神は細部に密かに宿る――ジョイスとボイランの「大胆な手」
昨年(2019年)から、本連載の担当者3名(南谷奉良、小林広直、平繁佳織)は、2か月に1度のペースで『ユリシーズ』の読書会を行っている(2022年の『ユリシーズ』―スティーヴンズの読書会)。初回は奇しくも『ユリシーズ』の1日(ブールムズ・デイ)と同じ6月16日であった。開催に先立つ幾多の打ち合わせの中で、様々なことを議論したが、第4挿話から読み始めることについては、極めて自明のことのように感じられたし、実際『ユリシーズ』の解説本では、しばしば第4挿話から読むことが推奨される。しかし改めて考えてみれば、途中から読むことが奨励される小説(フィクション)というのも奇妙な話だ。一般的に、物語は始めから終わりまで読まないとわからないのではないか、と考えるのが自然であろう。
ここで『ユリシーズ』を読む上での基本情報を整理しておきたい(*1)。
・『ユリシーズ』は全18挿話から成る
・出版された1922年2月2日はジョイスの40歳の誕生日
・ユリシーズは古代ギリシャの英雄、オデュッセウスのラテン語名である(故に、『ユリシーズ』は『オデュッセイア』のパロディと言える)
・『ユリシーズ』は1904年6月16日(木)の朝8時から翌日の深夜3時~4時ごろまでの「1日」を描いている(*2)
・『ユリシーズ』の中心人物(主人公)は3人
①22歳のスティーヴン・デダラス(カトリック・アイリッシュ):テレマコス(息子)に対応(*3)
②38歳のレオポルド・ブルーム(ユダヤ系アイルランド人):オデュッセウス(父/夫)に対応
③33歳のモリー・ブルーム(ブルームの妻):ペネロペイア(妻)に対応
・第1挿話~第3挿話はスティーヴンが中心人物で、第4~6挿話はブルームが中心人物であり、時刻はおおよそ午前8時から正午まで
最後の点に着目していただければわかるように、第1挿話と第4挿話は同時刻の「朝8時」から始まる。つまり、第3挿話(柳瀬訳では午前11時から11時30分)で一度進んだ時間が、何の説明もなく再び朝の8時に戻る(これもまた通常の小説作法では特異な点と言えるだろう)。
私たちの読書会は第4挿話から始まり、第1→第2→第3と進み、そして現在第5挿話を読み終えたところであるが(2020年4月現在)、第4挿話から読み始めることによって、同時刻の朝8時からの出来事(朝食の場面)を比較できるだけでなく、3人の主人公の中では最も重要なレオポルド・ブルームの人物像を第4挿話で一通り知った上で、改めて最初に戻って読むことで、『ユリシーズ』の作品世界はより身近なものとなるだろうというのが、私たちが第4挿話から始めた最大の理由であった。(*4)
これまで私は連載第2回で「反復」を通じて1語(bowl)に着目することの意義(「見える反復」)、第5回では反復が頻繁に、時に挿話をまたいで起こることの意義(「見えない反復」)、そして第7回では、テクストの空白/欠如、すなわち「死角(blindness)」について検討してきた。細部に亘って詳しく書かれすぎている、長く分厚い小説でありながら、『ユリシーズ』の読者は、詩を読むように何度も行きつ戻りつ、繰り返し丁寧に読むこと、すなわち〈深読み〉を求められる。そして、時に私たちは書かれていない部分にも着目する必要がある。反復と空白(死角)の2点を念頭に置いて、以下の場面を見てみよう(*5)。
前回の連載の最後で私は『ユリシーズ』第4挿話の2つの場面を引いておいた。
(画像)2003年に公開された映画 Bloom (Directed by Sean Walsh)より。
引用①
二通の手紙と一枚の葉書が玄関床にあった。屈んで拾い上げる。マリアン・ブルーム様。弾んでいた心がたちまち静まった。力まかせの筆跡。マリアン様。
――ポウルディー!
寝室に入って目を細め、暖かな黄色の薄明りの中、ベッドの乱れ髪のほうへ進む。
――手紙は誰に?
