デジタル立憲主義への批判論の見取図?
デジタル立憲主義がどのような議論を得て登場してきたのか。その萌芽から現在までを前回の議論では見てきた。言うまでもなく、「デジタル立憲主義」は現在進行形の概念であり、猛烈なスピードで進行するデジタル・テクノロジーの如何によって、概念の更新等も必要となるかもしれない。ただ、どういった潮流/議論からデジタル立憲主義が現れてくるのかを押さえておくことは、議論を無駄に拡散させない点でも役立つであろう。同じことは、これに寄せられる批判にも言えるだろう。今回は、デジタル立憲主義にどのような批判が寄せられており、私たちはどのようなことに注視していくべきかについて考察していく。(編集部)
批判論の見取図?
第6回で確認したように、セレストのいう第2世代(2018年以降)の研究から、デジタル立憲主義への批判的分析が見られるようになる。セレスト自身はその批判を、①「概念に関する議論」、②「シニカルな議論」、③「伝統的な議論」に整理している[1]。各議論について、乱暴を承知で大雑把にまとめると、次のようなものといえる。
①では、立憲主義理論あるいは法理論としての体系性が不明確であるとの議論がなされている。その理由としては、デジタル立憲主義が、多様なアクター、規範的源泉、及びメカニズムをカバーしていること、さらに、社会的立憲主義、グローバル立憲主義、トランスナショナル立憲主義、マルチレベル立憲主義などの理論的背景が複雑にミックスされている場合があることなどが挙げられる。伝統的な立憲主義が国家を中心に展開されていたことと比較すると、様々な側面で拡張的なデジタル立憲主義に体系性があるのかが問われているといえる。
②では、私的主体によるデジタル空間の「立憲化」――たとえば、利用規約での憲法的・立憲的フレーズの使用、Facebookの最高裁とも呼ばれた監督委員会の設置[2]など――は、真に立憲的制約を設けるためではなく、表面的な見せかけに過ぎず、実質的には立憲的・憲法的原則と矛盾する実態を立憲的・憲法的オーラをまとった言説で誤魔化すために用いられているとの議論がなされている。セレストは、私的主体による立憲化の試みの誠実さを疑う態度がその核心にあるとして、「シニカル」というまとめ方をしている。
③は、主に伝統的な「立憲主義」概念を重視する立場からの批判であり、デジタル立憲主義が「立憲主義」の概念を私的主体に拡張することに対する懸念が示されている。ここには、憲法的次元の議論を、私法など別の法源の領域やDPF事業者の純粋な自主規制[3]など法の外の領域へと拡張することへの批判も合流する。
セレストの整理では取り上げられていないが、研究の内在的な偏りも批判されている。その代表的なものが、アメリカ合衆国の憲法学者アジズ・ハクによる、デジタル立憲主義の(法学的)研究が「権利の翻訳」問題――基本的人権の保護の観点と言い換えてもよいだろう――に偏っていることへの批判である[4]。
セレストによる整理は、(網羅的といえるかは留保する必要があるものの)批判論の特徴を見渡す上で便利である。しかし、各批判の意義を精確に捉え、的確な応答をするためには、各論者が展開する批判の前提となっている理論的視座、現実認識、念頭に置いている政治的・経済的・技術的文脈などを踏まえた検討が必要であり、これは容易な作業ではない。したがって、これらの作業は、本連載の第8回以降で、様々な前提をいくつかの観点に分解したうえで、個別に行っていくことにしたい。
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そこで、今回扱うのは次の2点である。第一に、伝統的な立憲主義を重視する立場からの批判のうち、デジタル立憲主義(者)が想定する「憲法」とは何かという問題である。第二に、上記のハクの批判に代表される、デジタル立憲主義研究の偏りに関する問題である。この論点は、広くは「立憲主義」という概念を用いることにも関わる問題といえる。
そのため、今回の内容は、本連載の第4回・第5回で提示した筆者自身の総論的な見解の延長線上にある。第4回では、デジタル立憲主義と伝統的な「立憲主義」概念の関係整理について以下のような結論を提示した。
最広義の立憲主義を「その時々の支配的権力を憲法によって制限する思想」と理解するならば、現代の支配的権力である国家権力と私的権力――DPF事業者に代表されるテクノロジー企業の権力――の「機能的意味の憲法」による制限を主張するデジタル立憲主義が「立憲主義」を用いることは妥当だといえる。
筆者自身は、伝統的な「立憲主義」の延長線上にデジタル立憲主義を位置づけることは、概念上の混乱をもたらすものでも、言語的・学術的資源を不当に利用するものでもなく、妥当なものであると考えているため、この部分について重ねて論じることはしない。だが、ここでいう「機能的意味の憲法」が何かについては第4回のなかで説明を留保していた。そこで、以下では、まずはこの「機能的意味の憲法」が、「憲法」概念として妥当なのかについて検討しておくことにしたい。
第二の点は、第5回で確認した通り、デジタル立憲主義が近代立憲主義の原理――権力分立、法の支配、基本的人権の保護、民主主義――を援用していることと関係する。ハクの指摘は、伝統的に国家権力の統制に貢献してきた重要な諸原理のうちの一つである基本的人権の保護に過度に偏った研究がなされていることへの批判と言い換えることもできる。この指摘の持つ意義についても検討することにしたい。
「機能的意味の憲法」は「憲法」か?
