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ジョイスの手――はじめての『ユリシーズ』

海を眺めるスティーヴン・デダラス――『ユリシーズ』のはじまり

 初めてダブリンを訪れたとき、海が街からとても近いことに驚いた(*1)。改めて地図を広げてみればすぐにわかることだが、「暗い・黒い(dubh=dark/black)」「水たまり(lind=pool)」というアイルランド語に語源を持つこの都市は、ジョイスにとって永遠の想像力の源であった「リフィー川」(*2)の河口に広がる。ダブリンの街並みを考えるとき、下記の写真にあるようなリフィー川の姿を最初に想起するのは私だけではあるまい。『フィネガンズ・ウェイク』(1939)の有名な書き出し――「川走、イブとアダム礼盃亭を過ぎ、く寝る岸辺から輪ん曲する湾へ(riverrun, past Eve and Adam’s, from swerve of shore to bend of bay)」――は、まさに川(riverrun)から始まり、岸(shore)、そして湾(bay)へと流れ込んでゆく。1904年10月8日、22歳のジェイムズ・ジョイスは、出会ってまだ4か月にすぎなかった、後に妻となるノーラ・バーナクルと共にアイルランドを去った。そして、彼はその後3度しか故郷の地を踏むことはなかった。にもかかわらず、あるいはそれ故にと言うべきであろうか、ジョイスの作品はすべてダブリンを舞台としている。その街と人々の精神的停滞・堕落・荒廃(彼はそれを「麻痺(paralysis)」と呼んだ)を心底憎み一度は捨てたはずの故郷――ジョイスは遠いヨーロッパの地から幾度となくこの街を思い出し、生涯にわたって細部に至るまで克明に描き続けた。ジョイスについて私が最初に強く惹きつけられたのは、この狂気にも似た愛憎相半ばする祖国への想いである。彼にとってもまた、記憶の中のダブリンは川から始まっていたのだろう。

  

(写真)ダブリンの中心部(city centre)を南北に分けるリフィー川 ; ジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』I、柳瀬尚紀訳、河出文庫、2004年、19頁。

 しかしその実この街は、川沿いのみならず海沿いにあることを、『ユリシーズ』(1922)は伝えてくれる。物語は、1904年6月16日(木)午前8時、ダブリンの中心から南東約10kmに位置するマーテロ塔(と言っても、12mほどの砦である)の頂上から始まる。

 ふんぞり返って、ふくらかなバック・マリガンが階段のてっぺんへ現れた。捧げ持つ石鹸の泡立つ器(bowlにのせて、手鏡と剃刀が十文字にねかせてある。黄色のガウンが、紐のほどけたまま、穏やかな朝風に吹かれて後ろでふんわり持ち上った。器(bowlを高く掲げて誦える。

――われは神の祭壇に昇らん[イントロイボー・アド・アルタレ・ディー]。(U 1. 1-5/柳瀬11)(*3)

本連載の初回で南谷奉良が書いているように、ジョイスの恐ろしさは「たった1つの語がもつ可能性」を最大限に追求したことにある。私はここに、しかもそれが「小説」においてなされた、という自明ではあるのだが、繰り返し強調すべきであろう点を1つ付け加えたい。しばしばジョイスの書く言葉には「散文詩」の性質が指摘されるが、詩というその短さゆえに可能な韻律や互いに反響し合う比喩表現は、600頁を超える『ユリシーズ』にあっても、テクスト全体に文字通り撒き散らされている。ジョイスのこの驚くべき手法に応じるべく、わたしたちは、詩を読むように、時に音読をしながら、何度も繰り返し丹念に読み、丁寧に「1語」をその手で拾い上げなければならない。隠された意味を作り出すのは常に読者である。