二通を見直す。マリンガー。ミリー。
――僕にミリーから、と、さりげなく言う。それから君に一通。(U-Y 4.111)
引用②
ささくれになった封筒の端がへこみのついた枕の下から覗いていた。部屋を出がけに夫はふと足をとめてベッドスプレッドを伸ばす。
――手紙は誰から? 一言訊いた。
力まかせの筆跡。マリアン。
――ああ、ボイラン、細君は言った。プログラムを持ってきてくれるんですって。(U-Y 4.114)
引用①はブルームが朝食用に近所の肉屋で豚の腎臓を買い、家に戻ってきたときの描写である。このあと、彼は1階の夫婦の寝室から地下の台所に行き(*6)、モリーの朝食(トーストと紅茶)を持って寝室に戻る。その直後の描写が引用②である。
ではこの二つの引用を反復と空白(死角)の観点から読み直してみよう。引用①の冒頭にあるように、ブルーム家にはこの日の朝、「二通の手紙と一枚の葉書」が届いている。拾い上げる際に、「マリアン・ブルーム様」(Mrs Marion Bloom)という文字が目に入り、暖かな日差しとこれから食べる朝食について想像を巡らせて弾んでいた心がすっかりしぼんでしまい、彼は「力まかせの筆跡。マリアン様」(Bold hand. Mrs. Marion)と考える。このフレーズが、引用②でも反復されているのは下線を引いた箇所で見たとおりだ(*7)。
この"Bold hand"という表現は、もちろん訳者の柳瀬氏も充分意識していたことだろうが、実にジョイス的、すなわち象徴的且つ多義的なものだ。今日ボールドは、フォントの「太字」を意味するものとして日本語に組み込まれているように、筆跡においては「力強い」「肉太な」という意味を持つ。同時にこのboldには一義的な「大胆な」「勇敢な」という意味に加え、その否定的なニュアンスを含む「ずうずうしい」「不遜な」という意味が込められている。
なぜボイランの「マリアン・ブルーム様」という宛名は大胆にして不遜なのか。集英社訳の解説を見てみよう――「夫の名前にミセスをつけてミセス・レオポルド・ブルームと書くのが当時の礼儀。差出人のブレイゼズ・ボイランは夫の存在を無視して露骨に彼女の名あてにしている」(集英社文庫訳I、510)。つまりボイランはモリーがブルームの妻であることを否認する(今日では、「マリアン・ブルーム様」という宛名は珍しいことではない)。その意味でもhandの方は、「筆跡」というbold handのコロケーションを一義的には指示しつつも(*8)、「仕方」「やり口」「手腕」「技量」をも指し示すことだろう。かくして"Bold hand"は「大胆不敵なやり方」という意も含み込むわけだ。
そして、最後になったが最も重要なこととして、handは字義通りの「手」であるということを忘れてはならない。つまり、色男ボイランがモリーへと伸ばす「力強い手」であり、このあと彼女の体に触れる「大胆な手」であるとすれば、まさにこの"Bold hand"という言葉は、『ユリシーズ』で起こる最大の事件、ボイランとモリーの不義密通を予告する言葉なのだ。しかし急いで付け加えなければならないが、モリーの不倫は『ユリシーズ』において直接的に描かれることはない。第4挿話で届いたボイランの手紙には、この日の4時(16時)に彼がモリーの演奏旅行のために「プログラムを持ってきてくれる」ことが書かれているらしいのだが(上記引用②)、肝心の4時という時刻がいつモリーからブルームに伝えられたかも描かれることはない(おそらくブルームが実際に家を出るとき、テクストには描かれない第4挿話と第5挿話の幕間でそのような会話がなされるのだろう)(*9)。ブルームは同時刻に設定された第11挿話で、「4時」という時刻を幾度も想起し(U 11.188 / 305 / 309 / 352 / 392)、二人の交わりを想像して苦悶するのであるが、不倫が実際に起きた事実として確定するのは、最終第18挿話のモリーの独白を待たねばならない。つまり、ブルームが家に不在のときに、彼だけではなく読者にとってもまた死角となっている場所で、この悲劇は起こるのだ。
それ故ボイランの"Bold Hand"な手紙は、第4挿話でブルームが肉屋での買い物をしている外出しているあいだ、すなわち彼が家にいないときに届くのである。ブルームは家に帰って来たときに、〈侵入者〉の存在を知る(事実、第17挿話でブルームはスティーヴンと共に帰宅し、ボイランがやって来たいくつもの形跡を認める)。こうして、トロイア戦争後のオデュッセウスの10年間の不在(放浪)は、ブルームの1日の不在(外出)に縮小されてパロディ的に反復されるだけでなく、第4挿話で豚肉を買いに行くあいだの〈小さな〉不在においても反復されているのである(*10)。
『ユリシーズ』という大宇宙のなかにある、第4挿話カリプソーの小宇宙――これを踏まえて再度引用①を読んでみよう。
二通の手紙と一枚の葉書が玄関床にあった。屈んで拾い上げる。マリアン・ブルーム様。弾んでいた心がたちまち静まった。力まかせの筆跡。マリアン様。
――ポウルディー!
