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ジョイスの手――はじめての『ユリシーズ』

太陽を覆う雲――『ユリシーズ』における「見える/見えざる反復」について

 本連載の第2回で私は『ユリシーズ』に見られる二種類の反復を提示した。初読者であっても発見することが可能な「見える反復(visible repetition)」と、繰り返し読む者にのみ立ち現れる「見えざる反復(invisible repetition)」である。『ユリシーズ』を読むことの歓びのひとつは、このような反復を単語、あるいは文のレベルで、読者が自ら見つけ出すことにある。言うまでもなく、主題や主張を強調するためのこの手の繰り返しの手法は、作家であれば誰もが意識するところだろう。しかしジョイスの特異性は、その反復がしばしば各挿話(章)をまたいで発生すること、時にそれが数100ページ後に起こっているということだ。
 その好例として私は第1挿話の以下の場面を引用した。再度引いておこう。

雲がゆっくりと動いて、太陽をすっぽり覆い、湾をさらに濃い緑色に翳らせた(A cloud began to cover the sun slowly, wholly, shadowing the bay in deeper green)。眼下にひろがる、苦い(bitter)水を湛えた器。ファーガスの歌。独り家のなかで歌った、長い暗い弦のひびきを抑えながら。母の部屋のドアが開いていた。おれの弾き歌いを聞きたかったのだ。無言で畏れと憐れみを抱いておれは母のベッドへ行った。惨めなベッドで泣いていた。あの歌詞にほろっとしちゃって、スティーヴン。愛の苦い神秘(love’s bitter mystery)。(柳瀬21-22/U 1.248-53)(*1)

海を眺めるスティーヴン・デダラスは、死んだ母の記憶に囚われている。しかし、彼の気持ちを暗くさせるのは、ある種の「偶然」とも言える天候の変化と無関係ではない。雲が太陽を覆うことでその濃さを増した海の緑(green)が、肝臓を病んだ母が器(bowl)に吐き出す胆汁の色(the green sluggish bile)(U 1.109)を、彼に想起させる(*2)。今回再度着目したいのは、下線を引いた最初の1文である。
 柳瀬訳『ユリシーズ』で言えば上の引用から約90ページ後、第4挿話に次のような1文が見られる。

雲が一つ、太陽をゆっくり覆い始めた、すっぽりと。灰色。まだ遠い。(柳瀬110)
A cloud began to cover the sun slowly, wholly. Grey. Far. (U 4.218)(*3)

『ユリシーズ』の入門書で必ず言及されるのは、全18挿話の本作において、第1挿話と第4挿話がそれぞれ「午前8時」から始まることだ。22歳のスティーヴン・デダラスと38歳のレオポルド・ブルームは、『オデュッセイア』におけるオデュッセウスとテレマコスの父子とパラレルの関係にある。ホメロスの叙事詩でも第一歌では、トロイア戦争後長いあいだ帰郷することのない父オデュッセウス(ラテン語名、ユリシーズ)を探し出すために旅立つ息子テレマコスのことがまず語られる。父を探す息子というモチーフの反復において象徴的に意味されるのは、人生における目標・目的を探す若者であり、それは1904年6月に22歳だった作者ジョイスの「若き日の」姿でもあった。

 
(写真)サンディコーヴのマーテロ塔、現「ジェイムス・ジョイス・ミュージアム」の頂上から見た景色(2019年7月撮影/小林);(写真)同ミュージアムの展示物(2019年7月撮影/小林)