 上の『ユリシーズ』の第1文の引用において、今回は「器(bowl)」という1語に着目してみたい。ジョイスは傲慢にも次のように言い放ったとされている――「非常に多くの謎や仕掛けを私は埋め込みましたので、大学の先生方は何世紀もの間私が何を意図したのかを巡って忙しく議論を続けることでしょう。ただそうすることによってのみ不朽の名声は確保されるのですから」(*4)。器の丸(〇)の上に、手鏡と剃刀の十文字(×)が置かれることで、「ケルト十字」が形成される。この後、器の中の石鹸の泡が「血」に擬えられることから、戯れに聖職者をまねるマリガンが持つその器は「聖体器(チボリウム)」を髣髴とさせる。そして、この器から連想してスティーヴンはクロンゴウズ時代に「侍者」として「香入れ」を運んだことを思い出し……と、確かにジョイスが込めた「謎や仕掛け」は果てしない(*5)。しかし、この連載をお読みになっている方にお勧めしたいのは、まず1語の「反復」に着目することである。

 マーテロ塔の同居人であるマリガンは「ダブリン湾を見渡し」ながら言う――「海ってのはアルジーの称したとおりだ。大いなる慈母か。[中略]あれがわれらの大いなる慈母だ。見てみろって」(柳瀬14)。この言葉になかば促されるようにして、作者の「分身」である 22歳のスティーヴンは

ぎざぎざした花崗岩に肩肘をつき、掌を額に当て、てかてかの黒の上着袖のほつれかけた縁を見つめた。苦痛が、いまだに愛の苦痛ではないそれが、心を苛む。音もなく、夢の中で近づいてくる息を引き取った母、やつれきった体がゆるゆるの茶色の経帷子にくるまれてただよってくる蠟と紫檀の匂い、吐く息が、屈み込んできて、物言わず、恨めしげに、仄かに匂う湿った灰の匂い。縫糸のほつれた袖口の向うに、傍らのよく肥えた声[マリガン]が大いなる慈母と呼びかけた海が見える。湾と水平線の輪が鈍い緑のどろっとした胆汁をたたえていた。大声で呻き呻き吐く発作のたびに腐りかけた肝臓から絞り出したものだ。(柳瀬15)

どうしても初読者は、上の引用の下線部に注目をしてしまうことだろう(私自身そうだった)。約1年前に病死した母は、亡霊となって彼の記憶に憑りついている。しかし、今回着目したいのは、彼の視線の動き、そして明示的に描かれていない彼の心の動きである。

 作者と同じく視力が弱いスティーヴンは、まず海ではなく、まさに目の前にある「袖のほつれかけた縁」を見る。つまり衣服のほつれは、母がいなくなってしまったことを再度彼に痛感させる(*6)。それ故に、「苦痛」はより一層強く彼の「心を苛む」のだ。私たちが近しい人を亡くしたとき、その不在をよりリアルに感じるのは、このような日常の些細な出来事においてではなかろうか。そして引用の下線部のように、スティーヴンの夢に現れる母は、彼女の最期の姿の記憶と混ざり合っていることを読者は認め知るわけだが、スティーヴンの視線はここでようやく、先ほどマリガンから見るように促された海、「袖口の向うに」ある「大いなる慈母」を捉えることになる。

  

(左)ジョイスが実際に一時期住んでいたマーテロ塔(現在は、ジェイムズ・ジョイス・ミュージアムになっている)

(右)マーテロ塔の頂上から見た海

 

 再度引用しておこう――「湾と水平線の輪が鈍い緑のどろっとした胆汁をたたえていた。大声で呻き呻き吐く発作のたびに腐りかけた肝臓から絞り出したものだ」。ここで次第に浮かび上がってくるのは、「湾と水平線の輪」が作り出す形状は〇、すなわち「器(bowl)」であるということだ。海の緑が、肝臓を病んで吐き出す母の胆汁の色に変わってゆく――このおぞましい光景が重要であることを、ジョイスは以下のように伝えてくれる。すなわち「反復」によって、だ(*7)

 雲がゆっくりと動いて、太陽をすっぽり覆い、湾をさらに濃い緑色に翳らせた。眼下にひろがる、苦い水を湛えた器(bowl)。ファーガスの歌。独り家のなかで歌った、長い暗い弦のひびきを抑えながら。母の部屋のドアが開いていた。おれの弾き歌いを聞きたかったのだ。無言で畏れと憐れみを抱いておれは母のベッドへ行った。惨めなベッドで泣いていた。あの歌詞にほろっとしちゃって、スティーヴン。愛の苦い神秘。[中略]