寝室に入って目を細め、暖かな黄色の薄明りの中、[彼女の]ベッドの乱れ髪のほうへ進む。
――手紙は誰に?
二通を見直す。マリンガー。ミリー。
――僕にミリーから、と、さりげなく言う。それから君に一通。(U-Y 4.111)
予期していた出来事だったとはいえ、第17挿話で自宅に戻ったブルームが、ボイランがやって来て、妻を寝取ったことの状況証拠を確認するとき、その心は「たちまちに静まった」ことだろう。であるとすれば、私たちはモリーの「ベッドの乱れ髪(her tousled head)」に性的な含意を読み込むことも可能である。
さらに言えば、第4挿話のテクストを丁寧に追いかけていた読者は、この引用①でひとつの違和感を覚えるはずだ。挿話冒頭からブルームは様々なことを思い浮かべるが、とりわけ、肉屋への往来においては彼の想念をテクストは実に詳細にトレースしている。しかし、それとは対照的に、玄関床で郵便物を拾ったブルームは、モリーの「ポウルディー!」という声に呼ばれるや否や、次の行ではもう「寝室に入って」いる。つまり私たちは、ブルームが妻の密通を予告的に暗示する手紙を見て、「力まかせの筆跡。マリアン様」とだけしか考えなかったのか、という疑問を抱かざるを得ない。つまりここにはテクストの〈空白/死角〉が存在するのだ。
朝食を終えたブルームが、庭にある便所に向かう場面を見てみよう。先の引用①から10ページほど進んだ箇所である。
引用③
歩き出す。ところで帽子はどうしたっけ? きっとまた釘にまた掛けたんだ。それとも上の階に掛かってるか。おかしいな、覚えてない。玄関衝立は超満員。傘四本、あれの雨外套。手紙を拾い上げたとき。ドラーゴーの店の戸の鈴が鳴って。妙なことにちょうど頭に浮んでいたときだった。焦茶の髪を艶出し油で光らせていつものカラーを着けていたあの男。(U-Y 122)
ジョイスはここで読者に合図を送っている。つまり先に論じたように、ブルームが手紙を拾う箇所には実に様々な、重要な暗示があるということだ。「ところで帽子はどうしたっけ? ……おかしいな、覚えてない」――ブルームは手紙を拾った後の己の行動を記憶していない。それは彼がボイランの"Bold hand"を見て受けた衝撃の重さを物語るだけでなく、私たちが日常的な行為としてよく知っているように帰宅後の行動――この場合は、帽子を壁の釘に掛けておくということ――というものはすっかり習慣化してしまい、意識に上らないということを表している。
だが、ここで忘れられた「帽子」というのが、実は第5挿話において重要なアイテムになっていることは見逃せない。この帽子に隠した「カード」――その存在は既に第4挿話序盤で示唆されている(U-Y 4.104)――には局留めで郵便物をやり取りするための彼の偽名、「ヘンリー・フラワー」の名が記されており(U-Y 5.129)、これを通じて彼は文通上の愛人であるマーサの手紙を受け取り、それを読むことでマゾヒズム的な性的興奮を覚える。これはモリーの不義に対する、(はなはだ非対称的ではあっても)一種の復讐となるのだ(オデュッセウスがペネロペイアの求婚者たちに行った復讐を想起せよ)。
手紙を拾い上げたときの回想の個所に戻る前に、引用③の下記の記述について検討しておこう。
手紙を拾い上げたとき。ドラーゴーの店の戸の鈴が鳴って。妙なことにちょうど頭に浮んでいたときだった。焦茶の髪を艶出し油で光らせていつものカラーを着けていたあの男。
「あの男」がボイランを指すことは言うまでもないが、「ドラーゴーの店」とは何のことだろうか。「焦茶の髪」とあるから理髪店であることは想像がつく(*11)。「ドラーゴーの店の戸の鈴が鳴って」は、原文ではDrago's shopbell ringingとなっており、be動詞が省略されている。普通に読めば、この鈴は「手紙を拾い上げたとき」に鳴っているわけだから、ブルーム家の近くにこの名のついた床屋があるのだろうと読者は予測する。しかし、それがなぜ「あの男」と結びつくのだろうか?
