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ジョイスの手――はじめての『ユリシーズ』

スペアミントの根をたどる――生活者の視点から読む『ユリシーズ』

『ユリシーズ』の第3挿話は多くの初読者がつまずく最初のポイントである。ダブリンのサンディマウントの浜辺を舞台とする挿話内の情景が(バークリーの観念論を実験的に採用する)主人公スティーヴンの思弁的なフィルターを通じて描かれることに加えて、彼の脳裏を渦巻く学識が無遠慮に入り乱れるため、出来事の不透明さが読みすすめる意欲を削ぐのだろう。「お前がいなくともずっとこのとおり」(U-Y 3.74)とその青年が考える通り、その浜辺には無数の具象的なものが存在しているのだが、スティーヴンによって知覚されるものだけが存在するかのような情景のなかで、マテリアルな世界が霞んでしまうのだ。しかし、ジョイスは内面世界に拘泥する人物をそのまま単一の主人公に据えることはしなかった。第3挿話の終わりでその青年の背後を静かに動く船が予告していたわけだが(「後ろ。誰かいるかも」; U-Y 3.95)、続く挿話に登場するのは、自分がいなくとも存続していく世界自分が知覚している世界の外や背後で生きているものを明敏に意識する人物である。次の一節は、自宅の外にある屋外便所で用を足そうと庭に出たときのレオポルド・ブルームの思考である。

 聞いていると、細君【妻モリー・ブルーム】の声がする。

――おいで、おいで。にゃんにゃんちゃん。おいで。

自分は裏戸から出た。隣の庭の気配を窺って立つ。物音なし。そろそろ洗濯物を外へ吊す頃だが。お女中はお庭にお出まし。いい朝だ。

 屈み込んで、壁際にかぼそく生えるスペアミントを見つめる。ここに四阿〔あずまや〕を造ろうか。紅花隠元。アメリカ蔦。全体的に肥しをやらないとな。この瘡蓋だらけの土では。…(中略)…隣の庭には鶏が何羽かいるから。あれがぽとぽと落っことすのが極上の上肥しだ。(U-Y 4.121-22)

スティーヴンが世界を知覚する仕方とブルームのそれはまったく異なっている。自宅の裏庭に出たブルームは、屋内の寝室のベッド上のモリーが、階段の上にいる黒猫に呼びかける声を聴き耳を立て、隣家の女中の気配を窺い――その隣家が庭先で飼っている(彼の家の猫が怖がる)鶏とそれが落とす糞(肥料)のことが思考によぎったためだろうか――壁際の地面に生えているかぼそいスペアミントと痩せた土を見つめ、その周りに植えてみたい蔦植物を想像する。ここに描かれているのは、自分以外の他者が生きていること、その他者が生きている時空間を明敏に意識する知覚である。

 ジョイスがこの挿話で朝食をつくり、買い物に出かけ、妻と話しながら部屋を片付け、ペットに餌をあげて可愛がり、庭に肥料を撒いて植物を植えることを考え、雑誌を読みながら排便をするさまを描いているのも、ひとえにブルームを何気ない日常を生きる「生活者」として代表させるためである。現にその登場人物は、スティーヴンには気づけないだろう、ありふれた現実の様相を読者に伝えてくれる。すなわち、1904年6月16日のダブリンの街に生きている市民たち、労働に勤しむ人々や動物たち、刻々と変わる天候や一日の時間の流れ、その街に存在するなんでもない事物を読者が知るための媒質の役割を担っているのである。

 今回の記事では、日常生活の芸術性を描く『ユリシーズ』を評価したデクラン・カイバードによりながら、「ふつうの生活に隠れている驚異的な要素を解き放つ」(*1)試みとして、ブルーム家の庭に生えるスペアミントにフォーカスを当ててみたい。その地上でのかぼそい姿に応じて、物語のなかでもつ意味も極小と考える読者がほとんどだろう。しかしよく知られているように、ミントには他の雑草を押しのけて成長するほどの強い繁殖力がある。この一語の根を注意深く引き抜いてみれば、さまざまなモチーフを繋げている広大な地下茎が明らかになるはずである。

 

