『ユリシーズ』のなかの《小動物》(2)――発見から発見へ
いまでは「かわいい動物」としてアイコニックなステータスをもつ猫だが、かつて西欧ではビュフォンの博物誌(第6巻:1797年[英訳])やノア・ウェブスターの辞書(初版:1828年)、ピーター・パーレーの児童向けの動物博物誌(初版:1835年)の定義にもみるように(*1)、鼠取りには使えるが、狡猾にして残忍、魔女の使い魔のようにして人を騙す悪意のある動物として貶められ、それゆえに人間社会のなかで酸鼻を極める虐待を受けてきた動物であったことを忘れてはならない。北西ヨーロッパやアメリカに限っても、猫が目立って犬と対比される愛玩動物となり、個体として絵の被写体やキャットショーでの出品物になったのは、ようやく19世紀中盤以降のことである。同世紀には動物虐待防止法や民間保護施設の設立などの制度・環境が整いはじめたものの、日常的には目を覆うばかりの残虐な行為が行われていた。実際、そうした現実があったからこそ、エドガー・アラン・ポーの短篇「黒猫」(1843年)は書かれたのだろう。アルコールの病魔に憑かれた語り手は、愛猫プルートーの片目をくり抜き、縄で木に吊るす残虐な行為を犯す。物語の最後の場面では、2番目の猫が埋められた壁から姿を現わすが、そこで黒猫が語り手を貶める魔女的な奸智をもつおぞましい動物として描かれているのは、ポーが初期近代以降から造成されてきた猫の言説と、ビュフォンやウェブスター、パーレーにみる認識を利用しているからだ。
ポーの「黒猫」からほぼ半世紀以上が経った頃、依然として動物いじめや虐待、ネグレクトはあったが、愛玩動物として猫を大事にする文化の根が確実に社会に広がっていた。例えば『ユリシーズ』の舞台設定である1904年、自宅に歴代のペットたちのための専用墓地をつくるなどしていたことでも有名なトマス・ハーディは、列車に轢かれて亡くなった白猫を同地に埋葬して、その伴侶動物との別れに万感の悲しみを注いだ追悼詩「物言わぬ友に手向ける最後の言葉」(“Last Words to a Dumb Animal”)を捧げている(*2)。実にハーディーだけではなく、現在では飼い猫の死にあってごく当たり前に執り行われる儀式的な埋葬が世紀転換期には行われるようになり、また伝統的に犬の死に際して捧げられてきた感傷的な追悼詩が、目立って猫の死にも向けられはじめたのである(*3)。したがって『ユリシーズ』の主人公レオポルド・ブルームの父ルドルフが遺書に彼の愛犬アトスを大事にしてくれと記すこと(U 6. 125-26)、娘ミリーが飼っていた小鳥が死んだとき、それをマッチ箱に入れてお墓をつくったりしていること(U 6. 952-53)、そしてブルーム自身が妻に向かって「ぼくはその猫が死んでも喪に服するよ」と言うこと(U 18. 1310)は、現在からは見えにくくなっている、動物に対する新しい時代の感性と合わせて読まれる必要がある。
現在からはいくらか見えにくくなっている猫の社会的生態を『ユリシーズ』から引き出し、わずかな記述しかもたない《小動物》の評価する試みとして、今回は19世紀から20世紀初頭の猫はいったい何を食べていたのか、という問題を設定してみたい。それというのも、第4挿話に登場するブルーム家の猫と人間のブルームのコミュニケーションが基本的に「食べること」を通じて行われているからだ。多くの場合、文学のなかの《小動物》は登場人物の性格を示す簡便なリトマス紙として、後続する物語の出来事やモチーフを予告する道具的な役割を果たすに終止し、「食べて生きている」個体としての性質が骨抜きにされてしまう。しかしわずかな記述であれ、その《小動物》が命をもって物語世界のなかで生きていることに変わりはない。テクストに少ししか書かれていなくとも、あるいはそうとは書かれていなくても、確かに書き込まれていることを発見してみよう。
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ブルーム氏はしげしげ(curiously)と、優しく(kindly)、つややかな黒の姿を見守った。見目がきれいだ。すべすべの毛艶、尾の付け根の白いボタン、緑のきらきらする目。手で膝に突支棒をして、猫に屈み込む。
――にゃんにゃんにはミルクかい、と、声をかける。(U-Y 4. 102)