実際のところこの鈴は、第4挿話では物理的には鳴っていないのである。ダブリンの中心街にブルームがやって来た第8挿話まで読み進めることでようやくこの謎は解明される。前回の連載でも書いたが、ジョイスが『ユリシーズ』の読者に求めている注意力はいったいどれほど高いのかとため息をつかずにいられない。
引用④
[生若い盲人の]杖がふるえつつ左へ動き出す。ブルーム氏の目がその動きを追って、再び(again)染物工場の荷馬車がドラーゴーの店の前に停っているのを見た。あそこであいつの艶出し油てかてかの髪を見たんだちょうどおれが。(U-Y 8.306-07)
つまりかつてブルームは、(おそらくは整髪を終えたばかりの)ボイランをドラーゴー理髪店の前で目撃したことがあった。ミリーがボイランを知っていることからもわかるように(U-Y 4.118)、ボイランはブルーム家の「家族ぐるみの友人」(U-Y 4.120)であるから、ブルームは彼に何度も会っている。しかし、理髪店の前での記憶がなぜか彼には強く印象に残っているのだろう。故に、第4挿話で「手紙を拾い上げたとき」の鈴の音は、ブルームの記憶、すなわち彼の頭の中で鳴っていたのである。
ジョイスは、読者に引用①で空白(死角)となった箇所を、反復をヒントにしつつ、後続の引用③と④によって補って読むことを要求している。語りが意図的に削除した個所を補い、かつ一般的なリアリズム小説風に書き換えるならば引用①は以下のようになるだろう。
引用①(改)
二通の手紙と一枚の葉書が玄関床にあった。ブルームが屈んで拾い上げると、「マリアン・ブルーム様」という宛名が目に飛び込んできた。彼の弾んでいた心はたちまち静まった。「力まかせの筆跡。マリアン様か。俺のことは無視ってわけね」と彼は心の中で思った。彼の脳裏でドラーゴー理髪店の戸の鈴が鳴り響く。かつて彼は、その店の前であの男が焦茶の髪を艶出し油で光らせていつものカラーを着けていたのを目撃していた。そのときの光景が突如蘇ったのである。このことに気を奪われたまま、無意識的に彼は帽子を壁の釘に掛けたところで、寝室から妻の声が聞こえた。
――ポウルディー!
