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デジタル社会は立憲主義の夢を見るか?

第10回 デジタル立憲主義と民主主義

前回、デジタル民主主義について概観してきた。今回は「立憲主義」と「民主主義」の関係性を見ることから始める。それらは親和性が高いものなのか、あるいは対立するものなのか、その複雑な関係性を解きほぐしていく。そこから見えてくる「デジタル立憲主義」、「憲法」、そして「民主主義」という大きな問題について考察を深めていく。(編集部)

 デジタル立憲主義は、基本的権利の保障、権力分立、法の支配、民主主義等から構成される立憲的価値をデジタル社会の基本原理にすべきだと主張する研究潮流である(第6回参照)。しかし、立憲的価値の一つとして言及されている民主主義については、立憲主義と複雑な関係にあると指摘されることがある。両者は「対立」する関係として描かれることもあれば、民主主義にとって立憲主義は「必要」なものであると整理されることもある。

 そこで、今回は、デジタル立憲主義論における民主主義がどのような含意を持つのかを、前回検討したデジタル民主主義の展開も踏まえつつ、整理しておくことにしたい。

立憲主義と民主主義の対立

 立憲主義と民主主義の関係をどのように描くかについては、憲法学において一定の蓄積がある。まずは、この議論を参照し、基本的な議論の図式を確認することから始めたい。

 そもそも、立憲主義と民主主義が対立する側面もあるとはどういうことだろうか。この問題は、憲法学において古くから論じられてきた難問の一つである。この難問に正面から取り組むことは、本連載の範囲を超えているが、その論点を確認しておこう。

 「立憲主義」対「民主主義」に関する論点の源流は、司法審査(違憲審査)[1]の民主的正統性という問いにある。この問いは、アメリカ合衆国の夭折の憲法学者アレクサンダー・ビッケルによって「半多数性の難点」という形で定式化され、その後、日本でも広く認識されるようになった[2]。すなわち、「政治部門の行為を司法審査によって無効にするということは、現在の人民の意思を司法府が無効にすることになり、そのような反民主的なことが許されるのか」という問いである[3]

 その後、司法審査と民主主義という問題は、立憲主義と民主主義という問題にも及ぶとの議論が展開されていく。この論点の代表的な論者である阪口正二郎は、アメリカ合衆国の議論を詳細に検討したうえで、次のように述べている。

……違憲審査制と民主主義の対立ということで実際に問われている争点は、立憲主義と民主主義の関係そのものであり、したがって問題は違憲審査制という制度を採用しているかどうかに関わりなく問う余地があることが分かる。たとえば、違憲審査制を採用しなくとも、単純な多数決による憲法改正を認めない硬性の憲法典を有している場合には、多数決主義の観点からはなぜそれが正当なのかということが問われることになるはずである。少なくとも、多数決主義という観点からすれば硬性憲法の正当性は自明ではないはずである。逆に、仮に違憲審査制を採用していたとしても、単純な多数決で憲法改正が可能であれば、違憲審査の正当性はおよそ深刻な問題を構成しないはずである。本書が取上げて検討してきた現在のアメリカ憲法学の議論は、本質的な問題は、立憲主義と民主主義の対立という論点であるという、当たり前ではあるがしばしば等閑視されることもある事実を教えてくれるように思われる[4]

 ここでは、民主主義を多数決主義と理解し、多数決主義では変更できない仕組みを反民主的な仕組みと捉えたうえで、立憲主義と民主主義を対抗的に描くという見方が示されている。単純多数決によっては改正することができない憲法典(硬性憲法)[5]を最高法規とする統治制度(立憲主義)は、民主主義と対立するというわけである。

民主主義を創設し安定させる立憲主義?