 ブルームとスティーヴンの「疑似的父子関係」の詳しい検討は後の回に譲るとして、今回再度考えるべきなのは、以下のことだ。つまり、予備知識を一切持たない初読者――言うなれば、本連載第3回で論じられたような雑誌連載で初めて『ユリシーズ』を読んだ人々――のためにジョイスは、“A cloud began to cover the sun slowly, wholly”という1文を反復させることで、第1挿話と第4挿話が同時刻に起きていることを示唆するのだ。改めて考えてみればなるほど異様なことではあるが、第1~3挿話が午前8時から12時までの約4時間を描き、その後何の説明もなく、第4挿話で再び時間が午前8時に戻るというのは極めて不自然なことだ(従来のいわゆるリアリズム小説であれば、「時はさかのぼり、同日の午前8時…」というような語りがあってしかるべきだ)。第6挿話の終了時刻はおおよそ正午であり、事実これ以後は時間が逆戻りすることはないわけだが、モダニズム文学の代表作である『ユリシーズ』の革新性は、この点からも指摘できる。

 「初読者(virgin reader)」と「ベテラン読者(veteran reader)」の区分は、批評家のマーゴ・ノリス(Margot Norris)が言うように「仮想的な」もの、「新たな発見に役立つ装置」のようなものである(*4)。私が提起した二つの反復(「見える反復」と「見えない反復」)は、彼女の言うこの2種類の読者に対応させたものであるが、実際のところ私自身、太陽を覆う「ひとつの雲」が第1挿話と第4挿話の時間的連続性を示唆することを自力で発見したわけではない(今となっては、どの先行研究で読んだのかすら覚えていない)。本連載が初回から強調しているように、『ユリシーズ』が要請する読書の形態は、「1人で1冊を1回だけ読む」のではなく、複数人で複数冊を複数回読むことである。つまり、複数人とは現在私たちが主催している読書会のような人々が実際に一ヵ所に集って読むような形式だけでなく、(時に本の中のみで出会う)研究者やその研究書と共に、という意味においても、私たちはこの作品を複数人で再読するのである。

 

(写真)『ユリシーズ』丸谷才一・永川玲二・高松雄一訳、集英社文庫、2003年。;(写真)『ユリシーズ 1-12』柳瀬尚紀訳、河出書房新社、2016年。

 二項対立的な「見える反復」と「見えない反復」の境界が、曖昧で流動的なものであることを踏まえた上で、ここで「翻訳」という問題を付け加えたい。現在容易に入手可能な『ユリシーズ』の翻訳は、集英社文庫と河出書房新社のものがあるが、このふたつを丁寧に読み比べるだけでも、新たな発見にいくつも出会うことだろう。上に示したように、原文ではなく翻訳であっても読者が自ら発見し、愉しむことが可能な『ユリシーズ』の「反復」は本当にたくさんある。しかし残念ながら、翻訳によって見えなく/見えにくくなってしまう箇所が数多くあることは指摘しておかねばなるまい。その原因はジョイスに限る話ではもちろんないが、外国文学の訳者は文脈によってひとつの単語を訳し分けることを、読みやすさ(リーダビリティ)の観点から要請されるからである。その例として、ジョイスの短篇『ダブリナーズ』に収録された「痛ましい事件(A Painful Case)」を見てみよう(*5)

 主人公ジェイムズ・ダフィは、俗世間との交わりを忌避し己の孤独を誇りとする気難しい中年の独身男性である。とあるコンサート会場で彼はシニコウ夫人と出会い、その後ダブリンの街で3度目に「偶然」再会したことからふたりの交際が始まる。彼はこれまで他人には語ることのなかった己の思想や信条を語り、彼女はその話に一心に耳を傾け、ふたりの関係は次第に深まっていく。だがある夜、夫人がダフィの手を情熱的に取って頬に押し付けると、あくまでも友人関係であると思っていた彼は、彼女が自身に恋愛感情を持っていたことにひどく驚き、関係を一方的に破棄してしまう。その4年後、ダフィは夕食時にたまたま読んだ新聞記事で、夜遅く夫人が線路を横切ろうとしたために列車に轢かれて死亡したことを知り……。

  

(写真)シドニー・パレイド駅(2014年8月撮影/小林);(写真)同駅近くの踏切にある看板「警告:線路内には立ち入らないこと」(2014年8月撮影/小林)

