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ジョイスの手――はじめての『ユリシーズ』

『リトル・レヴュー』誌と『ユリシーズ』――100年前の初読者たち

 本連載がジョイスの『ユリシーズ』をすでに読んでいる人よりはむしろ、これから読もうとしている人を対象にしたものであること、そして『ユリシーズ』があらゆる読者を「初読者」に変えてしまう性格を備えている(第2回連載を参照)ことをふまえ、今回は時を遡り、1918年3月、『ユリシーズ』が初めて世間の目に触れた時の、本当の意味での初読者たちの目線から作品について考えてみたい。

 
(写真)初版『ユリシーズ』の圧倒的な重量感

 私たち21世紀の初読者たちが『ユリシーズ』を目の前にした時に感じるのは、その圧倒的なまでの重量感であろう。版によって多少の差はあれども、『ユリシーズ』は語数にして26万5千語強と、かなりの分量だ。その物理的な重みに加え、連載初回に私たちが打ち破ることを決意した「20世紀文学の最高傑作」といった大層な文言によって、その質量はさらに増すことになる。そこには、本は1ページ目から最後のページまでを順にくまなく読まなければいけないという強迫観念にも似た思いも作用しているかもしれない。そこにドン・ギフォードによる注釈書や丸谷才一、永川玲二、高松雄一による集英社版の訳註も合わせて読むとなれば、本を開く気が失せてしまうのも無理はない。ジョイスという「偉大な」作家、『ユリシーズ』という作品の「大作感」が、多くの人を遠ざける一因になっていることに異論の余地はない。

 『ユリシーズ』の下敷きとなっているホメロスの『オデュッセイア』において、オデュッセウスは故郷のイタケーへ帰る道中、通ろうとする船をことごとく沈めてきた岩礁(さまよう岩々、プランクタイ)について忠告を受けるが、ジョイスの『ユリシーズ』そのものが、その重量感をもって初読者たちの読書航海を阻んでいることは残念なことである。そこで、この作品が完結した1冊の本としてではなく、雑誌への連載形式というかたちで世に出たということを改めて思い出すと、重い岩のように立ちはだかる『ユリシーズ』という大きな塊に一筋の亀裂が走り、私たち一読者が前に進む余地を与えてくれるはずである。

 

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 『ユリシーズ』は1922年2月2日、パリ在住アメリカ人のシルヴィア・ビーチ(1887-1962)が運営するシェイクスピア・アンド・カンパニー(Shakespeare and Company)によって出版された。作品を出版するまでの艱難を誰よりも理解しているジョイスにとって、2が並ぶ自身の誕生日に22年という縁起もかついだ『ユリシーズ』の出版日は重要な意味を持っていた。そのためか、『ユリシーズ』が1918年3月号から1921年9-12月合併号まで、アメリカの文芸雑誌『リトル・レヴュー(Little Review)』(1914-29)に連載されたことは、研究者以外にはあまり知られていない。この約3年半の間に、『ユリシーズ』は全18挿話中、第14挿話までが計23回に分けて連載された。『ユリシーズ』の本文が公になったのはこの時が初めてであるから、100年前の初読者、真の意味での初読者とは、この連載を目にした人たちを指す*1