 次に、民主主義にとって立憲主義が必要であるとの整理はどのような理屈によって説明されているのかを確認しておこう。

 ここでの要点は、多数決主義として理解された民主主義は、多数決決定を行うための制度の創設と制度を運用するためのルールの遵守というメタ規範がなければ、成立せず、安定的に運営できないのではないか、という考え方にある[6]。憲法学者の長谷部恭男は、この点を明瞭に説明している。 

われわれは、司法審査については、当然に一定の制度的枠組みを前提としていると考えるが、民主政については、何らの形式も手続きもなく、人民が直ちにその意思を表明しうるかのように考えがちである。しかし、何らの形式も手続きも必要とせず行動しうる「人民」は、どこに存在するであろうか。われわれの目に見える形で存在するのは、具体的な個々人にすぎない。これら個々具体の人々が「人民」としての主権的意思を表明しうるのは、憲法の定める形式と手続に従うからである。民主政に関する憲法の定めは、人民なるものを初めて創出し、「構成」するルールであり、憲法によって「構成」されてはじめて人民は行為能力を得る[7]

 つまり、民主主義には制度が必要であり、民主主義の制度は憲法によって創設されている、という理屈である。

 このように捉えた場合、少なくとも、制度化された多数決主義を保護するための違憲審査は、民主主義と整合するはずである。だが、制度化された多数決主義の範囲は明確ではない。前回検討した〈デモクラシーのミニマムコア〉という考え方は、現在の民主政国家における、制度化された民主主義にとって必要不可欠といえる憲法上の原則を特定しようとするものである。言い換えれば、ミニマムコアを保護するためであれば、強力な司法審査を要請しうるとする主張でもある[8]

 憲法学者の林知更が指摘するように、強力な司法審査を及ぼす範囲を制度化された多数決主義に限定すべきではないと主張する論者[9]にとっても、これらを保護するための手厚い司法審査には同意している[10]。すなわち、「裁判所は、民主主義の保護者としての役割を果たすために、表現の自由や選挙の領域などでは積極的かつ厳格な審査を行うべきである」という点では、「一致」しており、争点は、「民主主義の保護」を超えた司法審査のあり方なのである[11]

 他方、立憲主義と民主主義の次元では、民主主義を「構成するルール」が憲法によって創設されることを受け入れたとしても、なぜ、憲法が多数決によって変更できないのか、という疑問は残る。

 冒頭で述べた通り、憲法学において長きにわたって論じられてきたこの難問を検討することは本連載の目的ではない[12]。しかし、立憲主義と民主主義の複雑な関係を確認することで、デジタル立憲主義における民主主義を考える際の補助線を手に入れることができたといえる。それは、①民主主義を創設し安定させるには、「構成的ルール」が必要であり、憲法がその役目を担ってきた、②制度化された民主主義を保護するためには強力な司法審査も認められうるとの見解の一致がみられる、というものである。

 この補助線を踏まえて、デジタル立憲主義における民主主義について考えてみたい。

デジタル立憲主義における民主主義

 デジタル立憲主義が、デジタル社会の基本理念となるべき立憲的価値の一つとして、民主主義に言及するとき、そこにはどのような含意があるのだろうか。実は、この点については、十分な議論の蓄積があるわけではない。第7回でも言及したように、現段階のデジタル立憲主義は、基本的権利の保護を中核にしている。陳冠瑋が指摘するように、「少なくとも現在の学術的潮流においては、・・・『権利のデジタル的翻訳』が主導的モデルとして機能していることは否定しがたい」[13]。そして、基本的権利の保護に次いで論じられているのはおそらく法の支配の観点だろう[14]

 とはいえ、民主主義の観点に基づく研究が全くないわけではないし、表現の自由や民主的権利に着目する場合、基本的権利アプローチは民主主義の観点を含むものになっているといえるだろう。こうした研究は、大きく、①国家の民主主義がデジタル技術によって負の影響を受けているとの認識からその対策を検討するもの、②国家の民主的制度をデジタル技術によって改良しようとするもの、③テクノロジー企業の意思決定を民主的にコントロールする仕組みを導入すべきだと主張するもの、に分かれる。その大部分は、前回検討したデジタル民主主義として論じられているものと重なっている。前回と重なる部分もあるが、立憲主義と民主主義の関係性という視点から順次検討していこう(ただし、特に重なる②については割愛する)。

