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ジョイスの手――はじめての『ユリシーズ』

3年後への序文――『ユリシーズ』出版100周年に向けて

 アイルランドの作家ジェイムズ・ジョイス(1882-1941)にはしばしば「20世紀最大の小説家の1人」という肩書が付される。私がはじめてジョイスの作品に触れた新潮文庫の『ダブリン市民』の表紙の折返しに書かれていたのも、「20世紀文学は彼の圧倒的な影響下にある」という大層な文言であった。私自身、宣伝や広報を行う際にこの種の言葉を用いたことがあるが、そのときにはどこか空疎な気持ちがあったことも事実だ。その肩書を生むことになった著者の代表作『ユリシーズ』(1922)は、読まれないこと、読破できないこと、実際の読者が少ないことで有名だからだ。その意味では、2009年3月5日「世界本の日」に英国とアイルランドで行われた、1342人の回答者から導かれたある調査結果も、特段驚きには値しないかもしれない。実際には読んでいないのに、読んだふりをしたことのある文学作品についてアンケートを集計したところ、同書は全10位中、『1984年』と『戦争と平和』につづく第3位に選ばれた(*1)Amazon 社の電子書籍リーダーKindleのハイライト機能の使用分布状況を活用する「ホーキング指標」による別の調査でも、『ユリシーズ』は「最も途中で放棄される本」という栄誉に輝いた(*2)。およそ7年もの歳月をかけてこの大著を完成させたジョイスの落胆する顔が目に見えるようである。3年後の2022年に『ユリシーズ』は刊行100周年を迎える。これまでにない規模で数多くの専門書や一般向けの書籍が刊行され、記念講演などが行われることが予想されるが、現状のままでは、どの書籍やどのイベントでも、その冒頭でいつもの嘆きの言葉が述べられるだろう――『ユリシーズ』は読まれていない、と。


(写真)(ギリシャ国旗に使われている)エーゲ海の色を採用した限定1,000部で発行された初版本『ユリシーズ』(1922)の表紙

 しかしながら『ユリシーズ』の読まれなさが嘆かれるとき、私たちは2つの事柄に注意しなければならない。ひとつには、読破できないという定評が、実際に挫折した読者からもたされるよりは、研究書の帯文や講演案内のビラ、大学の授業シラバスや文学史における作品解説、書評やブログの冒頭部分といった、本題へと至る「入口の言語空間」で多く生産されていることである。今まさに私が行っているように、難読書という定評を瓦解させようと試みる紹介者たちが、その実「『ユリシーズ』は読めない」という言説をイメージとして流布し、生産している張本人となってしまっている。書き出しであるがゆえに、より一層読者の記憶に残るのであろうが、読者に同書を敬遠させる遠因にもなってしまっているかもしれない。しかしなぜそのように書いてしまうのか。紹介者たちは『ユリシーズ』を読むためには、まず「読む」という習慣的行為に抜本的な変更を加える必要があることを伝えようとしている。このとき、「読破できない作品」という挑戦的な響きをもつ言説は、しばしばヴァージニア・ウルフ(1882-1941)が同書を読むのを途中で放棄したというエピソードをともなって(*3)、初読者を招き入れるための絶好の入口になるのだ。実際、私がこの記事の冒頭で書いたエピソードなどはつい引用したくなるものだろうし、「1904年6月16日のダブリンの1日を描いた~」という書き出しよりは面白く、耳目を引くものだろう。それはすでにかなり使い古されたレトリックである。にもかかわらず、私も含めて、その書き出しの力と誘惑から逃れられる書き手は少ない。『ユリシーズ』の受容のされ方には『ユリシーズ』という作品の本質が常に現われるからだ。


 「読破できない」という言説に触れるに際してもうひとつ注意すべきは、これまで読破した人が一体なぜ読破できたのかを同時に問うことである。多くの場合、読破できた読者の周囲には、研究団体や教育機関、読書会、関心を共有する同僚や本好きの友人など、何らかの支えや刺激があったはずである。たとえある文章やある挿話が理解できず、それらを「つまらない」と感じたとしても、その先を読み進ませてくれるような――面白くないページのなかにも何かがあると信じさせてくれる――知性や指導、リソースや共同体が周りにあったためだろう。私自身、『ユリシーズ』のページにすべて目を通し、かつそれを何度も再読できているのは、ジョイスを専門研究としているという理由に加えて、『ユリシーズ』の話を共有できる友人や研究会、環境に恵まれていたからだ。他の本にも同様のことは言えるが、ある人が難読書を読破したと言うとき、その手に難しく重たいページをめくらせた、別の力や支えも同時に考慮するべきだろう。もちろん『ユリシーズ』を孤独に読破することも可能だろうが、とくにこの書物は「1人で1冊を1回だけ読む」というもっともなじみのある読書スタイルとは相性がわるい。実際、どこかの「1」を少し増やして別の数字に変えるだけで、その本は確実に読めるものへと変化していくはずである。