モリーの声が聞こえたのちに、ブルームは帽子を掛けたのかもしれないが、それはこの際問題でなかろう。重要なことは、止めどない意識の流れを描いたこの小説にあって、私たちの想起が常に言葉を伴うものでないことをジョイスはここで示唆しているということだ。テクストは引用①において、意図的にブルームの想念(記憶の中の光景)を読者から隠している(前回の連載で書いたように、第4挿話カリュプソーの原義は「隠すもの」である)。しかし、私たちが日常的に良く知っているように、隠すということはそこには重要な何かがあるということだ。つまり、詳細に書かれ過ぎている『ユリシーズ』のところどころに空いているテクストの〈空白〉を見つけることは、すなわちジョイスの「大胆な手口」を探り当てることに繋がる。
引用①のあとの部分を見てみよう。
細君宛の葉書と手紙を綾織のベッドスプレッドの上、膝を折り曲げたあたりへ置く。
――ブラインドを上げようか?[とブルームは尋ねた]
ゆるゆると紐を引いてブラインドを半分ほど上げながら後ろについた目が見て取る。[モリーは]手紙をちらっと見るなり枕の下に押し込んだ。
――これでいいかい? と、[ブルームは]向き直った。(U-Y 4.111)
私がこれまでテクストの〈死角(blindness)〉に注目してきた理由が、これでおわかりいただけたのではないかと思う。他ならぬジョイス自身が、(窓の)ブラインド(blind)と盲目(目が見えないこと)の言葉遊びをしているのである(*12)。ブラインドを上げるブルームの行為は、まるで「ぼくは見ていないよ」というメッセージを示しているかのようだ。しかし同時にこの行為によって、ブラインドが上がり、光が部屋の中に差し込むということは、闇と光のメタファーから真実が明らかになることをも暗示する。つまり隠蔽と暴露が同時に起こっているのだ。
上の引用部における「後ろについた目が見て取る」の原文は、"his backward eye saw"となっている。集英社訳では「そっと後ろを振り返ると」と訳しているが(155)、その後に「向き直った」とあるわけだから、ブラインドを上げているときのブルームの顔はあくまで窓の方を向いている。つまり、彼は自分の盲目性を背中で主張しつつ、かすかに首を曲げて肩越しに妻の行為を監視しているのだ。そして案の定、夫の意識がブラインドに向かっていることをこれ幸いと、妻は愛人からの「手紙をちらっと見るなり枕の下に」〈隠す〉のである。この隠すという行為によって、ブルームは"Bold hand”で書かれた手紙の内容を読まずとも推測することができたはずだ。そこには、夫の自分には見られたくない何かが書かれているのだと。
のちの挿話で明らかになるように、ブルームはこの日以前から、モリーとボイランの関係が不倫へと発展する兆候を既にいくつも見て取っていた。そんな中、6月16日にその証拠とも言えるような手紙が、夫の存在を無視した形で、彼が不在のあいだに「ミセス・マリアン」宛に届く。どれほど小説に慣れ親しんだ者であっても初読のときにここまでの背景を知ることは不可能であるが、このことを踏まえて引用②をもう一度読み返してみよう。再度書いておくと、引用①のあとでブルームは、地下の台所で妻の朝食を用意し、階段を上がって寝室に入り、お盆をベッドの枕元の椅子に置く――そのあとの場面である。
引用②
ささくれになった封筒の端がへこみのついた枕の下から覗いていた。部屋を出がけに夫はふと足をとめてベッドスプレッドを伸ばす。
――手紙は誰から? 一言[ブルームは]訊いた。
力まかせの筆跡。マリアン。
――ああ、ボイラン、細君は言った。プログラムを持ってきてくれるんですって。
「ささくれになった封筒の端」は、モリーが一度は枕の下に隠したボイランからの手紙を、ブルームが台所に行っている〈不在〉の間に、急いで読んだことを示す(*13)。彼女は読み終えた手紙を再び枕の下に隠すが、その端が見えている。これらのことをすべて承知した上で、さらには妻の手紙の送り主が誰だか本当は知っているにもかかわらず、ブルームはモリーに「手紙は誰から?」と尋ねる。ゆえに「力まかせの筆跡。マリアン」の箇所は、ブルームの内的独白というよりも、実に映像的な(ある意味では、映画のフラッシュバックのような)効果を読者にもたらすことだろう。読者はブルームが玄関床で見たときのように、手紙の表面に書かれた宛名の文字をこの箇所で目撃するのだ。それは、第4挿話では意図的に削除されていた箇所、ブルームがドラーゴー理髪店前で見たボイランを視覚的に脳内で思い出す箇所と全く同様に、「力まかせの筆跡。マリアン」という反復された言葉によって、読者もまたブルームがそれを目にしたときの様子を視覚的に想起する。既に見たように"Bold hand"という表現は多義的な解釈が可能であるが、このボイランの手紙自体が『ユリシーズ』全体を読む上での〈手引き(manual)〉のような役割を果たしているのである。