 
(写真)『リトル・レビュー』1918年3月号の目次と『ユリシーズ』第1挿話冒頭。

 20世紀初め、出版業界の急速な商業化が進む中、大手の雑誌に対抗するかたちで、前衛的かつ実験的な小雑誌(little magazine)が多く生まれた。その1つ、『リトル・レヴュー』誌は、1914年にアメリカのマーガレット・アンダーソン(1886-1973)により創刊された。タイトルにもある「リトル」という言葉や「大衆の好みに迎合しない(“Making No Compromise with the Public Taste”)」というモットーは、まさに商業化の波に抗おうとする編集者たちの意気込みを反映している*2。たとえば、上の写真にある『ユリシーズ』第1挿話が掲載された1918年3月号の目次に名を連ねるのは、ヴォーティシズムの中心人物であったウィンダム・ルイス(1882-1957)、『トランスアトランティック・レヴュー(transatlantic review)』などの文芸誌を編集したことで欧米の文学界に貢献したフォード・マドックス・フォード(1873-1939, ここでは本名のヘファー姓を名乗っている)、批評家・詩人のアーサー・シモンズ(1865-1945)、そして『ユリシーズ』の紹介・出版に尽力したエズラ・パウンド(1885-1972)ら、モダニズムを代表する作家たちである。この時点で、ジョイスはすでに『ダブリナーズ』(1914)と『若き日の芸術家の肖像』(1916)などの作品を発表していたため、一部の読者は彼の名を知っていたはずだ(実際、同号にはこれらの作品を紹介する広告が同時掲載された)。だが、改めてモダニズムの作家たちと並ぶことにより、『ユリシーズ』は高尚な芸術作品(high art)としての位置づけが定まった状態で世に送り出されたことがわかるだろう*3

 『リトル・レヴュー』誌は月刊誌として始まり、後年は発行頻度を減らしていったため、最新号から次の号が出るまでには1ヶ月かそれ以上の時間差が生じていた。つまり、100年前の初読者たちには、1つの挿話ないし挿話のある1部分を読むために、少なくとも1ヶ月の猶予を与えられていたということになる。そもそも、ジョイスは1914年頃から『ユリシーズ』の執筆を始めたとされているが、その後も出版直前に至るまで執筆・修正を重ねていたことが知られている。これだけの長編であるから、各挿話の構成や分量など、初めから事細かに決まっていたはずもない。その間、雑誌連載の方も継続して行っていたわけであり、雑誌という媒体の紙幅が各挿話の語数(長さ)をある程度左右していたという指摘もある*4。ジョイスの最後の長編作品『フィネガンズ・ウェイク』(1939)が「進行中の作品(work in progress)」と題して連載されていたのと同じく、『ユリシーズ』もまた断片的に世に送り出された作品なのだ。「章」ではなく「挿話(episode)」という用語を用いること自体が、定期的に雑誌掲載されることを念頭においた表現であると言えるかもしれない*5。テキストが初めから断片的に提示されることをふまえて書き進められていたという事実は、1ページ目から順に、一息に読み終えなければならないという重圧を、多少なりとも取り除いてくれるのではないだろうか。

 また、上の写真の目次にもある通り、『リトル・レヴュー』誌は作品とともに、文芸批評も掲載していた。つまり、『ユリシーズ』の本文と『ユリシーズ』という作品を論じた批評が同じ号に並ぶこともめずらしくなかったということである。実際、『リトル・レヴュー』誌には計22回にわたり『ユリシーズ』の解説・批評が掲載され、100年前の初読者たちの作品受容の素地を作り上げた*6。モダニズムの作品全般に共通することであるが、何を描いた作品であるかというよりも、作品をどう読むか、読むという行為そのものが焦点とされていたのだ。

 第4挿話が載った1918年6月号の、シカゴ在住の読者からの投書は、『ユリシーズ』をどのように読めばよいかわからない、すべての時代の初読者の気持ちを代弁してくれている。

全く本当に、ジョイスときたら、一体彼は何をしようとしているのか!私たちは彼の作品をどう解釈すればよいのか。『ユリシーズ』を読んでも、何を描いていて、誰が誰なのか、場所すらも未だわからない。しかも、月を追うごとに悪化しているのだ。私は自分が賢いと自負しているし、大抵の人よりは多く本を読んできたとも思う。そんな私が作家に求めることがいくつかある。その一つが一貫性だ。もしジョイスがこの先も続けたいのであれば、彼はやり方を変える必要があるだろう。彼の印象主義的な文章に費やす時間と忍耐力を持ち合わせている者は少ないし、そうしたところで得られるものは何もない*7