◇ ◇ ◇

第6挿話ハデスは、パディ・ディグナムの葬式に出席する参列者たちが会葬馬車でグラスネヴィン墓地に向かうまでの前半部と、葬儀の場面を描く後半部に分かれる。オデュッセウスが向かう冥府との対応関係から、挿話全体に死をめぐるさまざまなトピックが散らばっている。なかでも目立つのが、死後の身体をめぐるブルームの想念である。挿話の冒頭部、窓から視線を覗かせる老婆を見たブルームは「尋常じゃないよ女が死体に示す関心は」(U-Y 6.155)と考えるが、その指摘は彼自身にこそ当てはまる。次の引用は、入棺準備と遺体の状態管理を行う納棺師の仕事を彼が思い描く箇所である。

死んだら誰に触られるか分ったもんじゃない。体をごしごし拭かれて髪の毛はシャンプー。爪も髪の毛も切るものらしい。ちょっぴり封筒に入れて取っておく。それでもやっぱりあとから生える。不浄の仕事。(U-Y 4.155-56)(*2)

ブルームが考えているのは、死後も毛髪や爪は伸びつづけるという民間伝承である(*3)。皮膚の乾燥や筋肉の収縮のためにそう見えるというだけで19世紀にはすでに科学的に否定されていたが、強烈なイメージのために根強く民衆の想像力のなかに留まったのだろう(*4)。例えばこの民間伝承に関連させてしばしば引き合いに出される作品に、第一次大戦の惨憺たる現実を描いたエーリヒ・マリア・レマルク(1898-1970)の小説『西部戦線異状なし』(1929)の一節がある。語り手パウル・ボイメルは、上腿切断の手術を受けた後、野戦病院のベッドの上で死の機構に蝕まれつつある兵士フランツ・ケムメリッヒの末期的相貌に触れながら、死後も彼の爪と髪が――まるで肥沃な土壌で育つ草のように――伸びつづける不気味な幻想を視る。

ふと異様な幻想が僕の脳裏をよぎった――この爪はケムメリッヒが呼吸をひきとったのちも、なおいつまでもちょうど幽玄な地下植物のように伸びつづけるのではあるまいか? その光景が、僕の目に彷彿として浮かんだ。――爪はコルク抜のように螺旋形に、長々とからみあいながら伸びてゆく。そしてそれと一緒に、腐れた髑髏の上の髪の毛も、ちょうど肥沃た土壌の土の草のように、長々と伸びてゆく(*5)

ボイメルは、ケムメリッヒの体がもはや生命の脈動を打つことなく、その体のなかで「死が働いている」と観察する。そして、まるで生きているような死のなかから自生してくるものを「幽玄な地下植物」や「肥沃た土壌の土の草」と喩えることで、その生命力や繁殖力を強調する。死んだ人間の伸びつづける爪と髪の毛と肥沃な土壌の結びつきは『ユリシーズ』を考える上で有用である。ブルームもまた「骸肥料の土壌はそうとう肥えるんじゃなかろうか。骨あり、肉あり、爪あり」と考え、「蛆がうじょうじょいる」地下で土葬された人間の身体が腐食し、分解される過程を想像しているからだ(U-Y 4.188-89)。墓掘り人が土を掘る場面で、柳瀬尚紀は「柄にもじょもじょ絡みついた長い草の塊を引き離す」(U-Y 6.194)と訳出しているが、それはブルームの連想下で繋がっている、うじょうじょいる蛆がもじょもじょと髪の毛に絡みつく情景を喚起するための工夫であろう。

 ブルームは死体の臓器についても「肺だの、心臓だの、肝臓だの。錆びついた古ポンプ」(U-Y 6.184)と考え、人間の身体をいずれ分解されるべき肥料と考えるほどに物質主義的な観点をもっている。なぜ彼はそのようにして死を肥料とするような土壌に関心をもつのか? 肥沃/不毛のモチーフを内包するこの記述の根をたどれば、それがスペアミントがかぼそく生えている、肥料が足りない自宅の「不毛な庭」と繋がっていることは明らかだ。さらにページを遡れば、そのスペアミントの根は、ブルームがドルーガックの肉屋で手にした新聞中の掲載広告の一つ(U-Y 4.109)と繋がっていることも判明するだろう。アッジェンダス・ネッテイム拓殖会社が広告するのは、トルコ政府からヤッファ北方にある不毛な砂地帯を購入して、植物や果物を植えて利潤を得る投資話である。ブルームは歩きながら温暖な地中海沿岸地域への想像を膨らませ、太陽を浴びて熟していくオレンジやメロン、オリーブやシトロンなど、かぼそいスペアミントとは対照的な果実がなる場所を思い描く。しかし雲が太陽を覆うと、彼の心も翳る。記憶の底で11年前に生後11日で亡くなった息子ルーディーの影が揺曳しているからだ。彼は息子の死以降、モリーとの性交渉がうまくいっていないことを気に病んでおり、自分の不十分な性的能力に自信をなくしている。だからこそ「不毛の地、何一つ生えない荒地」(U-Y 4.110)として、みずからの身体をヤッファの砂地帯に重ねるわけだが、この想念こそが栄養のない裏庭に生えるかぼそいスペアミントに繋がっている。