デジタル社会における〈デモクラシーのミニマムコア〉の保護

 民主主義がデジタル技術によって負の影響を受けているとの言説は、一般的なものとなってきている[15]。ここでは、デモクラシーのミニマムコアの一つに数えられる表現の自由を例に検討してみたい。現在の表現空間において、政治的コミュニケーションを考える際にSNSを無視することはできない。X(旧Twitter)やFacebook、Instagram、TikTok等を使えば、全世界で数億を超えるユーザーに対して、個人が直接メッセージを発信することができる。これは政治家にとっても強力なツールとなっており、SNSを運用するデジタルプラットフォーム事業者の各種決定――レコメンデーション、コンテンツ削除、アカウント凍結など――によって、選挙等の結果に影響をあたえうる。他方、かつて最高裁が、「国民の『知る権利』に奉仕する」と評価した報道機関による報道の影響力は相対的に低下し、その持続可能性が切実な課題となるに至っている[16]

 現在の情報空間では、SNSによって、一定の訓練を受け、職業倫理を持つ(あるいは少なくとも職業倫理との関係で葛藤する)ジャーナリスト等が作成するプロ生成コンテンツ(以下「PGC」)と、この意味では素人が作成するユーザー生成コンテンツ(以下「UGC」)が水平的に流通するようになった[17]。その結果、SNSで多くの不確かな情報や悪意ある情報が容易に流通・拡散するようになり、利用者が多様な情報をもとに物事を正確に理解して適切な判断を下すことを困難にしている、と指摘されている[18]。たとえば、2024年のデジタル空間における情報流通の健全性確保の在り方に関する検討会「とりまとめ」は、「近年、生成AIやメタバース等の新しい技術やサービスの進展・普及により、デジタル 空間が更に拡大・深化している。一方、インターネット上の偽・誤情報の流通・拡散によって、民主主義の前提となる表現の自由の基盤が脅かされ」ている[19]、との認識を示している。

 こうした情報空間のあり方の背景として、SNSを運用するDPF事業者の採用するビジネスモデルとして「アテンション・エコノミー」の存在が指摘される[20]。すなわち、主な収入源である広告収入を稼ぐためには、できるだけ長い時間、ユーザーを自身のサービスに引き留めておき、より多くの広告をユーザーに表示することが重要となる。そして、刺激的な偽・誤情報は真実の情報よりも、ユーザーのアテンションを惹きやすいため、ユーザーごとにカスタマイズされたフィードに積極的に表示されるようになるのである。そうだとすれば、DPF事業者自らが状況改善に乗り出すインセンティブは高くないだろう。

 また、ドイツのメディア研究者であるクリスチャン・フクスは、インターネットやデジタル技術を用いるデジタル民主主義においては、熟議民主主義[21]と参加民民主主義[22]の構想が重視されていると指摘したうえで、参加型・熟議型のデジタルファシズムも存在するという。それゆえ、フクスは、立憲主義と組み合わせたデジタル民主主義の構想が必要になると主張する[23]。これは、デジタル技術を用いた参加や熟議・コミュニケーションの方向性を立憲主義の観点から方向付けることを主張するものと言い換えられる。

 このような問題状況を踏まえると、デジタル社会における民主主義の保護は、従来よりも厄介な問いの設定になっている。民主主義のミニマムコアである表現の自由が国家(立法府及び行政府)によって侵害されることからの保護――そこでは裁判所による違憲審査が念頭に置かれていた――だけでなく、民間事業者によってコントロールされているSNSのような情報空間の問題に対処するために、国家による関与が必要なのではないか、という問いの設定が共有されつつあるのである[24]。しかし、国家による侵害の除去とは異なり、国家による関与のあり方は多様な選択肢に開かれている。さらに、国家の情報空間への関与は異論の排除や権威主義化と紙一重でもある。立憲民主制国家には過剰な介入と過小な保護の間で難しい舵取りを求められており、この方向性を支持する学説には適切な関与のあり方を基礎付ける理論や方法を考察することが望まれている。