 初めて『ユリシーズ』を目の当たりにした読者が感じる、怒りにも似た混乱と当惑が読み取れるだろう。特に、ジョイスが自身の「やり方(style)」を変えるべきであるという指摘は、まるで後続の挿話を予見しているようで興味深い。なぜなら挿話ごとに「文体(style)」が変わることこそ、『ユリシーズ』を特徴づける要素の1つだからだ。そしてシカゴ在住のこの読者が言うように、『ユリシーズ』の文体は挿話を追うごとに「悪化」してゆく。前半と後半でおおまかに分けると、後半の方が明らかに読みづらい文体で書かれていることは、『ユリシーズ』を1度でも手にしたことのある読者ならわかるだろう。

 実際、後援者のハリエット・ショー・ウィーヴァー(1876-1961)への手紙にジョイス自身が次のように書いている。「(あなたが)挿話によって異なる文体に困惑し、イタケーの岸を切望したオデュッセウスのように、初期の文体(initial style)を好まれるとしても無理はないでしょう」と*8。この「初期の文体」というジョイスの言葉は、しばしば『ユリシーズ』前半部の比較的理解しやすい「パロディとは無縁の文体」を示すのに使われるが*9、この投書があった段階ではまだ第2挿話までしか出版されていなかったのだから、初期の文体ですら、100年前の初読者たちには極めて難解なものだったのである。

 ただ、各挿話が異なる性格を持つからこそ、私たち一人一人に相性のよい挿話が存在するのも間違いない。そこで、21世紀に生きる私たちも、『ユリシーズ』という岩の塊を前に途方に暮れる前に、『リトル・レヴュー』誌に連載されていた断片化したテキストを思い起こし、途中から読むこともいとわず、気の赴くままに、まずは本を手に取って読み始めてみるといいのかもしれない。そうして気に入った挿話を足掛かりに読み進めることで、自分なりの『ユリシーズ』への道筋を見つけられるに違いない。

(写真)筆者は正典とされるガブラー版*10を裁断し、挿話ごとにまとめている。こちらは上から第11挿話、第10挿話、第6挿話。顕著に長くなる第15挿話以降を除けば、どの挿話もこの程度の薄さである。

 

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 何度読んでも、観ても色褪せない作品に共通することとは何だろう、と考えることがある。たとえば、ジェイムズ・キャメロン監督の名作『タイタニック』(1997)を観る前に、タイタニック号が沈没することを知らない人はほとんどいないだろう。しかし、結末を知っていても、それは映画を観ることを妨げはしない。なぜなら、この映画の魅力は、船が沈没に至るまでの様子を、主人公たちの姿を通してどのように描いているかという点にあるからである。つまるところ、何が起こるか(あらすじ・プロット)ではなく、起こったことをどのように語るのか、ここに長い時間を経ても読者・観客を惹きつける要因があるに違いない。

 毎年数えきれないほどの小説、映画、ドラマ、アニメなどのフィクションが発表されているが、あらすじに着目すると、実は際立ってユニークなものは少ないはずである。『ユリシーズ』のあらすじも、中年のレオポルド・ブルームが、妻が他の男と密会をする間にダブリン市内をさまよう中で、学者気質の青年スティーヴン・デダラスと出会い、家に帰る物語とまとめてしまうこともできる。T.S.エリオットの指摘した有名な「神話的構造」の助けを借りれば、それがホメロスの『オデュッセイア』において、オデュッセウスが息子テレマコスと再会し、妻ペネロペイアのもとに戻るのに対応していると言うこともできる*11。しかし、『ユリシーズ』のあらすじを知っていても、楽しみを奪われることにはならない。『ユリシーズ』を読むことの醍醐味は、ジョイスが1904年6月16日という1日をいかにして記述したかにあるからだ。

 「ネタバレ注意」という表現を目にしたことがあるだろう。まだ作品に触れていない人が誤って目にしてしまう可能性をふまえ、文中であらすじが明らかになることを事前に示しておくという、インターネット時代特有の配慮だが、この言葉は『ユリシーズ』にあっては当てはまらない。私たち21世紀の初読者たちも、さまよう岩々に行く手を阻まれることをおそれず、途中から読み始める勇気をもってテキストへと乗り出し、縦横無尽にジョイスの言葉の中を進んでみるべきではないか。