 その植物は一度しか言及されず、見かけも頼りなく、物語を解釈するにはあまりにも心もとない。しかしその一語が、土の下で伸びつづける爪や髪の毛、腐食し分解される有機物、肥沃/不毛な土壌といったモチーフがつくる地下茎と繋がっていることを考察したいま、それが「花が咲く」(bloom)という意味の名前をもち、ヘンリー・フラワー(Henry Flower)という偽名を使う主人公の苦悩に触れる重要な役割の一部を担っていることがわかるだろう。

 第6挿話では、「死」の周りに繁茂する雑草の生命力が頻繁に言及される。例えばブルームは、「うちのルーディーが生きていれば。だんだん大きくなる姿を見て」(“If little Rudy had lived. See him grow up”; U-Y 6.158)と考えたり、自死した父ルドルフの墓参りを思い出すときにも、生活者ならではの視点で雑草処理の必要性を考えたりしている――「二十七日に親父の墓へ行くんだ。あの墓掃除に十シリング。草むしりはしてくれる。あれも爺さんだ。曲った腰で鋏をちょっきんちょっきん。片足は棺桶」(U-Y 6.195)。死期が近づく墓守がいなくなれば、雑草がルドルフの墓を覆い尽す。そのヴィジョンが明確になるのは、この場面より少し遡った箇所である。会葬馬車が陰鬱な家並みを通り過ぎたとき、馬車のなかの4人は兄を殺害したという廉で起訴された(ただし証拠不十分のため無罪放免となった)サミュエル・チャイルズの家を見つける――「殺人犯の屋敷。暗く通過する。鎧戸を閉めきって、空家のまま、草ぼうぼうの庭〔“unweeded garden”〕。敷地全体が荒れ放題」;U-Y 6.176)。ハムレットがこの世を雑草が鬱蒼と生い茂った庭と形容した語句の引用(第1幕第2場)を紛れ込ませていることが、ジョイスの雑草への関心を際立たせているが、少し強調して言えば、個体の死どころか、人類が絶滅した後にも繁茂していく生物群への畏れのようなものが隠されていると言えるだろう。(*6)

 実にすでに初期の短篇「アラビー」の冒頭部には空き家の庭に生い茂る雑草が印象的に描かれていた。

うちが越してくる前にこの家に住んでいた司祭は、奥の居間で亡くなった。長いこと締め切ってあったので、黴臭い空気がどの部屋にもただよい、キッチンの裏手のがらくた部屋には、捨てるしかない反故紙のたぐいがちらばっていた。…(中略)…家の裏の荒れた庭は、真ん中にリンゴの木が一本立ち、絡み合う藪がいくつかあって、その一つの陰に今は亡き住人の錆びついた自転車の空気入れを見つけた。(*7)

錆びついた空気入れは、かつて(当時モダンな乗り物であった)自転車で躍動的に街を走っていた司祭の心臓ポンプの暗喩だろうか。聖職者という繋がりでは、この司祭と空き家を、同短篇集の冒頭に置かれた「姉妹たち」の司祭とその鼻の孔の空洞に繋げることもあながち無理ではないだろう。語り手の少年は死んだ神父がまだ生きているのではないかという幻想に頻繁にとらわれる。彼が棺のなかの神父の遺体を覗きこむときにも、入棺準備を行う納棺師によって用意されたであろう、機能的には死体の匂いを隠すために置かれた植物、そしてその匂いを嗅いでいるかもしれない鼻、その空洞の内辺部に生えて、いまも成長をつづけているかに見えるかぼそい毛状のものに意識を向けていることは偶然ではない。その匂いの正体が文の最後に回されているのは、それがようやく気づかれた、「私」の世界の背後で生きていた存在であるからだ。