民主的コントロールのための制度と「憲法」

 立憲主義と民主主義の関係整理の中で示されていたように、民主主義は制度化を必要とする。民間事業者の意思決定に民主的コントロールを及ぼそうとする議論においてもその制度化の提案が試みられているといえるだろう。

 この連載の中でもたびたび言及してきた、松尾隆佑が主張する「デジタル立憲デモクラシー」の構想は、「準政府的性格が強い民間主体は、その被治者と言いうる多様なステークホルダーを包摂した熟議的な意思決定過程に基づいて権力を行使することにより、正統性を調達するべき」だとするものである[25]。この議論は、「準政府的性格が強い民間主体」[26]に対して、熟議的な意思決定過程を制度化すること、そして、多様なステークホルダーをその主体とすべきことを主張している。さらに、松尾は、上記のような多様なステークホルダーの発言権を保障するための組織改革が必要であるとの立場を支持している[27]

 この制度構想・組織改革案には様々なアイディアがありうるが、本連載で検討してきた観点からすれば、どのような形で制度をエントレンチするのか(企業にとっての「憲法」の策定?)、その遵守はどのようにして監督されるのか(裁判所による「司法審査」のような仕組みを設ける?)、ステークホルダーのどの範囲までを主体として補足するのか(「国民」の範囲の確定との類比)、といった形式的な側面をどのように構想していくのか、という点も課題になるだろう。

 あるいは、多数決主義としての民主主義とは異なる形での民主的コントロールの制度化が検討されるべきなのかもしれない。松尾が具体例として紹介する制度構想のアイディアは、ウグル・アイタックの提唱する「市民統治委員会」と呼ばれるもので、ミニパブリックスの仕組みと専門家への助言などが組み合わされたものである[28]。また、憲法学者の山本龍彦は、「AIのような技術や、その背後にいる設計者(多くの場合、プラットフォーマー)の権力を、誰が、いかにして統制するかに関する法、すなわち『技術の憲法(Constitution of Technology=CoT)』」が重要になると指摘し、「例えば、AIの専門家だけでなく、技術が人間・社会に与える道徳的な「意味」について解釈できる哲学者・法学者なども含めた諮問機関を国会内に設置し、国会議員らに助言を与える仕組みが考えられる」という[29]

 両者は、多数決主義に重きを置いているというよりは、決定の質を向上させるための仕組みの導入を構想する側面が強いといえるように思われる。ここから浮上してくる問いは、国家とは異なる私的なテクノロジー企業の意思決定を民主的にコントロールするべきだとの主張を受け入れるとしても、そこでいう民主的コントロールは多数決主義であるべきとは限らないのではないか、というものであろう。

* * *

 以上、デジタル立憲主義における民主主義がどのような意味を持つのかということについて、憲法学における立憲主義と民主主義の関係を補助線にしつつ検討してきた。この議論において、立憲主義と民主主義の対立関係はあまり前衛化して議論されていない。それは、立憲主義と民主主義の対立点については、デジタル立憲主義が古典的な問題状況に何かを付け加えていないからだと思われる。他方で、制度化された民主主義をどのように保護するかやテクノロジー企業あるいはデジタル技術に関する民主的意思決定をどのよう制度化すべきか、そこでいう「民主的」とはどのような意味なのか、という論点が更新ないし付け加えられているといえる。

◆第10回 終わり 


[1] 立法府が制定した法律を裁判所が憲法に照らして判断し、憲法に違反する場合には違憲無効と判断すること。

[2] See, Alexander M Bickel, The Least Dangerous Branch: The Supreme Court at the Bar of Politics (Bobbs-Merrill, 1962). ビッケルの議論の紹介として、大林啓吾「アレクサンダー・ビッケル――アメリカの立憲構造を明らかにした夭折の天才」駒村圭吾ほか編『アメリカ憲法の群像――理論家編』(尚学社、2010年)33頁以下、阿川尚之「アレクサンダー・ビッケル『最も危険性の少ない政治部門、政治に裁かれる最高裁判所』――米国憲法史に見る、ビッケルの思想の背景」大林啓吾編『世界の憲法本――憲法理解を深める49の本』(法律文化社、2025年)1頁以下などを参照。