2つの副詞(curiously, kindly)はブルームという登場人物のもつ動物や社会的弱者に対する親切心と科学的関心を同時に表わしている。優しげな声をかけながら牛乳を猫にあげる一方、その目は猫の身体部位(尾、体表、肛門、目、歯、舌、ヒゲ)一つひとつを観察している。ここで猫に与えられるのは、近所の(下ドーセット通りにあった)ハンロン牛乳店による朝の巡回配達品である(*4)。
それから調理台へ行き、ハンロン牛乳店の牛乳配達がたっぷり入れていった温泡[ぬるあわ]のミルクを皿に注ぎ、そろりそろりと床に置く。
――グルルル、と勇んで、牝猫は舐めに駆け寄った。
牛乳の「温泡」(warmbubbled)にみる温かさは、いわゆる「牛乳問題」対策として19世紀末に応用可能になった低温殺菌法で説明するよりは(*5)、市街地近郊に牧場があったダブリンの地理的環境による搾乳直後の生温かさと捉えたほうがいいだろう。猫がそれを舐め終えると、ブルームは次に猫の食べ物のことを考える。
猫のぺちゃぺちゃがだんだんゆっくりになり、そのうちに皿をきれいに舐め終った。どうして猫の舌はあんなにざらざらしているんだ? ぴちゃぴちゃ飲みやすいようだ、全部が極細の穴になって。食べさせられるものはなかったっけ? ぐるっと見回す。ない。(U-Y 4. 103;強調は筆者)
いま都市部で猫を飼っている多くの人は最後の文に首を傾げるかもしれない。この家には、猫のために買っておいた食べ物とそれを保管する専用のスペースがないのだ。言うまでもなく1904年とは、猫の味覚に合うように改良に改良を重ねたウェットフードや、成長度合いに合わせて腎臓疾患や結石の予防となるドライフードがなかった時代である。20世紀初頭、ある国では「時々我々を捕まえて煮て食う」人間に警戒しながらも、「吾輩は猫であるが大抵のものは食う」と豪語して雑煮を口に詰まらせる猫が風刺とユーモアの筆致で描かれていた頃に(*6)、ダブリンの街では牛乳や包装紙についた血を舐め、臓物を食べる猫や、困窮を極める家に忍び込み、卵の殻や焦げた魚の頭や骨の生ごみを漁る猫(U 16. 275-76)がうろついている。こうしたジョイスの写実性も含めて考えたとき、当時の都市部に生きる猫の日常的な食べものは何だったのだろうか、という疑問が浮かんでくる。
この疑問を解決するためには、写実的な文学作品の具体的な記述に頼る以外では、世界初のキャットショー(1871)以降盛んに出版されるようになった猫の博物誌や飼育本を参照する方法がある。10冊ほどの書籍のなかで推奨されている食べ物や好物とされているものをリスト化してみると、都市に住む猫には――鼠や鳥の獲物を捕ったり、ゴミを漁る以外の常食として――水で薄めた牛乳、新鮮な水、ビーフティー、食卓の余りもの、ライスやオートミール、ビスケットやクラッカー入りの牛乳やスープ、ライスプディング、パン、魚、ミンチにした牛肉、炙ったベーコン、(特定の種類の)犬用ビスケット、そしてグレービーソースをかけた野菜(じゃがいも、アスパラガス、セロリ、トマト、きゅうり)、(子猫用として)乳幼児用の食べ物が挙げられている。リストのうちのほとんどが人間が食べているものであることから、ブルームが台所を見回す行動は、猫の餌は基本的に人間の食べ物から分け与える、という発想にもとづいていると説明できるだろう。
図1は『ユリシーズ』出版前年の1921年に刊行された、動物の捕獲や動物園での管理に関して多くの著述を残したリー・クランドル(1887-1969)の飼育本(第2版)からの一節だが(*7)、記されている猫の食べ物のほとんどは特段珍しいものではない。ただ一つだけ目に付くものとして、 “vile sort”と形容されて人間に嫌悪感を抱かせる、肉屋から入手できるという、「猫肉」(Cat meat; 他にCats meatやCat’s meatと表記される場合もある)の記述がある。
(図1. リー・クランドル『ペットとその世話の方法』(第2版; 1921)に記された猫の好物と「猫肉」の記述)