老司祭が棺に横たわって笑顔になっているのを想像した。

 しかし違った。立ち上がって棺台の枕元へ行くと、笑顔でないのが見て取れた。…(中略)…顔はとても険しく、土色にむくみあがり、黒くぽっかりと鼻の孔が見え、うっすらと和毛(にこげ)が覆っている。むせ返る匂いが部屋にこもっていた――花だった。(*8)

 

◇ ◇ ◇

 スペアミントや伸びつづける雑草というのは、私自身のある経験を思い出させる。かつて植木屋で下働きしていたときのことである。剪定するという専門技術がないために、私の仕事は、職人から言われたことは何でもやる、いわゆる雑用係だった。朝7時に資材置き場に集合し、必要な道具を軽トラに積む。炎天下のなか、茂りに茂った雑草を「カメ」(芝刈り機)や草刈り機で刈る。職人が落とす枝葉が通行人に当たらないよう通行人の人々に掛け声をかけて注意をする。落ちてきた枝や葉を熊手と箕を使ってかき集め、トラックに平たく積み、(より多くを積めるように)上から全体重をかけてそれらを踏み潰す。庭の手入れを行い、土から紫蘇やミントなど「使える草」以外の雑草を根から抜く。防草シートをきれいに貼るために地面を平らに均す。すべての剪定が終わったら、朝に来たときよりもきれいになるよう周辺を箒で掃き、ブロワーを吹いて現場を出発する。最後に、「捨て場」と呼ばれていた夏場は蜂が飛び交う堆肥センターに荷を捨てに行く。怒号が頻繁に飛ぶ現場での労働はきつかったが、爪のなかを真っ黒にして、草いきれと土の匂いにまみれて自然に触れる作業は代えがたい経験だった。印象的だったのは、雑草を抜いていると、よく鳥たちが近くにやってきたことだった。私が雑草を掘り出す過程で地面からでてくる地虫を待ち構えているのだ。鳥たちの高い視線からすれば、私は這いつくばって地面をほじくりまわしている何かしらの生き物なのだろう。その意味でも、草を抜く私の低い視線から振り返ったときに見つけたあの鳥瞰視は、私の知覚の背後で生きている世界の存在を意識させてくれた一つの契機であった。

 「『ユリシーズ』は自分で所有しておくべき書物であり、ともに生きていく書物である」(“Ulysses is a book to own, a book to live with”)。このアンソニー・バージェスの言葉が意味するのは、その本が読者の生と親密な結びつきをもち、単なる比喩ではなく、読者自身の生活で培われた経験や知恵を滋養に、長い時間のなかでともに成長していく伴侶書であるということだ。今回の記事で論じたように、ブルーム家の庭のスペアミントの根が、土の下で伸びつづける爪や髪の毛、腐食し分解される有機物、肥沃/不毛な土壌、ブルームの生殖能力にまつわる不安、納棺師や墓守、庭師の仕事といった諸要素と繋がり、一つの地下茎を成していると解釈できたのは、おそらく私自身に上記の植木屋の体験があったからだ。いくら強調してもよいが、どんなに何気ないものでも、どんなに些末に見えるものでも、その背後や地下で誰かが働き、何かが動いている。スティーヴン・デダラスがようやく気づきはじめた「私の世界」の裏がわの事実である(“Behind. Perhaps there is someone”; U 3.502)(*9)「ふつうの生活に隠れている驚異的な要素を解き放つ」には、当たり前だが、つい忘れてしまうその事実を思い起こし、何より〈生活者〉として世界を読む能力を私たち自身が培わなければならない。

 

 

(写真)2019年11月5日、浅草の路上にて撮影/南谷

 

**本連載では『ユリシーズ』からの引用はJames Joyce, Ulysses, ed. Hans Walter Gabler (Random House, 1986)に準拠し、略号Uにつづけて挿話番号+行数を記す。また柳瀬尚紀訳からの引用の際には、『ユリシーズ』(河出書房, 2016年)に準拠し、略号U-Yにつづけて挿話番号+ページ数を記す。ただし原文に振られているルビは原則省略し、必要な場合にのみ〔〕内で示す。特に断りのない場合、引用中の強調は筆者による**

 

*1 デクラン・カイバード『「ユリシーズ」と我ら――日常生活の芸術』坂内太訳,水声社, 2011年, p. 24.