 ではいったいどうやって読むのか。ジョセフ・フランクの言葉「『ユリシーズ』を読むことはできない。できるのは再読することだけだ」が言い表わすように(*4)、この作品はページ上の言葉が何を指示・含意しているかが初読でわかるようには書かれていないため、1頁ずつ順にめくって、最後のページまで到達するというリニアな読み方だけではどうしても不十分である。代わりに、無数の参照関係や繋がり、言外の意味を探し求めて、読み進んだり読み飛ばしたり、読み止まったり読み戻ったり、また頻繁にテクストの外にある資料を参照するような、しきりに動く読書が必要となってくる。レイチェル・マレーはそのように忙しなく意味や情報を探索・収集する読み方に着目し、『ユリシーズ』の読者を、蜜を集め探す蜜蜂として描き出している。

 

. . . 蜜蜂が蜜を求めるときに、豊かに繁茂する他の植物相には目もくれず、ある特定の花をめがけて飛んでいくのにも似て、『ユリシーズ』の読者は1本の道を横断しながら、テクストの外に積みあげられた膨大な資料の山の上をぶんぶんと飛び回り、使える情報源となる知の栄養を探し求めるのである(*5)

 

 このかわいい比喩はきわめて有用だ。『ユリシーズ』を読む方向は確かに真っ直ぐなベクトルにはなく、ジグザグに、飛び飛びに存在する。はじめは芳しい香りのする花のまわりを飛び回り、興味のない挿話、わからない箇所にはひとまず「?」マークでもつけて飛ばしておけばよいだろう。実際「?」の数が多ければ多いほど、再読する時の発見の悦びも増すはずである。またそのように自由なのだから、挿話を順番に読み進める必要もない。主人公レオポルド・ブルームが登場する第4挿話から読みはじめ、5→6と読み進んだあとに1→2→3へと引き返し、少し難しい第7挿話と第9挿話を軽やかに飛ばして、8→10と読んでいく仕方は十分考えられるだろう。


 かくして蜜蜂たる読者は好きな順番で各挿話を読み、次々と沸き起こる疑問を調べはじめ、あちらからこちらへと飛びまわり、無数の資料へと誘われていくが、そのときに気づかれるのは、『ユリシーズ』がインターネットや電子メディアの機構に高い親和性をもっていることだ。この特性は目立ってはHyper Joyce Studiesの設立とともに90年代中盤以降指摘されるようになったが、以来、さまざまな個人や団体・協会によるウェブサイトが登場し、ダブリン市街の地図や地誌・住所録、路面電車の時刻表、当時の日刊新聞や広告、大衆雑誌、俗謡やオペラの楽曲に関する情報へのリンク、その他膨大な文書、図像、写真資料を提供しつづけている。最近では他にも、デジタル・ヒューマニティーズ時代ならではのアプローチで、複数の草稿や版からテクストの生成を研究するGenetic Joyce Studies、『ユリシーズ』の各挿話をグラフィック・ノベル化する計画Ulysses SeenTed-Edの紹介動画や、物語世界をVR体験する試みJoycestick Projectなど、マルチメディアの技術を駆使した新しい門戸が開かれている。全体的に情報の更新やプロジェクトの進行が途中で停滞する傾向が強いという特徴はあるものの、これらの試みは『ユリシーズ』が「別のところへ飛んでいく」動きと相性がよいことを例証するものであろう。