 夢の中、音もなく近づいてくる母、やつれきった体がゆるゆるの茶色の経帷子にくるまれてただよってくる蠟と紫檀の匂い、吐く息が、屈み込んできて無言の秘めた言葉を告げ、仄かに匂う湿った灰の匂い。(柳瀬21-23)

ジョイス作品には、余りにあからさまで、稚拙とすら言いたくなるような「反復」がしばしば見られる。しかし先に述べたようにこのテクストを「(散文)詩」と見なすのであれば、歌謡曲のサビのリフレインのように、繰り返しが見られるのはある意味で当然だとも言える。

 2つの離れた場面の引用を原文で見てみよう。

Silently, in a dream she had come to him after her death, her wasted body within its loose brown graveclothes giving off an odour of wax and rosewood, her breath, that had bent upon him, mute, reproachful, a faint odour of wetted ashes. (U 1.102-05)

In a dream, silently, she had come to him, her wasted body within its loose graveclothes giving off an odour of wax and rosewood, her breath, bent over him with mute secret words, a faint odour of wetted ashes. (U 1.270-72)(*8)

読者にすぐにそれと気づかせる反復を「見える反復(visible repetition)」、繰り返し読む者にのみ明かされる隠れた反復を「見えざる反復(invisible repetition)」と仮に呼ぶならば、夢の中の母の亡霊は前者に、海が器に吐き出された胆汁に変化することは後者に相当するだろう。

 多くの海外文学の専門家はついつい原文で読まないとわからない、などと言ってしまいがちだ。しかし、ジョイスの「反復」は、1語や1文の反復、あるいは似たような表現を拾い上げてゆくことで、翻訳であっても充分に見つけ出すことは可能である。そして再読したときであれ、「器(bowl)」という単語が、物語のまさに冒頭から繰り返されていることに気がつくとき、読者は溜息をつきながらも、実に手の込んだジョイスの書きぶりに舌を巻かずにはいられないはずだ。

 ここで再度強調すべきは、ジョイスがこの作品を海の向こう、故郷から遠く離れた場所で書いたことである。22歳の芸術家志望の青年、未熟なスティーヴンが眺める海の先には、成熟した作者がいる。若者はここではないどこか遠くの場所を想い描き、悲劇的な過去の記憶を追い払って、勇ましく旅立とうとする。作者はそんな若かりし日の己の姿を、彼がやがて辿り着く遠い場所から事後的に描き出す。川が流れつく先にある海、海を渡った先にある未知の世界には、何が待ち受けているのか。ジョイスを「神」と崇拝していたスコット・フィッツジェラルドは、『グレート・ギャツビー』(1925)の最後を次のように書いた――「だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも」(*9)。この「我々」のひとりこそ、『ユリシーズ』の冒頭で海を眺めるスティーヴン・デダラスである。

 最後に。本企画の連載という特性を活かして、ジョイスが隠した「謎と仕掛け」を、読者の方々といっしょに考えてみたい。先ほど引用した以下の文には、『ユリシーズ』のもう一人の主人公であるレオポルド・ブルームが初めて登場する第4挿話との間に「見える反復」と「見えざる反復」のふたつが起こっている。

 雲がゆっくりと動いて、太陽をすっぽり覆い、湾をさらに濃い緑色に翳らせた。眼下にひろがる、苦い水を湛えた器。ファーガスの歌。独り家のなかで歌った、長い暗い弦のひびきを抑えながら。母の部屋のドアが開いていた。おれの弾き歌いを聞きたかったのだ。無言で畏れと憐れみを抱いておれは母のベッドへ行った。惨めなベッドで泣いていた。あの歌詞にほろっとしちゃって、スティーヴン。愛の苦い神秘。

次回の連載(9月)で私が用意しているものとは全く異なる、より鋭く豊かな〈発見〉を読者のみなさまが成し遂げる可能性は大いにある。事実、正直に告白しなければならないが、本稿を書くために柳瀬訳による『ユリシーズ』第一章「テレマコス」を読み返し、私自身実に多くの「新たな」発見がいくつもあった。『ユリシーズ』の超絶的な難しさは、逆説的にも、専門家や研究者を含むあらゆる読者を、常に「初読者(first-time reader)」に変えてしまう。その意味においても、このテクストは複数の人数で、複数回読まれるべきなのだ。