「猫肉」と言っても、もちろん文字通りの意味ではない。連載第4回でも触れたように、当時、馬車や荷物を引く馬は怪我や老齢によって労働を引退すると、解体場でたてがみから尻尾まで、文字通り徹頭徹尾その部位が再利用された。そのうちの肉の部位を、当時ミルク売りのようにして特定の地区を巡回する「猫肉屋」(Cat’s meat man)や店舗を構えた販売店が引き取り、「ゆでた馬の肉」(boiled horse-flesh)として街の猫に振る舞っていたのである(どの猫にも、というわけではなく、何らかの形で飼い主や責任者になっている人物が猫肉屋に定期料金を支払っていた)。ただし、キャットショーを前提とし、猫の毛並みの艶などを気にする出品者向けの飼育本のなかでは、馬の肉が病気を媒介する可能性に言及しており、手放しで推奨できる食べ物ではなかったようだ(*8)。世界初の犬用ビスケットを開発したスプラット社も自社のキャットフードを宣伝する際、「街なかの猫たちのほとんどが茹でた馬の肉を与えられているが、多くの場合それは病気になった馬の肉、もしくは病気を媒介する馬の肉である」とその不健全な慣習に警告した上で、(本当かどうかはさておき)自社のピュア(混じりもののない)で新鮮、安全な食品へと広告読者を誘導している(図2)(*9)。
(図2. スプラット社のキャットフードの広告;Gordon Stable, Cats the Points and the Characters, Dean & Son, 1877, viii)
「猫肉」については文化研究的な関心からいくらか知られているかもしれないが、猫の博物誌や飼育本の記述をよく読んでいくと、まだあまり注目されていない猫の食べ物に突き当たる。それが「ゆでた肺臓」(boiled lights)と、「ゆでた肝臓」(boiled liver)の記述である。まず肺臓(“lights”; 他の臓器に比べて「軽い」ことに由来)は、スコットランド料理のハギスに使われる以外にも、「馬の肉よりゆでた肺臓のほうが猫には良い」(“Boiledlights are better for her [cats] than horse-meat”)として、猫用の餌にも回っていたようである(*10)。実に「食べること」を主題とした第8挿話で、ブルームはかつて働いていた家畜市場に関連した施設で動物が屠畜・解体される場面を思い起こすが、そこで彼はこの肺臓が専用のバケツに選別される様を目撃している。
動物の苦痛ってこともある。鳥の羽根を毟って内蔵を引きずり出す。あの家畜市場の哀れな動物たちは屠畜斧で脳天を叩き砕かれるのを待つだけ。もぉぉぉ。可哀そうに、打ち震える子牛たち。めぇぇぇ。よちよちあるきのちびべこ。牛キャベ炒め。屠畜人のバケツにぶよんぶよんの肺臓(Butchers’ buckets wobbly lights)。その鈎の胸肉よこせ。どてん。生首やら血まみれ骨やら。皮を剥がれたガラス眼の羊たちが腰から吊るされ、血まみれ紙ぐるぐる巻き鼻面が鼻ジャムを大鋸屑に滴らせる。(U-Y 8. 291)
「ゆでた肝臓」は猫だけでなく、馬や犬にも与えられていたようだ。ただし、常食にすることは推奨されず、与えすぎると下痢につながるという。とくに子猫は消化できないので、「豚や牛の肝臓、また心臓も同様に、決して子猫には与えないように」(“Never give pig’s or beef liver, or even hearts”)という警告文も見られる(*11)。
さて、この文脈において充分興味深いことには、都市部の猫に振る舞われる「ゆでた肝臓」がある文学作品に登場していることだ。アーネスト・トンプソン・シートンが1905年に出版した『動物英雄伝』中の「裏町の野良ネコ」の冒頭(図3)では、猫肉屋の呼び声“Meat! Meat!”とそこに群がる猫が活写されるが、その手押し車のなかから振る舞われるのは、通常のゆでた馬の肉ではなく、強い匂いを放つ「ゆでた肝臓」である。
「肉やぁ!肉ぅ!」…(中略)…男は五十メートルぐらいごとに車をとめた。そのくらい進むと、あとについてくるネコがかなりの数になるのだ。魔法のような呼び声をもった男は、手押し車を止めると、車にのせてある箱の中から焼き串を一本とりだす。その串には、強い匂いを放つ、ゆでた肝臓(strong-smelling boiled liver)の切れはしがいくつも突き刺してあった。男は長い棒で、その肉片を串から抜き落としてやる。(*12)