 未だ知られざる蜜を発見する悦びも加わって、読者たちは無数のリソースのなかを飛びまわる、終わりなき探求の旅にのめりこんでいく。気づくとパソコンの画面上にはいくつものウィンドウが開き、卓上には『ユリシーズ』が埋もれるようにして参考図書や関連本が幾重にも地層をなして広がっている。マリリン・フレンチの「ジョイスは文字通り、世界のレプリカの制作にとりかかった」という言葉の真意がふと了解され(*6)、その物語世界が自分が送っている生活世界とは切断されておらず、むしろ地続きであることを強い実感のなかで握っていく。そして人やモノや動物たちが生き生きと動きはじめ、どんどんと繋がっていくダイナミズムを経験するとき、『ユリシーズ』の上を飛び回る蜂たちは震えはじめる。もはや「読む」だけにはとどまっていられない。同書の余白に与えられている、どこまでも「書きうる」(scriptible)未完性が、彼らをそうせずにはいられない筆者人(scrivener)へと変える。遅かれ早かれ、その熱く鋭い筆鋒が「1冊」という単位を突き破るだろう。ページをゆきつ戻りつ繰りつづけ、次から次へと線を引き、色とりどりに彩色しては付箋の上に、欄外に、行間に、文字と文字の間に小さな注釈の文字を書き込んでいく。特定の挿話のページは縒れて破れて本来から外れ、ついには本自体に物理的な限界が訪れる。こうして同じ版を再度購入する必要が出てくるように、『ユリシーズ』は文字通りの意味でも「1冊」では足らない作品なのである。


 上記の読者による発見とも関連するが、ジョイスは『ユリシーズ』が世紀を越えて読まれるようにその作品を書いていた。しばしば紹介される引用のひとつには、彼がジャック・ブノワ=メシャン(1901-1983)に語ったとされる次の言葉がある―「『ユリシーズ』にはきわめて多くの謎や仕掛けを取り入れたので、私が意味することをめぐって大学の教授たち(professors)が何世紀にもわたって議論することになるでしょう。それが不滅の名を獲得する唯一の方法なのです」(*7)。ジョイスの狙い通り、初期の研究者や愛好家はこの言を頼りに、多大なエネルギーを払って彼のつくりあげたダブリンを何度も再訪し、膨大な量の解釈と注釈を煉瓦のごとく積み上げてきた。いまの私たちが『ユリシーズ』やその読み方を幾分たりとも俯瞰的に眺めることができているのは、玉石と塵芥の混ざった、文字通り山のような先行研究の上に立つことができるからである。しかし21世紀現在、もし今もなおジョイスが生きていて、引き続き同じ言を口にして不滅を望むのであれば、その“professors”の部分には太い赤線を引き、冒頭のアンケート結果とともに彼に突き返さねばならない。デクラン・カイバートに同意して述べれば、『ユリシーズ』は、「ふつうの人々が送っている日々の生活の現実を祝福するために書かれた」、「ふつうの生活に隠れている驚異的な要素を解き放つことで、ありふれたものが驚嘆すべきものに変わる」信念にもとづいた作品である(*8)。本来の住民たる読者を視野に入れなかったために起こったのが、カイバートが指摘する「『ユリシーズ』は一般読者の手から奪われてしまった」という皮肉な結果であった。今後もテクストが読まれる場所を大学や研究機関に閉ざすのであれば、今は活気があるその街も次第に朽ち果て、ついには周りに何もない砂漠に取り残された、かつての権威を空しく誇る巨大な廃墟となるだろう。少なくとも私は1人でその廃墟に閉じこもり「『ユリシーズ』は読まれていない…」と肩を落として嘆くようなことはしたくない。だからいま、その本から差し出されている「手」を示し、その手をつかむための方途を示したいと思うのだ。

 

(写真)6月16日のブルームズ・デー、ダブリン市内ドーソン通りのホッジス・フィギス書店のショーウィンドウを飾る数々のジョイス本;月間ランキングの棚にならぶDeclan KiberdのUlysses and US(2009)

 

◇ ◇ ◇


 ジョイスの不滅を志向する精神は実は、その最も初期の自伝的作品である未完のテクスト『スティーヴン・ヒアロー』ですでに予告されている。第23章で主人公スティーヴンが、「たったひとつの詩行が人を不滅にするということを信じるか?」とクランリーに問うと、その友人は「1語じゃだめなのか?」とまぜ返す。スティーヴンが次に7年掛けて考えたひとつの4行連がその作者を不滅にする例を提示しても、その友人はふたたび懐疑的な反応を見せる。スティーヴンはこのとき続けて「行動するさなかの詩人」(“the poet in action”)に触れて反論をするのだが(*9)、そこで明らかになるのは、ジョイスの詩的言語に対する信頼や不滅への志向の一部、そしてエピファニーの理論の核が、(英国ロマン派詩人を痛烈に諷刺し、科学的進歩の時代にあって現代の詩は「役に立つ」諸学問に下ると断じたトーマス・ラヴ・ピーコック(1785-1866)の小論「詩の四つの時代」(1820)に対する反論として書かれた)パーシー・ビッシュ・シェリー(1792-1822)の「詩の擁護」(1821)に着想を得ているということだ。実際、『若き日の芸術家の肖像』では同エッセイ中の、「創造のさなかの精神」を消えかかった炭火がほんのつかの間、ふと吹く[想像力の]風で明るく輝く様[The mind in creation is as a fading coal, which some invisible influence, like an inconstant wind, awakens to transitory brightness;強調は筆者]に喩える部分がスティーヴンによって引用されている。このエッセイのなかで、シェリーはたった1つの語がもつ可能性について述べている――