*2 この場面でジョイスが爪に読者のフォーカスを向けさせているのは、物語的な機能として、スティーヴンの母の虱をつぶした血で赤く染まった爪を(U-Y 1.23)や、モリーの磨かれた爪(U-Y 4.115)、バンタム・ライアンズの黄ばんで黒ずんだ爪(U-Y 5.150)と喚起させながら、ブルーム自身の爪へと繋げるための伏線でもある。第6挿話、彼は自分の爪を見つめることで、馬車の近くを通りがかった(モリーのところへ向かう途中の)ブレイゼズ・ボイランから意識をそらそうとする(「おれの爪。おれは今この爪を見つめてる。きちんと切ってある」(U-Y 6.164)。

*3 死後の身体に起こる科学的な変化については、Cedric A. Mims, When We Die: The Science, Culture, and Rituals of Death, Griffin, 2000(セドリック・ミムス『ひとが死ぬとき:死の百科全書』中島健訳、青土社、2001年)が参考になる。

*4 レマルクの小説と程近い年に発表された、ジョージ・オーウェルのエッセイ「絞首刑」(1931)では、その民間伝承を言外で否定しながら、爪が伸びるという小さな事実に「かけがえのない生」を発見する――「【死刑囚は】われわれとまったく同じように生きているのだ。彼の体の器官は――みんな動いている腸は食物を消化し、皮膚は再生をつづけ、爪は伸び、組織も形成をつづけている――それがすべて完全に無駄になるのだ。爪は彼が絞首台の上に立ってもまだ伸びつづけているだろう、いや宙を落ちて行くさいごの十分の一秒のあいだも」(小野寺健訳『オーウェル評論集』岩波文庫、1993年、26頁)

*5 エリッヒ・マリア・レマルク『西部戦線異状なし』蕗沢忠枝訳(グーテンベルク21)。秦豊吉訳(新潮文庫, 2007年改版, 26-27頁)では原文の“gespenstische Kellergewächse”が「幽霊みたいな茸」と訳されているが、本稿では蕗沢訳がふさわしいと判断した。

*6 例えばウイル・スミス主演の『アイ・アム・レジェンド』(2007)では、ウィルス拡散後、廃墟と化したニューヨークで孤独な生活を営む主人公が描かれている。かつて先端的な文明の繁栄を誇示していた五番街の街路が苔むし、鬱蒼とした雑草で覆い尽くされ、獣道と化した光景は崇高といってよく、人間が絶滅したあとに地球上で繁栄していく生物種の力の大きさが示されている。「雑草」というモチーフを生かした映画には他に、スティーヴン・キングとジョー・ヒルによる中篇小説を原作とした作品『イン・ザ・トール・グラス――狂気の迷宮』(2019)がある。カンザス州に広がる、人間の背丈以上に高く茂った雑草の迷路のなかで繰り広げられる狂気と混乱を描くホラー作品である。恐怖の震源には有史以前からつづく植物種の繁茂力があり、人間を飲み込む生きた集合体のような草むらの中央には、髪の毛が草になった先住民的な存在が崇める出臍のような巨岩が置かれている。「米国の中心、大陸のど真ん中」にあると説明されるその巨岩の下には――それまで養分として引きずり込まれた犠牲者たちなのか――悲鳴をあげる泥だらけの人間たちが根のように絡み合った地下茎が広がっている。岩は先住民族の定住より前、氷河が地形を変える以前から存在したのではないか、と語られている。

*7 ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』柳瀬尚紀訳(新潮社, 2009年), 45頁

*8 ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』柳瀬尚紀訳(新潮社, 2009年), 19頁

*9 Anthony Burgess, ReJoyce (Ballantine Books, 1965), p.224.

 

 

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著者略歴

  1. 南谷 奉良(みなみたに・よしみ)

    日本工業大学講師、日本ジェイムズ・ジョイス協会事務局員。19世紀から20世紀初頭にかけての動物をめぐる文学、表象、諸制度に関心がある。主要業績:「ジョイスの〈ベヒーモス〉――『スティーヴン・ヒアロー』あるいは『若き生の断章』試論」(高橋渡・河原真也・田多良俊樹編著『ジョイスへの扉――「若き日の芸術家の肖像」を開く十二の鍵』英宝社, 2019年, 231-62頁); ”Joyce’s ‘Force’ and His Tuskers as Modern Animals. Humanities (Special Issue“Joyce, Animals, and the Non human), vol. 6 (3), 2017, pp. 1-15.

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