(写真)Herbert Gorman. James Joyce: A Definitive Biography (Third Edition, Bodley Head, 1949) 撮影/南谷
ボイランの「力まかせの筆跡」は、ジョイスの「大胆な手」に通じている――本稿の冒頭で書いたように、私たちは小説においては、(一般的に)初めから終わりまでを読むことを要求される。しかし、ブルームはボイランが書いた宛名、その「力まかせの筆跡」を見た瞬間に、中身を読むことなくすべてを理解する。封筒と便箋は表面と内容、すなわち外と内の二項対立の関係だ。だとすれば、これは下の画像にあるような本の表紙と本文の関係にも横滑りして妥当するはずである。
(写真)(ギリシャ国旗に使われている)エーゲ海の色を採用した限定1,000部で発行された初版本『ユリシーズ』(1922)の表紙
私自身、〈ユリシーズ〉が何を意味するのか、この作品に出会うまで知らなかった。しかしユリシーズがオデュッセウスのラテン語名であることを知っている読者であれば、これは古代ギリシャの世界と何らかの形で結びつくことを、その表紙を見た瞬間に理解ができる。その物やその人の内実(本質)が、外面から瞬間的且つ一気に明らかになる――ジョイスはキリスト教用語である〈エピファニー〉=神の顕現を、自らの美学用語として我有化した。次回の連載ではこのことを検討してみたい。つまり、私たちの日常生活において、なぜ第一印象がかくも重要なのか、なぜ長年築いた信頼が何気ない一言で崩れ去ってしまうのか、なぜ私たちはかつて人から言われたことの意味をある日突然理解するのか――これらの問いの背後にある真理は、本稿がこれまで分析した、"Bold hand"の手紙を読まずにその真意を読み取ったブルームにおいて既に示されているはずだ。
小林広直
**本連載では『ユリシーズ』からの引用はJames Joyce, Ulysses, ed. Hans Walter Gabler (Random House, 1986)に準拠し、略号Uにつづけて挿話番号+行数を記す。また柳瀬尚紀訳からの引用の際には、『ユリシーズ』(河出書房、2016年)に準拠し、略号U-Yにつづけて挿話番号+ページ数を記す。ただし原文に振られているルビは原則省略し、必要な場合にのみ〔〕内で示す。特に断りのない場合、引用中の強調は筆者による**
*1 読者が予備知識をどの程度持ってテクストに対峙するか、というのは「読者反応批評」が前景化した問題である。私たちもまた読書会を開催するにあたって、この点を盛んに議論した。
*2 『ユリシーズ』が何時に終わるかについては、小島基洋の『ジョイス探検』(ミネルヴァ書房、2010年)第6章が大変参考になるのでぜひ参照されたい。
*3 スティーヴン・デダラスは前作『若き日の芸術家の肖像』(1916年出版)の主人公。作者のジョイスと同様に1882年に生まれ、ほぼ同じ経歴を持つ(とりわけ、出身学校のカトリック教育という点で)。
*4 『ユリシーズ』にはジョイスの短篇集『ダブリナーズ』(1914年出版)に登場する多くの人物が再度現れる。ダブリンという場所を基点として、『ダブリナーズ』から『肖像』、そして『ユリシーズ』はある種の連続性を有している。この連続性はジョイスの畢生の大作、『フィネガンズ・ウェイク』(1937年出版)にも通ずるため、ある意味においてジョイスは長い長い一冊の本を書いたとも言える。
*5 基本的ではあるが、それ故に大変重要な「反復」という文学技法については、「円環」との関連を指摘した道木一弘の「Ulyssesにおける反復についての一考察」(愛知教育大学・英語研究室、『外国語研究』第25号、1989年、53-66頁)を参照されたい。