デジタル立憲主義の議論をリードするセレストは、「憲法的機能(constitutional function)」を果たす法規範が「憲法」であるという(以下、「機能的意味の憲法」と呼ぶ)[5]。「機能的意味の憲法」とは、端的には、支配的権力の制限に資する法規範ということになる。つまり、支配的権力の制限=憲法的機能であり、この機能に資する法規範を「憲法」と捉える、という用語法である。
したがって、近代立憲主義の原理を参照するデジタル立憲主義が想定している「機能的意味の憲法」とは、〈法の支配、権力分立、基本的人権の保障、民主主義といった近代立憲主義の原理を応用して、デジタル空間の権力構造の制御ないし巨大DPF事業者の権力制限を行う法規範の総体〉と定義できるだろう。こうした「機能的意味の憲法」は、デジタル空間のグローバル性・階層性ゆえに、多元的・多層的に存在することになる。すなわち、第6回でも一部確認したように、憲法典、憲法に関する裁判、国家の法律、国際法、EU法、私的主体による自主規制、インターネット権利宣言などなどが「機能的意味の憲法」に数えられるのである。
では、このように理解される「機能的意味の憲法」は「憲法」概念として妥当なのだろうか。この点については、まず、第4回で確認した通り、伝統的に憲法学が、形式的意味の憲法(=憲法典)だけでなく、実質的意味の憲法を認めている点を思い出そう。実質的意味の憲法は、「国家の根本秩序についてのすべて」[6]、「実質的な国家の基本法のすべて」[7]、「どのような形式で存在しているかを問わず、国家の構成・組織・構造に関する規範を意味する」[8]などと説明されるものであった。さらに、芦部信喜は、実質的意味の憲法の下位概念として、「固有の意味の憲法」、すなわち「国家の統治の基本を定めた法としての憲法」と「立憲的意味の憲法」を設定する概念整理をおこなっている[9]。立憲的意味の憲法は、「専断的な権力を制限して広く国民の権利を保障するという立憲主義の思想に基づく憲法」のことを意味する[10]。
ここでの憲法の概念は国家と結びついたものとして構想されているが、「憲法」が規律する対象を巨大DPF事業者ひいてはデジタル空間などに拡張しうることを受け入れれば[11]、上記のように定義される「機能的意味の憲法」と、これまでの憲法学が研究対象に含めてきた「実質的意味の憲法」、とりわけ、立憲的意味の憲法とは、大きく異ならない「憲法」概念の使い方といえるのではないだろうか。
ただし、デジタル立憲主義における「形式的意味の憲法」の位置づけについては、注意が必要である。まず、各国の憲法典も「機能的意味の憲法」の一つに数えられるが、デジタル立憲主義のあらゆる議論が憲法典を私的主体に直接適用しようとしているわけではない[12]。次に、より重要なのは、立憲主義論における形式的意味の憲法の意義をどのように受止めるか、という問題である。たとえば、芦部は「立憲的憲法は、その形式の面では成文法であり、その性質においては硬性(通常の法律よりも難しい手続によらなければ改正できないこと)であるのが普通である」という[13]。井上武史も、立憲主義において規範が明文化されていることの重要性を説いている[14]。また、近代立憲主義を前提とする憲法学において、主要な研究対象となる――少なくとも研究の起点になる――法規範は近代国家と結びついた憲法典であったともいえるだろう。