小林 広直

*1 私が留学していたUniversity College Dublin(UCD)は市の中心から約3km先の郊外にあるが、海岸線からは約1kmの距離にあり、大学の中心にある「湖(The Lake)」という名の「水たまり」にはしばしばカモメがやって来た。『ユリシーズ』第8挿話のブルームよろしく、私は食べかけのパンのかけらを投げていたことを思い出す。

*2 ウィックロー州の山間に水源を持つリフィー川は、全長135kmで、実はアイルランドで8番目長い川に過ぎない。http://www.berthamilton.com/13329.pdf

*3 James Joyce, Ulysses, ed. Hans Walter Gabler (Random House, 1986);『ユリシーズ』からの引用はガブラー版に準拠し、略号Uにつづけて挿話番号+ページ数を記す。なお翻訳は、柳瀬尚紀訳『ユリシーズ 1-12』(河出書房、2016)を使用した。こちらは(柳瀬+ページ数)とする。なお、柳瀬氏は『フィネガンズ・ウェイク』の翻訳において用いた「ルビ奏法」を『ユリシーズ』でもしばしば意図的に用いて訳出しているため、本連載ではウェブ・ページの特性上、原則的にルビなしで引用する(どうしても必要なときは、このラテン語からの引用のように[ ]で補う)。

*4 原文は以下の通り――“I've put in so many enigmas and puzzles that it will keep the professors busy for centuries arguing over what I meant, and that's the only way of insuring one's immortality” (Richard Ellmann, James Joyce. New and rev. ed. Oxford UP, 1982, p. 521)

*5 このような読解は、例えば集英社訳に付された膨大な訳註(『ユリシーズ』ⅠⅡⅢⅣ、丸谷才一・永川玲二・高松雄一訳、集英社文庫、2003年)、あるいは電話帳と見まがうほどのDon Giffordの注釈本(Ulysses Annotated: Notes for James Joyce’s Ulysses. U of California P, 1988)を始めとする、幾多の先行研究の成果である。また、『ユリシーズ』を味読するための参考文献としては、ケヴィン・バーミンガム『ユリシーズを燃やせ』(小林玲子訳、柏書房、2016年)の巻末に書いた拙稿(「『ユリシーズを燃やせ』のためのブックガイド」、454-60)をご覧いただきたい。

*6 スティーヴンの幼年期から青年期までを描いた『ユリシーズ』の前作、『若き日の芸術家の肖像』(1916)には以下のような描写がある――「母はいま買いたての僕の中古服を仕立て直している」(『若い芸術家の肖像』大澤正佳訳、岩波文庫、2007年、476頁)。

*7 ちなみにアイルランドのナショナル・カラーは「緑」である。その緑色が濁る、汚されているという主題は『ダブリナーズ』の「出会い」で既に描かれている。

*8 『ユリシーズ』第15挿話で母の亡霊が実体化されるときもまた、以下の文言がト書きとして繰り返されている――breathing upon him softly her breath of wetted ashes”(U 15. 4182)

*9 スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』村上春樹訳、中央公論新社、2006年、325-26頁。

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著者略歴

  1. 小林 広直(こばやし・ひろなお)

    東洋学園大学専任講師、日本ジェイムズ・ジョイス協会事務局員。ジョイス作品を「亡霊表象」「歴史」「トラウマ」という観点から分析・研究している。主要業績:「「心とは何か」を学ぶこと――『若き日の芸術家の肖像』と『ユリシーズ』におけるスティーヴンの母の祈り」(高橋渡・河原真也・田多良俊樹編著『ジョイスへの扉――『若き日の芸術家の肖像』を開く十二の鍵』、英宝社、2019 年、111-41 頁)、「〈我仕えず〉、ゆえに我あり――間違いだらけの説教と狡猾なスティーヴン/ジョイスの戦略」(金井嘉彦・道木一弘編著『ジョイスの迷宮──『若き日の芸術家の肖像』に嵌る方法』、言叢社、2016 年、99-118 頁)。

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