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エリア・スタディーズ200巻突破記念連載 「わたしとエリア・スタディーズ」

火事場の〈エリア・スタディーズ〉(米倉伸哉)

世界の国と人を知るための知的ガイド〈エリア・スタディーズ〉シリーズがおかげさまで遂に200巻を突破しました!

この節目を記念して始まった連載「わたしとエリア・スタディーズ」では、 〈エリア・スタディーズ〉に触発され、さまざまな研究を行う若手研究者たちの経験やエピソードを紹介しています。〈エリア・スタディーズ〉が探求する多様なテーマに関連する体験や研究の裏話、そして〈エリア・スタディーズ〉を通じて感じたインスピレーションに焦点を当て、シリーズに寄せるメッセージをお届けします。

第7回は、戦後の在日朝鮮人文学について研究をしている米倉伸哉さんにエリア・スタディーズ・シリーズの主眼とご自身の研究、その始まりについて論じていただきました。

 

 

2021年の秋、私はにわかに焦りはじめていた。それもそのはず。卒業論文の提出を12月に控えながら、扱う研究対象すら定まっていなかったのである。7月にA4一枚の計画書を提出してからというもの、漠然とした問題関心だけがふくらみ、研究への着手は後ろ倒しになっていた。

そもそも、どうしてこんなことになったのか。私が進学した早稲田大学文化構想学部は、現代の大学にしては珍しく、学部一年次に教養課程(らしきもの)を設けていた。第二外国語の習得と二年次以降のコース選択のために与えられた時間らしい。カリキュラムの柔軟さを活かして私はさまざまなコースの授業を履修し(あるいは“潜り”)、そのうち大半の授業で、履修放棄したり最低評価を頂戴したりした。芳しくない成績はのちの大学院入試にまで尾を引くことになるのだが、そんななかで、「文学」と「韓国」だけは、毎年きまって履修するテーマとして残り続け、そこそこの成績をもって応えてくれた。

3年次に進級した私が選んだゼミは英語圏文学の翻訳実践を中心に据えていたためか、論文執筆の作法や研究課題の設定といったトレーニングは皆無だった。大半の学生が文学作品の翻訳をもって卒論とするなか、どうしても学術論文を書いてみたかった私は、ひとりで右往左往しているうちに、4年生の秋口を迎えてしまったというわけだ。

そんなとき、『韓国文学を旅する60章』(波多野節子+斎藤真理子+きむふな編、2020年)をふと手にしたことを覚えている。卒論の題材探しを兼ねて、韓国文学のざっくりとした見取り図を得ようとした私は、現代作家よりはむしろ、植民地期の朝鮮出身の作家たちに惹かれ、けっきょく、日本語/朝鮮語で創作を行なった作家・金史良(キムサリャン、1914-1950?)の翻訳活動について卒業論文をしたためることになる。「韓国文学」の源流に影を落とす植民地支配の記憶に、本書が導いてくれたのだ。私はその後も、戦後の在日朝鮮人文学に関心を移し、大学院で研究を続けている。

 

〈エリア・スタディーズ〉の描きだす「地域」とは、スタティックで固定化されたものではありえない。というよりも、人々の移動と交差によって不断に書き換えられる「場」のありようをそのつど捉え続けることこそが、本シリーズの主眼と言ってもよい。たとえば、『済州島を知るための55章』(梁聖宗+金良淑+伊地知紀子編、2018年)は、表象・歴史・風土などのスコープをもちいて済州島の現在を活写してみせる試みである。香川県ほどの小さな島は、近現代に限ってみても、日本の植民地支配と現代韓国政府による二重の暴力の痕跡をとどめている。日韓の歴史記述においてつねに〈周縁〉としてまなざされてきた土地を中心に物語を書きなおすこと。それは、島が抱える深い傷を照射することでもある。

私は、文学研究者であるほどには韓国学研究者ではない。研究対象を前にするとき、それが生み出された地域を知る前に、自身の依拠するディシプリンでいかに対象を分析できるか考えてしまう。文学理論で作品を切り拓くという営為は、文学テクストに対する普遍的な姿勢を持つために不可欠だが、ややもすると、その作品を生んだ土地が抱える歴史、テクストに織り込まれているはずの人々の声を聴き落とすことにもなりかねない。そんなとき〈エリア・スタディーズ〉は、もう一度注意ぶかく地域に眼を向けるための、良い薬になってくれる。

 

私が〈エリア・スタディーズ〉と出会ったのは、卒論に追い込まれていた時期のことだった。だが、そんな「火事場」を経てなお、〈エリア・スタディーズ〉は研究の導き手として、そしてときに立ち止まらせてくれる良きパートナーとして、私の書棚にその鮮やかな装丁を見せている。

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著者略歴

  1. 米倉伸哉(よねくら・しんや)

    立教大学大学院文学研究科比較文明学専攻修士課程。研究対象は在日朝鮮人文学。

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