザに由来することに改めて注意を促しつつ、その概念の有する破壊的な「イデオロギー性」を問題にしています。

スピノザの「自己保持」、すなわち自己保存とは、本当は、すべての生物体の自然法則である。それは同一性の同語反復を内容としている。ともかく、すでに在るものが在るべきだというわけである。そこで意志は対象に背を向けて、意志動機の方へと方向を変え、この意志動機が意志自身の単なる手段でありながら目的となる。この方向転換が、すでに虚偽意識に向かっての方向転換なのである。仮にライオンが意識を持っているとして、ライオンはカモシカに激しい怒りを感じるからそれを食べようと欲するのだと言うなら、それはイデオロギーである。(『否定弁証法』)

スピノザに親しんでいる読者ならすぐに気付くように、アドルノはここで、巧妙な言い換えをしています。正確に言えばスピノザは、「在るものが在るべきだ」と当為を述べたのではなく、いわば「在るものが在る」という存在的事実を主張しているのみであり、また、「意識」や「怒り」によってそれを正当化もしていません。

言うまでもなく、スピノザは社会ダーウィニズムの唱道者ではないからです。しかしこの点は、後に検討することにして今は措いておきます。

ともあれアドルノにとっては、いかなる理由があれ、「自己保存は、手段を目的として固定化するが、その目的はいかなる理性の前でも決して正当化されることはない」(同上)のであって、これを言い換えれば、自己保存は理性に反するというのが、彼の揺らぐことない基本了解なのです。

ところで、以上のような主張から浮かび上がってくるアドルノの自己保存理解の特徴とは何でしょうか。

それは彼が、自己保存の衝動を、個的な利害のみを考慮する「個人の衝動」へと還元された形式で理解しようとしており――上述の、意識を伴った怒りというスキーマ自体が、ある意味「ブルジョワ的自己意識」の表現となっています――、また、技術と知識の進展を「絶対的物象化の進展」と規定していることからもわかるように、広範な人間の知性とその産物を、もっぱら内的・外的な自然を「支配」するものとして捉えようとする点です。

こうした理解は、「誇張のみが真実である」と述べ、ある契機の一面性の強調を敢えて行うことによって既存の知のシステムを揺るがすことがアドルノの好んだ方法であったことを差し引いても、彼ほどの広範な識見を有した哲学者の主張にしては、ややステレオタイプな見解との印象を受けざるを得ません。

理性と計算的合理性

では、アドルノの考える「理性」についてはどうでしょうか。

こちらもまた、残念なことに、かなり彼流にバイアスをかけた規定がなされています。

例えばアドルノは、「科学によって窮め尽くすことのできないような存在はこの世に存在しない、しかし、科学によって窮め尽くすことのできるものは存在ではない」という「神託」を下したのがカントであると指摘しつつ、「物それ自体」と「現象」とを二分することによって認識論的な袋小路に自閉していく近代理性の試みを批判しようとします。

そのさい彼は、理性の極めて重要な側面を――洞察力としてでも対話能力としてでもなく――いわゆる「計算的合理性」と同一視しようとします。曰く、「理性は、計算的思惟の法廷を打ち立てる。計算的思惟は、自己保存という目的にあわせて世界を加工し、対象を単なる感覚的素材から隷従の素材へと設える以外に、いかなる機能も知らない」、「理性は計算と計画の道具であって、目的に対しては中立的であり、その基本原理は均等化である」、「理性は目的を欠いた、それゆえ、いかなる目的にも結びつく合目的性となった。理性とは即自的に見られた企画(プラン)である」(『啓蒙の弁証法』)……等々。

果ては、「科学とは、観察された規則性に限定され、ステレオタイプのうちに保持されている、同一的なものの反復である。(…)数学的公式とは、意識的に管理された退行であり、その点ではかつての呪術的儀礼と変わりない」という、いささかエキセントリックな主張まで行っています。

ともあれアドルノは、少なくとも『啓蒙の弁証法』の中では、理性の能力を、計算的合理性や道具的理性というかなり限定した範疇に局限し、「理に適う」ということの意味を、適応や迎合とほとんど同一視するかのような姿勢をとっています。

しかしながら、自己保存の概念であれ理性であれ、アドルノが糾弾する部分は、本当にその本質的な勘所を突いたものなのでしょうか。

仮にそれが的外れ、とまではいかないにしても、単に属性の一部であるものを全体とみなして非を鳴らしているのだとしたら、アドルノの鋭利な批判は、それでも自らの正当性と破壊力を維持し続けることが可能でしょうか。

実のところアドルノとスピノザは、その違いを探ろうとするほど、対立する様相よりも、逆に非対立的な契機のほうが顕わになるという奇妙に捻れた関係にあります。

以下の章では、この「自己保存」概念と、アドルノが一貫して非難し問題視してきた「全体性」、そしてそれとは対照的に彼が終始是認し固執し続けてきた「否定」という概念――この3概念は、スピノザの思想の本質を捉える際に不可欠とされる点でもあります――に焦点を当ててその内実とスピノザの立場とを比較し、この両者が奇妙な反転を見せる地点を浮き彫りにしていきます。

 

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著者略歴

  1. 浅野 俊哉(あさの・としや)

    1962年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。筑波大学大学院哲学・思想研究科博士課程単位取得満期退学。現在、関東学院大学法学部教員。政治哲学・社会思想史。著書に『スピノザ――共同性のポリティクス』(洛北出版)、翻訳にM・ハート『ドゥルーズの哲学』(法政大学出版局、共訳)など。

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