スピノザにおける〈良心〉/あるいは、悲しみの情動(1)
※本稿は、小社刊、浅野俊哉『スピノザ〈触発の思考〉』の一部を再編集したものです(本文の注・参照文献の表記は、変更あるいは削除しました)。
ニーチェは、スピノザと自らの思想の結びつきを強調していますが、ある箇所でスピノザに関して興味深い指摘をしています。
無垢=負い目のないスピノザ
ところで良心の起源をめぐるこの有名な箇所でニーチェは、一つの印象的な記述をしています。
すなわち、「スピノザにとって世界は、良心の疚しさが創案される以前のあの無垢=負い目なさ(Unschuld)の状態へと立ち戻った」という指摘です。
このことは、ある意地の悪いやり方でスピノザの悟るところとなった(これが、例えば、スピノザを誤解することに大まじめに努力している解釈者たち――クーノ・フィッシャーのような――を手こずらせる点なのだが)。それは、彼が何かある思い出をかきよせながら、あの有名な〈良心の呵責〉(morsus conscientiae)なるものが彼自身に残っているだろうか、という問いに耽っていたある日の午後のことだった。(……)さて今や、スピノザにとって世界はまた、良心の疚しさなるものが創案される前のあの無垢の状態へと立ち戻った。ここで、良心の呵責はどうなったか?ついに彼は自らに言ったのである、「これは満悦の反対物、――あらゆる期待を裏切る結果となった過去の事柄の表象に伴う悲しみである」(『エチカ』第3部定理18備考1、2)と。(『道徳の系譜』)
ニーチェの主張が正しいとするならば、ニーチェ自身が自らの「先駆者」と認めていた通り、スピノザこそ、人類の「病」を治癒する者であり、負債という良心の重圧にあえぐ人々にそこからの自由をもたらした初めての「解放者」であったということになるでしょう。
次節で検討するように、確かにスピノザは右のように述べ、良心に対して、独自の徹底した価値の切り下げを行っています。仮にシュトーカーが述べるように、「あらゆる良心現象の究極的な確信は負い目の体験である」というのが事実であるとするならば、スピノザはまさに負い目のない「良心なき世界」を私たちに開示してみせたことにもなるかもしれません。
しかしそれは、ニーチェが賞賛するような「悦ばしき福音」なのでしょうか。むしろ、「良心の疚しさ」を退けるスピノザの姿勢が、後代になってレヴィナスらが厳しく批判するような、他者の抹殺、ひいては「アウシュヴィッツ」のような悲劇をもたらす一因となったとは言えないでしょうか。