このようなことを踏まえると、「憲法」によってデジタル空間の権力構造の制御ないし巨大DPF事業者の権力を制限するというとき、果たして本当に、何らかの主要な法規範を見出す必要はないのだろうか。第5回で確認したように、「立憲主義」が直ちに結論を導く概念ではなく、議論の方向性を示す概念なのだとしても、目指す方向性を推し進めるためには、中心となる明文の法規範が必要になるとの見方もありうる。実際、伝統的な憲法学において、「実質的意味の憲法」の概念を認めるとしても、各国における憲法秩序を(完全にではないにせよ)体系的に整序しようとするときには、憲法典が導きの糸であったように思われる。同様に、デジタル立憲主義にも主要な明文の法規範が必要だとすれば、それは何だろうか。デジタル空間の越境性及び巨大DPF企業のグローバル性を考えれば、一国内の法規範を超えるものを想定することも必要かもしれない。あるいは、デジタル立憲主義の構想には、中心的な明文の法規範が不要であることを明確にすることが求められるのかもしれない。これはセレストが整理した①の批判論とも関わるため、グローバル性を指向する立憲主義論を検討したうえで、改めて考えることにしたい。
基本的人権の保護への偏り
次に、デジタル立憲主義の(法学的)研究が基本的人権の保護の観点に偏っているというハクに代表される主張について検討しよう。彼の議論は次のようなものである。

アメリカ合衆国の憲法学者アジズ・ハク(シカゴ大学ロースクール教授)
①現在の研究の多くは、国家によって特定のデジタル技術が懸念するべき方法で利用されており[15]、それが個人の利益にどのような悪影響を与えるかを分析する。②そして、そこでの個人の利益を「権利」として設定すること、すなわち、従来の権利概念をデジタルの文脈に「翻訳」すること――「権利の翻訳」――を課題としている。③しかし、AIシステムなどのデジタル技術の規制を変更することは、規制の及ぶ全集団に対し、複雑かつ重層的な影響を生じさせるため[16]、二者関係を前提とする権利のレンズでは上手く問題を捉えることができない。④「権利の翻訳」モデルに代えて、「構造的診断(structural diagnostics)」モデルを探求することが価値ある取り組みとなる。⑤構造的診断とは、新技術が導入される社会の政治的・経済的文脈を考慮に入れて、国家と社会の流動的なダイナミクスを規制する広範な構造的原理に注目するものである。⑥現状において注目すべき構造的原理は、民主主義、法の支配、そして公共財を創出する国家の機能である。
ハクの議論のうち、デジタル立憲主義の研究が「権利の翻訳」あるいは基本的人権の保護の観点に偏っているとの指摘は事実であろう。陳冠瑋も、「少なくとも現在の学術的潮流においては、こうした『権利のデジタル的翻訳』が主導的モデルとして機能していることは否定しがたい」との指摘をしている[17]。ただし、ハクが権利アプローチを否定することを示唆している点については慎重に考える必要がある[18]。確かに、ハクがいうように権利は二者関係を前提にするが、それに留まらない[19]。とりわけ、憲法によって規定される権利は、国家に対してその保護を義務付ける。つまり、既存の憲法上の権利をデジタル文脈に「翻訳」し(あるいは憲法改正によって追加し)、新たな保護範囲や規制様態が明らかにされれば、国家はデジタル技術の導入やその規制を考える際にこの権利の侵害が生じないかを考慮しなければならなくなる。この意味において、仮にAIシステムなどの問題が二者関係で捉えられない問題だとしても、権利アプローチには意味がある[20]。
とはいえ、ハクが主張するように、構造的原理に注目することは重要であり、これまでの研究においてこの観点が不足していることも事実ではある[21]。この点、政治学者の松尾隆祐が「デジタル立憲主義を超えたデジタル立憲デモクラシー」(下線の強調は筆者)を構想するべきだと主張していることも興味深い[22]。いずれにせよ、デジタル立憲主義の研究が、基本的人権の保護の観点以外からも深められることは間違いなく重要であるといえるだろう。
◆第7回 終わり
[1] Edoardo Celeste, “Conceptual Approaches to Digital Constitutionalism: A Counter-Critique” in Laura Schertel Mendes & Ricardo R. Campos eds. Digital Constitutionalism (Nomos, 2025) 15, at 34.