[3] 大林・同上39頁。この論点がアメリカ合衆国で真剣に検討されたのは、違憲審査権を明文で規定する日本国憲法81条のような規定が、アメリカ合衆国憲法に存在しないからでもある。もっとも、「日本でも、裁判所に違憲審査権があること自体については憲法に明文があるものの、違憲審査権の行使のあり方を考えるにあたってはこの視点を欠くことはできない」とされる。新井誠ほか『憲法Ⅰ――総論・統治〔第3版〕』(日本評論社、2026年)204頁〔曽我部真裕〕。

[4] 阪口正二郎『立憲主義と民主主義』(日本評論社、2001年)278-279頁。

[5] 日本国憲法96条は、「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。」と規定しており、国民投票での承認要件こそ、過半数であるが、国会による発議要件は総議員の3分の2以上となっており、硬性憲法とされる。

[6] 阪口・前掲注4)第6章。See, Stephen Holmes, Passions and Constraint (University of Chicago Press, 1995).

[7] 長谷部恭男「司法審査と民主主義の正当性」同『比較不能な価値の迷路〔増補新装版〕――リベラル・デモクラシーの憲法理論』(東京大学出版会、2018年)140頁。

[8] See, Rosalind Dixon, Responsive Judicial Review (Oxford University Press, 2023)。日本の憲法学においても、この立場は有力に主張されてきた。松井茂記『二重の基準論』(有斐閣、1994年)などを参照。

[9] 林の言葉によれば、「個人の尊厳、個人の自律を基軸に据えるものとして憲法を理解」し、裁判所が強く保護すべき権利として、「政治プロセスに関わる権利」のみならず、「社会権や自己決定権など」を挙げる論者を指す。林知更「裁判所は民主政を護ることができるか――「政治改革」立法の憲法学的含意をめぐって」北大法学54巻4号(2003年)1230頁。

[10] 林・同上1231-1232頁。

[11] 林・同上1232頁。

[12] ここでは、これ以上は立ち入らないが、この論点に関するアメリカ憲法学の最近の動向を踏まえた分析として、大河内美紀「立憲主義と民主主義」高橋和之=長谷部恭男編『芦部憲法学』(岩波書店、2024年)665頁以下、比較憲法学の最近の動向を踏まえた分析として、吉川智志「『比較憲法研究のグローバル化』の中の『参加志向的・代表補強的司法審査アプローチ』」憲法理論叢書30号(2022年)207頁以下などを参照。また、カナダの憲法理論に淵源を持ち、近年、グローバルに注目を集めている対話理論(dialogue theory)もこの論点に関わる。対話理論の日本への応用を積極的に展開したものとして、佐々木雅寿『対話的違憲審査の理論』(三省堂、2013年)などがあるが、源流であるカナダの憲法理論の状況、これを踏まえた佐々木の議論の位置付けについては、手塚崇聡「『空の器』の功罪――『対話的違憲審査の理論』再考」千葉大学法学論集40巻3号(2026年)174頁以下が詳しい。また、対話理論への批判的検討も踏まえて、各統治機関の協働(collaboration)を基軸とした憲法理論を論じるものとして、Aileen Kavanagh, The Collaborative Constitution(Cambridge University Press, 2023)がある。

[13] 陳冠瑋「EUのデジタル立憲主義の発展と課題」EU法研究17号(2025年)68頁。

[14] 瑞慶山広大「法の支配に基づくデジタル空間のガバナンス――ニコラス・スゾーの所説を素材に」法の理論44号(2026年)23頁以下など。

[15] 以下の記述は、山本健人「デモクラシーのミニマムコアとデジタル社会」水谷瑛嗣郎編『情報法講座 第5巻 表現の自由』(法律文化社、近刊予定)と重なる部分がある。