平繁佳織 


*1 100年前の初読者になりきって『ユリシーズ』を読んでみたい、眺めてみたいという方は、アメリカのブラウン大学とタルサ大学が共同で運営するThe Modernist Journalist Projectを訪れてほしい。『リトル・レヴュー』誌がすべて無料で公開されている。

*2 『リトル・レヴュー』誌を含めたモダニズムのリトル・マガジン(小雑誌)の発行部数は推移が激しく、特定が難しい。『リトル・レヴュー』誌は1500程度とされているが、それは決して小さい数字ではなかったと言う。Peter Brooker and Andrew Thacker eds, The Oxford Critical and Cultural History of Modernist Magazines: Volume II: North America 1894-1960 (Oxford, 2009), p.18. また、第13挿話「ナウシカア」の掲載に端を発する猥褻裁判を経て、『ユリシーズ』がアメリカで実質的な発禁処分を受けると、『リトル・レヴュー』誌はこの挑戦的な文言を掲載することはなくなった。

*3 このことが、ジョイスを長らく大陸の実験的・先鋭的な文学の潮流の中に位置づけ、アイルランドの歴史的文脈から遠ざけていたことは述べておくべきであろう。現在のようにアイルランドの作家としてジョイスがもてはやされるようになるには、『ユリシーズ』の出版から優に半世紀以上を待たなければならなかった。

*4 Eric Bulson, “Ulysses by Numbers,” Representations, Vol. 127, No. 1 (Summer 2014), p.13. 『リトル・レヴュー』に掲載された全14挿話のうち、第1挿話~5挿話、第6挿話~8挿話、第9挿話~11挿話、第12挿話~14挿話の語数は3000から4000語ずつ段階的に増えており、これはジョイスがひとつの挿話を複数回に分けて連載する習慣を学んだからと指摘されている。逆に言えば、仮に1回分を超える分量ならば2回から4回の連載に見合うような長さを想定して書き進めていったことが推測される。

*5 『ユリシーズ』は全18の部分から成り、それぞれを挿話と呼ぶ。各挿話そのものに題は付されていないが、ジョイス自身が作った計画表に基づき、便宜的に各挿話に名前がつけられている。なお、柳瀬尚紀訳では「章」の訳語が採用されている。

*6 Alan Golding, “The Little Review (1914-29),” Peter Brooker and Andrew Thacker eds, The Oxford Critical and Cultural History of Modernist Magazines: Volume II: North America 1894-1960 (Oxford, 2009), p.81.

*7 S.S.B., “What Joyce Is Up Against,” Little Review:A Magazine of the Arts―Making No Compromise with the Public Taste, Vol. 5, No. 2, Jun. 1918, p.54

*8 6 August 1919, LettersI, p.129

*9 Karen Lawrence, The Odyssey of Style in Ulysses (Princeton UP, 1981), p.43

*10 James Joyce, Ulysses, ed. Hans Walter Gabler (Random House, 1986)

*11 T.S. Eliot, “Ulysses, Order, and Myth,” Dial, Vol. 75, Nov. 1923, pp.480-83

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著者略歴

  1. 平繁 佳織(ひらしげ・かおり)

    中央大学助教。20世紀初頭のアイルランド文芸復興運動期の小説・演劇における音楽とパフォーマンスの表象、特に音響空間の表象に関心がある。主要業績:「『若き日の芸術家の肖像』における音響空間」(金井嘉彦・道木一弘編著『ジョイスの迷宮――「若き日の芸術家の肖像」に嵌る方法』言叢社、2016年、57-74頁);「舞台裏のArtisteたち――『母親』と音楽会評」(金井嘉彦・吉川信編著『ジョイスの罠―「ダブリナーズ」に嵌る方法』言叢社、2016年、283-304頁)。

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