*6 ブルーム家の見取り図については、下記のサイトを参照のこと。
http://www.columbia.edu/itc/english/seidel/joyce/edit/images/general/eccles_street.jpg
*7 この言葉は、第13挿話のある決定的な場面で再びブルームの意識に上る(U 13.843)。
*8 『斎藤和英大辞典』には以下の例文が掲載されている(Weblioより)。It is written in a bold hand.(筆ぶとに書いてある)/His writings show a free and bold hand.(彼の文は縦横の筆致あり)/It is written with bold strokes―written in a bold hand.(墨黒々と書いてある)
*9 ルカ・クリスピによる、数種の草稿を比較検討する詳細なテクスト生成研究の成果から(Luca Crispi. Joyce's Creative Process and the Construction of Characters in Ulysses: Becoming the Blooms (Oxford UP, 2015)の第2章(pp.28-60))、この「四時に」という台詞は『ユリシーズ』執筆の後半で付け加えられたものだということが明らかになった。
*10 『ユリシーズ』は3部から成るが、第1部(第1~3挿話)は「テレマキア」=テレマコスの物語、第2部(第4~15挿話)は「ユリシーズの放浪」、第3部(第16~18挿話)は「帰郷」となっている。
*11 当時のダブリンに精通していなければ、事実第8挿話のこの記述をもってしても「ドラーゴーの店」という記述だけでは理髪店であることは確定できない。しかし、第11挿話には下記のような記述がある――「彼の顔が見えるといいんだがな。そのほうがもっと分る。だからドラゴーの店の理髪師は(the barber in Drago's)俺が鏡の中の彼の顔に話し掛けるとき必ずおれの顔を見るんだ。」(U-Y 11.467)。弘法も筆の誤りか(編集におけるミスかもしれないが)、柳瀬訳の「ドラゴー」とは第4挿話と第8挿話の「ドラーゴー」のことである。
*12 「恋は盲目(Love is blind)」のことわざを想起させる『ダブリナーズ』所収の短篇「アラビー」にも「ブラインド」が登場する。
また、視覚と死角の関係については、ジャック・デリダの視覚芸術論『盲者の記憶』を援用し、『肖像』を「盲者の肖像/視覚」として鮮やかに読み解いた横内一雄の論考も参照されたい(「盲者の視覚――『若き日の芸術家の肖像』における語りと視覚」『ジョイスの迷宮(ラビリンス)――『若き日の芸術家の肖像』に嵌る方法』(金井嘉彦・道木一弘編著、言叢社、2016年、121-37頁)。
*13 第五挿話では、以下のようなマッコイとの会話とそれに付随するブルームの内的独白が記述される。
――うちの女房もなんだ、と、[ブルームは]言った。なんかごたいそうな催しで歌うことになってね、ベルファーストのアルスター・ホールでこの二十五日に。
――そうなのか、マッコイは言った。そいつはいい話だ。誰のお膳立てだい?(Who's getting it up?)
マリアン・ブルーム様。まだお膳がすまず(Not up yet)。女王様は寝室にてパンを召し上がら。本がない。黒ずんだトランプ絵札が七枚ずつ腿の上に並んでいる。黒髪の女と金髪の男。手紙。猫のふさふさ毛の黒い毬。手紙。封筒のささくれ。
(中略)
――なあに、観光旅行みたいなものだろよ、ブルーム氏は言葉を選んで言った。(U-Y 5.134)
ブルームはまだベッドから起き上がらない(Not up yet)妻の姿を想像しながら、「マリアン・ブルーム様」の宛名が"Bold Hand"で書かれた――「黒い毬」の如き太字であろうか――「手紙」を想起し、その男の名を口にしないよう注意深く「言葉を選」ぶ。「封筒のささくれ」は、読み終えた手紙を急いで枕の下に隠すモリーを想起させるが、封筒を破くという行為は、他人に見られないように上着の内ポケットで愛人からの手紙の封を破く男(彼はこのあと高架下で封筒を破り捨てる)と、勤務先のいけ好かない上司から預かった投書原稿(手紙)の端っこを海岸で破くもうひとりの男をも想起させる。