[16] 水谷瑛嗣郎「報道の自由の持続可能性」同志社法学75巻4号(2023年)1105頁以下などを参照。

[17] 次世代NHKに関する専門小委員会「『次世代NHKに関する論点とりまとめ(第2次)』報告書」(2023年3月31日)を参照。

[18] プラットフォームサービスに関する研究会「最終報告書」(2020年2月7日)を参照。

[19] デジタル空間における情報流通の健全性確保の在り方に関する検討会「とりまとめ」(総務省、2024年)5頁。

[20] アテンション・エコノミーについては、山本龍彦編『アテンション・エコノミーのジレンマ――〈関心〉を奪い合う世界に未来はあるか』(KADOKAWA、2024年)を参照。

[21] 熟議民主主義の議論は現在も深化しているが、広義には「市民の話し合いとそこで形成されたコンセンサスを民主的正統性の中心に据える理論」であるとされる。西山渓「熟議民主主義」田村哲樹=山本圭編『現代民主主義理論ハンドブック』(ナカニシヤ出版、2026年)20頁。

[22] 参加民主主義にもさまざま議論があるが、広くは、民主主義の維持のためには国家レベルでの政治参加(投票など)だけではなく、「ローカルなレベルで共通の関心ごとへの日常的な関与が必要」とする立場である。その理由としては、「多様な人々の参加による認識的多様性」の必要性、自己統治の理念などが挙げられている。もっとも、参加民主主義は代表制民主主義を補完するものであると位置づけられている。遠藤知子「参加民主主義」田村=山本編『現代民主主義理論ハンドブック』・同上72-78頁

[23] Christian Fuchs, “What Is Digital Democracy?”, (2026) J. Inf. Technol. Politics 1, at 6.

[24] 曽我部真裕「情報空間における国家の役割と憲法論の課題」比較憲法研究36号(2024年)、山本健人「情報空間への国家介入の見取り図――DPF規制に向けた放送規制の根拠論とその応用可能性」法学研究99巻2号(2026年)など。

[25] 松尾隆佑「プラットフォーム企業の権力と正統性――デジタル立憲デモクラシーへ」年報政治学2024年度2号(2024年)189頁。

[26] 松尾自身による説明によれば、企業が市民の基本的な諸権利を保護するという役割担うとき、民間主体が準政府的機能を有するとされている。松尾・同上177頁。

[27] 松尾・同上189頁。

[28] 松尾・同上190頁。See, Ugur Aytac, “Big Tech, Algorithmic Power, and Democratic Control” (2024) 86 (4) Journal of Politics 1431.

[29] 山本龍彦「AIが導く隷属、防ぐのは「技術の憲法」」NIKKEI Digital Governance(2026年4月16日)。この構想は、厳密には、プラットフォーマーの権力を民主的正統性を持つ国家が適切に統制するための制度構想を述べているものと言うべきかもしれない。

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著者略歴

  1. 山本 健人(やまもと・けんと)

    現職:関西大学社会学部メディア専攻准教授/慶應義塾大学KGRI訪問准教授/東京大学みらいビジョン研究センター客員研究員
    慶應義塾大学大学院 法学研究科 公法学専攻後期博士課程単位取得退学、博士(法学)。
    主著に、『承認と対話の憲法理論――法の下の宗教的多様性』(ナカニシヤ出版、2025年)、共編著として『合理的配慮と憲法――日韓欧米各国における差別の緩和・解消の試み』(ナカニシヤ出版、2025年)など。また主な論文に「デジタル立憲主義と憲法学」(情報法制研究、2023年)、「デジタル立憲主義と情報空間の立憲化」(法律時報、2024年)、「世論・法・アルゴクラシー――法における世論と統治における世論」(法学セミナー、2025年)、「情報空間への国家介入の見取り図――DPF規制に向けた放送規制の根拠論とその応用可能性」(法学研究、2026年)など。

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