(図3.1905年刊行の初版『動物英雄伝』の頁から。Ernest Thompson Seton, Animal Heroes, Constable & Company, 1905, p. 14)
ブルームの食嗜好が特殊なそれとして導入されるからこそ、その家の猫が豚の腎臓のおこぼれにあずかる様子を見て、「なんとも通な猫」と考える読者もいるかもしれない。しかし世紀転換期の博物誌や飼育本、シートンの物語を通じて帰結できるのは、都市部で臓物(モツ)を食べる猫は当時特段珍しくはないということだ。そして物語の前景には登場してこないが、『ユリシーズ』のダブリンの街には、ゆでた馬の肉、ゆでた肺臓、ゆでた肝臓を食べている猫たちが確かにうろついているはずなのである。
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19世紀から20世紀初頭の猫たちはいったい何を食べていたのかという問題を探ったいま、翻って臓物の記述ではじまる第4挿話の冒頭をあらためて見返してみよう。はじめに引用したクランドルの“Many sorts of . . . are relished by most cats”の言とともに再考してみれば、それはまったく別様なものに、単にブルームの食嗜好を語るだけではないことが分かる。
リアポウルド・ブルーム氏は禽獣の臓物をうまがる男である(Mr Leopold Bloom ate with relish the inner organs of beasts and fowls)。どろっとしたもつがらスープもいいし、こりこりする砂肝、詰物をして焼いた心臓、パン粉をまぶしてソテーにした肝臓スライス、生鱈子のソテーもいい。とりわけ大好物は羊の腎臓の直火焼き、かすかに匂う尿の微妙な味がぴりっとした舌を刺す。(U-Y 4.1-4)
ぐちゃぐちゃ、どろどろ、こりこり、ぴりぴり…第4挿話は臓物の「リアルな」食感と臓物を好むブルームの嗜好からはじまる。Leopoldという猫科のleopardに近似する名前をもつ黒い喪服を着た主人公(第1挿話の“Black panther”との対応物でもある)の舌が好む動物の臓物紹介に続けて、その飼い猫の舌が「ぴちゃぴちゃと」ミルクを味わい、やはり動物の臓物に齧りついていることは偶然ではない。それは物語を通じて「食べない主人公」であるスティーヴンと比較するとなおさら目立つ事実である。ブルームや猫が食べる行為を熟読してみると、朝にハンロン牛乳店から配達されてくる「温泡」の牛乳や、ドルーガックの肉屋で購入された「じくじくと血を滴らせる」豚の腎臓には、生産された直近の時間と場所の近さとを合わせて、ダブリンの街に息づく物流が感じられてくるだろう。1904年6月16日の朝、飼育と屠畜、運搬と販売のサイクルを動いてきた食品を、ヒトや猫が歯や顎、舌を使って噛んで飲み込み、その体内の臓器を通じて輸送し、消化し、吸収し、排出する。すなわち第4挿話の冒頭とは、ひとつには、キャロル・アダムズが「不在の指示対象」(absent referent)と呼んだ、動物が加工食品としての「肉」になる流通過程のなかで消えてしまう生きた身体を見えるようにするための布石、また「動物の痛み」という18世紀末以降の近代的な社会問題を後の第8挿話で呼び込むための伏線(*13)、さらには飲んだものを排尿し、食べたものを排泄するという文学作品では省略されてしまう行為を描くための予告であったことが判明するのだ。ここで私たちはジョイスの巧妙な手にハッとする。第4挿話の入口がブルームの口にするものからはじまり、それからすぐに彼が猫の「尾の付け根の白いボタン」にフォーカスした時点で、その挿話の出口で出ていくものがすでに書き込まれていたのである。