 物語の結末はご興味があれば是非ご自身でお読みいただくとして、ここで問題になるのは「事故(accident)」という単語だ。シニコウ夫人の鉄道「事故」が記事では「3度」accidentという単語で描写されるのだが、実はこの単語は短篇の序盤で既に1度使われているのである。

 偶然彼女と三度目に会ったとき、彼は勇気を出してもう一度会う約束を取り付けた。彼女は来た。
 Meeting her a third time by accident he found courage to make an appointment. She came. (D 92)(*6)

つまり、受験英語でもおなじみの熟語、「偶然に/たまたま(by accident)」がここで密かに書きこまれているのだ。既にお気づきの方もおられるだろうが、街で偶然に出会う回数と、新聞記事上で使われるaccident(s)の回数は、ともに「三度」で揃えられている。ここにキリスト教におけるマジック・ナンバーである「3」を重ね合わせれば、ダフィがかつて聖職者(神父)を志していたことや、夜遅く「酒(spirit)」を買うために線路を横切った夫人が、死んだのちにある種の亡霊=「精霊(Holy Spirit)」としてダフィの脳裏に憑りつく……などと、ジョイスの巧みな反復の手法は、『ユリシーズ』のみならず彼の作品世界全体を貫くものであることがお分かりいただけると思う(*7)

 ジョイスの翻訳にしばしば、ルビが多用されるのはこのような事情である。しかし、「偶然に」に「バイ・アクシデント」などとルビを振ってしまっては、せっかくジョイスが仕掛けた謎である「見えざる反復」を発見する喜びを読者から奪ってしまう。さらに事情が厄介なのは彼が反復を行うのは、単語や文だけなく、頭韻や脚韻などの韻律、つまり「音」のレベルでも起こるということだ(*8)。『ユリシーズ』のキーワードのひとつに「輪廻転生(Metempsychosis)」があるが(集英社訳I、161/U4.339)、この言葉が第4挿話で繰り返し反復されることで、古代ギリシャのオデュッセウスと現代ダブリンのユリシーズ、すなわちブルームが「神話的並行関係」≒「ホメリック・パラレル(Homeric parallel)」をもって結び付けられる。ブルームの妻モリーが、読んだ本の中で意味の分からなかった単語を尋ねる場面は、柳瀬訳では以下のようになっている。

――こっちへちょうだい、細君[モリー]は言った。しるしを付けといたの。あなたに訊こうと思った言葉があって。
 カップを無把手持ちにしてぐいっと一飲みすると、指先を上手に毛布でぬぐってから、ヘアピンで頁をたどっていき、その言葉に突き当る。
――会った者がどうしたって? 夫[ブルーム]は聞き返す。
――これよ、と、細君。どういう意味?
 夫は前屈みになって、細君の親指の磨いた爪のあたりを読んだ。
――会者定離輪廻かい?(Metempsychosis?
――それ、どの人そもそもどこの誰?  
――会者定離輪廻、と繰り返し、眉を顰めた。ギリシア語さ。もとはギリシア語。つまり、霊魂の転生という意味だ。(115-16)

膨大な情報量と細部への書き込みによって、『ユリシーズ』が書かれ過ぎていることを嘆く者は多い。しかし、ジョイスの手法において真に驚くべきことは、同時にこの作品のある部分が巧みに隠され、それ故にその空白を埋めたい、謎を解き明かしたい、という読者の欲望を駆り立てることにある。上の引用でも本来ならば小説として絶対に書かれなければならないはずのいくつかの文言が書かれていない。次回の連載では、「見える反復」と「見えない反復」から派生する問題として、『ユリシーズ』における「見えなさ/死角(blindness)」を検討してみたい。

 

小林 広直

 

 

*1 『ユリシーズ』からの引用はJames Joyce, Ulysses, ed. Hans Walter Gabler (Random House, 1986) に準拠し、略号Uにつづけて挿話番号+ページ数を記す。なお翻訳は、柳瀬尚紀訳『ユリシーズ 1-12』(河出書房、2016)を使用した。