 

全体として1篇の詩になっていなくとも、諸部分がそれぞれ詩的になることはある。ある1つの文章がうまく落ち着いていない箇所のなかにあったとしても、その文章それ自体を1つの全体と考えることもできるだろう。たった1つの語が消しがたい不滅の思想を生む火花となるかもしれないのだ。(*10)

 

 熾の炭火に手に当てたときのような、力に満ちて暖かく、希望のある言葉だ。「全体」という厳しく見える単位は小さく凝縮されて、たった1つの語がもつ可能性のなかに収められている。シェリーは1語を赤く燃え上がらせる作用因にロマン派的な想像力の風、そして電撃的な火花をもってくるが、『ユリシーズ』をどのように読むかという文脈において、いま私はそのエレメントを、読者の息吹と情熱へと繋げてみたい。「1冊を読破する」という強迫観念からその本を解き放つには、まずはその「小ささ」こそが重要であるし、最終的に『ユリシーズを読むためには、開かれたページの上に吹きかかる生活者たる読者の声、どれだけ小さく、どれだけつまらなく見えるようなものであれ、それらを面白く輝かせるための熱が必要だと信じるからだ。


 「小さなもの」を語る重要性の一例として、第12挿話を見てみよう。バーニー・キアナン酒場でアイルランドの牛を脅かしている口蹄疫の話がでると、ブルームがかつての職経験を活かしてその治療法をぺらぺらと話しはじめる。「俺」と名乗る語り手は、何にでも口を出すブルームを“Mister Knowall”と呼び、その博識と多弁を揶揄する。話がゲーリック・スポーツに及び、ブルームが激しすぎる運動のリスクについてふたたびその能弁を発揮しはじめると、すかさず「俺」は当てこする――

 

…誓って言うが、そこらの汚ったねえ床に落ちてる藁1本を拾って、ブルームに言ってみな。おいブルーム、この藁が見えるか。これは藁だぞ、ってな。俺の叔母さんに掛けて言うがな、あいつは1時間だってそれについて話すさ、のべつまくなしにな。(U 12. 894-97)(*11)

 

 この部分はしばしば論じられるように、物知りブルームのおしゃべりを揶揄するだけの一節なのだろうか。私には『ユリシーズ』という大著を読むためのヒントに、小さな存在のなかにひとつの世界を見出す方法のように見える。藁1本を手にもつブルームの姿からは、『ユリシーズ』のなかの何気ない1語を拾い上げて、それについて夢中で語っている読者姿が想像されてくるのだ。『ユリシーズ』に関して“Mister Knowall”になるという発想は放り捨て、藁1本、あるいは、たった1語を手にとり、そこからどれだけの豊かな可能性を引き出せるのか。この問題設定に、私はめらめらと熱くなるような想いを抱く。『ユリシーズ』の面白さを輝かせる素材が何でもない「小さなひとつ」のなかに、不滅をつくりだす方途が私たち自身の情熱のなかにあるからだ。