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アダムズが引用する批評家ウィリアム・ハズリット(1778-1830)が「肉」という語の隠喩的な使用のために1826年に述べた言――「食物として利用される動物は、知覚できないほど小さくされるべきである」――は(*14)、文学のなかの《小動物》を考える上でも示唆的である。それは「生きた身体」が見えないように小さくされており、ブルームのような人物がいなければ背景に溶け込んでしまう存在である。しかし読解作業によっては、その存在の身体を前景化することも可能なのだ。世紀転換期のダブリンの街でゆでた馬の肉を食べ、ゆでた肺臓を食べ、ゆでた肝臓を食べていた猫は、『ユリシーズ』のテクストに文字情報として書かれているわけではない。それでも彼らはジョイスのダブリンを構成するいわば「動物市民」(denizen)として、1つの語のなかや幾つかの文の隙間に折り畳まれるようにして書き込まれている、と言えるだろう。文学作品を読む面白さの1つには、こうした「そうは書かれてはいないが、そのように書き込まれていること」の発見がある。その発見がつづけてテクストに実際に書かれてあることの未だ知られざる意味の発見へと通じていくだろうし、さらには私たち自身の普段の生活や言葉のなかに隠れていた、それまでは見えなかった《小動物》の飛び出しに出逢うことにもなるだろう。発見に次ぐ発見に次ぐ大発見。おそらくこの種の経験は、はじめて『ユリシーズ』を読む読者にこそ訪れやすいのではないだろうか。
南谷奉良
**本連載では『ユリシーズ』からの引用はJames Joyce, Ulysses, ed. Hans Walter Gabler (Random House, 1986)に準拠し、略号Uにつづけて挿話番号+行数を記す。また柳瀬尚紀訳からの引用の際には、『ユリシーズ』(河出書房, 2016年)に準拠し、略号U-Yにつづけて挿話番号+ページ数を記す。ただし原文に振られているルビは原則省略し、必要な場合にのみ [ ] 内で示す。**
*1 本名はサミュエル・G・グッドリッチ(1793-1860)で、「ピーター・パーレー」の名で数多くの児童向けの教育・娯楽本のシリーズを刊行した。『若き日の芸術家の肖像』の第1章でも、少年スティーヴンがギリシャ・ローマ物語に触れてその名を出している。ジョイスと「パーレー本」については、Morton P Levitt, Joyce and the Joyceans (Syracuse UP, 2002), pp. 141-42を参照。
*2 こうしたハーディーの動物の埋葬や追悼詩にアナ・ウェストはその著書でヴィクトリア朝の動物に対する感傷の典型を見ている(Anna West, Thomas Hardy and Animals, Cambridge UP, 2017, pp. 180-81)。
*3 19世紀末における猫の儀式的な埋葬、悲嘆に沈む感傷的な追悼詩については、ミミ・マシューの詳細な調査に詳しい。Mimi Matthew, “Cat Funerals in the Victorian Era,” Jan. 21, 2016を参照のこと。
*4 第1挿話でミルク売りの老婆がマーテロ塔を訪れているように、当時は重たいミルク罐を載せた馬車や犬曳きの荷車が得意先を巡回していた。おそらく第1挿話のミルク売りの老婆もマーテロ塔の外に何らかのカートでやってきているはずである。
*5 風味や腐敗、分量をごまかすために、水や砂糖、化学添加物を加える「混ぜもの」(adulteration)の問題は、牛乳においても問題化した。特に1890年頃からは当時の乳幼児の高い死亡率の一因とみなされ、大きな市民的関心を読んだ。ヨーロッパおよびアイルランドにおける「牛乳問題」(milk problem)については下記の論文が参考になる: Peter Atkins, “Sophisticated Detected; Or, the Adulteration of the Milk Supply, 1850-1914,” Social History (1991), vol. 16, pp. 317-39; J. Foley, “The Irish Dairy Industry: A Historical Perspective,” Journal of the Society of Dairy Technology, vol.46, no. 4, pp. 124-38; Helen O’Connell, “Food Values: Joyce and Dietary Revival,” John Nash, ed., James Joyce in the Nineteenth Century (Cambridge: Cambridge UP, 2013), pp. 128-46.