*2 この引用に登場する「ファーガスの歌」、および「愛の苦い神秘(love’s bitter mystery)」については拙論、「「心とは何か」を学ぶこと――『若き日の芸術家の肖像』と『ユリシーズ』におけるスティーヴンの母の祈り」(高橋渡・河原真也・田多良俊樹編著『ジョイスへの扉――『若き日の芸術家の肖像』を開く十二の鍵』、英宝社、2019年、111-41頁)で論じた。

*3 「灰色」は『ユリシーズ』第1挿話と第4挿話を結びつけるばかりか、ジョイスの事実上の第1作「姉妹たち」(『ダブリナーズ』の巻頭に置かれている)のキーワードでもある。
 なお、丸谷才一・永川玲二・高松雄一による集英社文庫(2003年)の訳(以下、集英社文庫訳+巻数、頁数とする)においては、第1挿話では「雲がしだいに太陽を覆いはじめ、すっかり隠しきり、湾をかげらせ、いっそう深い緑に変えた」(30)、第4挿話では「雲がしだいに太陽を覆いはじめ、すっかり隠しきった」となり、後者の註で「第一挿話でスティーヴンが見た雲」(集英社文庫訳I、509)と説明されている。

*4 Norris, Margot. Virgin and Veteran Readings of Ulysses (Palgrave Macmillan, 2011), p.2.

*5 『ダブリナーズ』からの引用はJames Joyce, Dubliners: Authoritative Text, Context, Criticism, ed. Margot Norris (W.W. Norton & Company, 2006) に準拠し、略号Dにつづけてページ数を記す。

*6 先に書いたように、ダフィは既婚者の彼女との関係を「友情」と思っていたわけだが、この引用で「勇気を出した」とあることからも、彼自身ある程度は彼女を異性、恋愛の対象として意識していたのではないか、という疑念が読者に生まれる。「彼女は来た」という2語から成る短文の背後に、わたしたちはダフィの緊張と期待を読み込むべきだろう。

*7 シニコウ夫人は、『ユリシーズ』第17挿話でもブルームによって次のように語られる―「故エミリー・シニコーを知ってますか。一九〇三年十月一四日にシドニー・パレイド駅で事故死した女性だが(If he had known the late Mrs Emily Sinico, accidentally killedat Sydney Parade railway station, 14 October 1903)」(集英社文庫訳IV、192/U 17.947-49)。このaccidentallykilledに「偶然殺された」という意を読み込むのであれば、すべての悲劇のはじまりは彼女がダフィに「偶然」3度出会ってしまったことに依る。すなわち、孤高を誇りながらもどこかでその淋しさに耐え切れなかったダフィによって、夫人は「殺された」という読みが可能になるのだ。

*8 この点については、例えば南谷奉良の「ゼロックス・メカニクス――「複写」の機械式韻文」(『ジョイスの罠――『ダブリナーズ』に嵌る方法』金井嘉彦・吉川信編、言叢社、2016年)をご覧いただきたい。

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著者略歴

  1. 小林 広直(こばやし・ひろなお)

    東洋学園大学専任講師、日本ジェイムズ・ジョイス協会事務局員。ジョイス作品を「亡霊表象」「歴史」「トラウマ」という観点から分析・研究している。主要業績:「「心とは何か」を学ぶこと――『若き日の芸術家の肖像』と『ユリシーズ』におけるスティーヴンの母の祈り」(高橋渡・河原真也・田多良俊樹編著『ジョイスへの扉――『若き日の芸術家の肖像』を開く十二の鍵』、英宝社、2019 年、111-41 頁)、「〈我仕えず〉、ゆえに我あり――間違いだらけの説教と狡猾なスティーヴン/ジョイスの戦略」(金井嘉彦・道木一弘編著『ジョイスの迷宮──『若き日の芸術家の肖像』に嵌る方法』、言叢社、2016 年、99-118 頁)。

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