 今回明石書店のご厚意を得て、「ジョイスの手――はじめての『ユリシーズ』」と題し、3人の若手ジョイス研究者が交代で連載記事を執筆する運びとなった。毎月更新される記事では、1語や1文、あるいはひとつのパラグラフやひとつのトピックから論を起こし、執筆者それぞれの切り口で作品の面白さを切り出していく予定である。ジョイスが言葉に仕掛けた手練手管を解明したり、『ユリシーズ』を読んでいくための基礎知識や派生的な話題を提供したりと、記事はバラエティ豊かなものとなるだろう。願わくば、これまで1人で『ユリシーズ』を読んでいた読者やこれから挑戦する初読者にとって、このウェブ連載の記事が何らかの手引きとなり、結果として「1人で1冊を1回だけ読む」のどこかの1が別の数字に増えてくれればと考えている。実はこの連載企画と並走させる形で、私たちは3年をかけて『ユリシーズ』全18挿話を読破する読書会をはじめたところだ。連載企画と読書会、どちらも刊行100周年をめがけたものだが、本稿は2022年のそのときに「『ユリシーズ』は読まれていない」という嘆きの言葉ではじめないための、3年後への序文である。『ユリシーズ』を『ユリシーズ』以外のものを読むために読んでみよう。第1挿話からではなく第4挿話から読んでみよう。つまらない章はざっと読み飛ばしてあとで戻ってこよう。ときに孤独に、ときには幾人かと、1度ではなく何度でも読んでみよう。『ユリシーズ』を読むと同時に、とある平凡な1日の、ほんの小さな1つのなかに拡がる、超絶面白い私たちの世界を読むために。


南谷 奉良 

 

[注]

*1 Mark Brown, “Our Guilty Secrets: the Books We Only Say We’ve Read,” Guardian, Mar 5, 2009: https://www.theguardian.com/books/2009/mar/05/uk-reading-habits-1984.(最終閲覧日2019年6月1日)

*2 Ethan Wolff-Mann, “Sorry James Joyce, the People Buying Ulysses Don’t Actually Read It” Money, June 16, 2016; http://money.com/money/4369192/ulysses-james-joyce-unread-book/.(最終閲覧日2019年6月1日)

*3 ウルフが『ユリシーズ』の読破を完遂したか、途中で放棄したかについては議論が別れているが、下記のジェイムズ・ヘッファーマンによる論考はウルフの複雑な精神の機微を示す日記を丁寧に追いながら全容をまとめており、全てのページは読んではいないだろうと結論づけている。James Heffernan, “Woolf’s Reading of James Joyce’s Ulysses 1918-1920”; https://modernism.coursepress.yale.edu/woolfs-reading-of-james-joyces-ulysses-1918-1920/; “Woolf’s Reading of James Joyce’s Ulysses 1922-1941”: https://modernism.coursepress.yale.edu/woolfs-reading-of-joyces-ulysses-1922-1941/.(最終閲覧日2019年6月1日).

*4 Joseph Frank, “Spatial Form in Modern Literature: An Essay in Two Parts,” Sewanee Review, Vol. 53, No. 2 (Spring, 1945), pp. 234-35.

*5 Rachel Murray, “Beelines: Joyce’s Apian Aesthetics,” Humanities, vol. 6, no. 42 (2017); doi:10.3390/h6020042, p. 2.

*6 Marilyn French, The Book as World: James Joyce’s Ulysses (Paragon House, 1993), p. 26.

*7 Richard Ellmann, James Joyce (Oxford University Press, 1982), p. 521.

*8 Declan Kiberd, Ulysses and Us: The Art of Everyday Life in Joyce’s Masterpiece (W.W. Norton & Co, 2010), pp. 10-11.(坂内太訳『「ユリシーズ」と我ら―日常生活の芸術』水声社, 2011年)

*9 James Joyce, Stephen Hero, ed. Theodore Spencer, et.at. (New Directions, 1963).

*10 Percy Bysshe Sherry, A Defense of Poetry (Bobbs-Merril, 1904), pp. 28-29.

*11 James Joyce, Ulysses, ed. Hans Walter Gabler (Random House, 1986);『ユリシーズ』からの引用はガブラー版に準拠し、略号Uにつづけて挿話番号+ページ数を記す。

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著者略歴

  1. 南谷 奉良(みなみたに・よしみ)

    日本工業大学講師、日本ジェイムズ・ジョイス協会事務局員。19世紀から20世紀初頭にかけての動物をめぐる文学、表象、諸制度に関心がある。主要業績:「ジョイスの〈ベヒーモス〉――『スティーヴン・ヒアロー』あるいは『若き生の断章』試論」(高橋渡・河原真也・田多良俊樹編著『ジョイスへの扉――「若き日の芸術家の肖像」を開く十二の鍵』英宝社, 2019年, 231-62頁); ”Joyce’s ‘Force’ and His Tuskers as Modern Animals. Humanities (Special Issue“Joyce, Animals, and the Non human), vol. 6 (3), 2017, pp. 1-15.

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