*6 夏目漱石『吾輩は猫である』新潮文庫, 1993年, pp. 5, 31. 同小説は1905年1月から翌年8月にかけて俳句雑誌『ホトトギス』で連載された。
*7 Lee S. Crandall, Pets and How to Care for Them (New York Zoological Park, 1921), p. 32.
*8 Rush ShippenHuidekoper,The Cat: Guide to the Classification and Varieties of Cats and a Short Treatise upon Their Care, Disease, and Treatment (D. Appleton and Company, 1895), p. 81; John Jennings, Domestic and Fancy Cats: A Practical Treatise on Their Varieties, Breeding, Management, and Disease (L. Upcott Gill, 1901), p. 61; Francis Simpson, The Book of the Cat (Cassell and Company, 1903), p.37.
*9 Gordon Stable, Cats the Points and the Characters (Dean & Son, 1877), viii.
*10 同上, p.371. ただし馬の肉と同様、病気の感染の可能性が危惧されており、当時の国民病であった肺結核との関連が指摘されている。
*11 Dorothy Bevill Champion, Everybody’s Cat Book (P of the Lent & Graff Company, 1909), p.63.
*12 藤原英司訳「裏町通りの野良ネコ」(『西部の野生馬』所収、集英社文庫、1979年)を一部変更して引用。原典はErnest Thompson Seton, “The Slum Cat,” Animal Heroes (Constable & Company, 1905)に依った。平繁佳織氏から、『ユリシーズ』と同年で1922年刊行のヒュー・ロフティングの『ドリトル先生航海記』中にも、猫肉屋や呼び売り声、そのシステムについての記述があるという貴重な情報提供を受けた(Hugh Lofting, The Voyages of Doctor Dolittle, Fred A. Stokes Co, 1922, p. 6)。記して感謝する。
*13 キャロル・アダムズ『肉食という性の政治学――フェミニズム―ベジタリアニズム批評』鶴田静訳, 新宿書房, 1994年(Carol Adams, The Sexual Politics of Meat: A Feminist-Vegetarian Critical Theory, Continuum Intl Pub Group, 1990)の第2章を参照のこと。アダムズの議論を活かした上でブルームの肉食行為を論じるには、サンドウ体操のような肉体増強に対する男性文化を含めて、さらに論証する必要がある。また注意しなければならないのは、「不在の指示対象」を彼が前景化するのはあくまで彼の意識の中であって、現実の場面では家畜市場からリフィー川河岸までの電車の新路線提案をしているように、動物を都市景観から不可視にする精肉過程の近代化を提案している。Peter Adkins, “The Eyes of That Cow: Eating Animals and Theorizing Vegetarianism in James Joyce’s Ulysses,” humanities (2017), vol. 6, no. 3, p. 6を参照。
*14 アダムズ, p. 53; Keith Thomas, Man and the Natural World: A History of the Modern Sensibility (Pantheon Books, 1983), p. 300.