[2] 水谷瑛嗣郎「Facebook「最高裁」の可能性――オンライン言論空間の憲法的ガバナンスに向けて」情報法制研究10号(2021年)79頁以下などを参照。
[3] 自主規制が多様であることについては、本連載第3回を参照。
[4] Aziz Z. Huq, “Toward a Theorization of Digital Constitutionalism”, The Digital
Constitutionalist, 8 February 2022. ハクの議論を紹介するものとして、陳冠瑋「EUのデジタル立憲主義の発展と課題」EU法研究17号(2025年)68-70頁も参照。
[5] Edoardo Celeste, Digital Constitutionalism: The Role of Internet Bills of Rights (Routledge, 2022) at 37.
[6] 長谷部恭男『憲法〔第8版〕』(新世社、2022年)3頁。
[7] 松井茂記『日本国憲法 第4版』(有斐閣、2022年)9頁。
[8] 横大道聡=吉田俊弘『憲法のリテラシー――問いから始める15のレッスン』(有斐閣、2022年)9頁〔横大道〕。
[9] 芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法〔第8版〕』(岩波書店、2023年)4-5頁。この整理に対する異論として、赤坂正浩「憲法の概念」立教法学82頁(2011年)74頁以下がある。
[10] 芦部・同上。
[11] もちろん、この拡張を受け入れるかどうかが、伝統的な立憲主義を重視する立場との決定的な対立点ということになる。立憲主義が国家中心的であることを批判し、立憲主義を再構成しようとする社会的立憲主義やグローバル立憲主義とデジタル立憲主義とに親和性があるのはこの点にも関わる。
[12] 第6回で確認したように、憲法典の私的主体に対する直接適用を主張する議論も存在はする。
[13] 芦部・前掲注9)6頁。
[14] 井上武史「立憲主義とテクスト――日本国憲法の場合」論究ジュリスト20号(2017年)112頁以下。
[15] ハクの議論は基本的には国家による技術の使用を念頭に置くものであるが、ここでの主体にDPF企業を含むとしてもその主張の骨子は変わらないと思われる。
[16] ここでハクは、ロン・フラーの指摘した「多中心的な問題(polycentric disputes)」の概念を参照している。Lon L. Fuller, “The Forms and Limits of Adjudication” (1978) 92 Harvard Law Review 353. 多中心的な問題とは、多数の要素が相互に依存し合っており、一つの要素を動かすと全体に複雑かつ予測困難な影響が波及するような問題を指す。フラー自身による有名な蜘蛛の巣の比喩での説明は次のようなものである。「この種の状況は、蜘蛛の巣を思い浮かべることで視覚化できる。一本の糸を引けば、その張力は複雑なパターンを描いて巣全体へと分散される。元の引く力を2倍にしたとしても、おそらく結果として生じる各所の張力が単純に2倍になるわけではなく、むしろ、以前とは異なる複雑な張力のパターンが生み出されるだろう。例えば、引く力が2倍になったことで、1本あるいは数本の弱い糸がぷっつりと切れてしまった場合には、確実にそのような事態が起こる。これが『多中心的』な状況と呼ばれるのは、それが『多数の中心を持つ』からである。つまり、糸の交差点のそれぞれが、張力を分散させる個別の中心となっているのである」(at 395)。
[17] 陳・前掲注4)68頁。
[18] 陳もまた、ハクの議論を踏まえたうえでも、「基本権アプローチの全的否定には慎重であるべきだろう」と指摘している。陳・同上69頁。
[19] 小山剛「陰画としての国家」法学研究80巻12号(2007年)143頁以下など参照。
[20] ハクが参照したフラーは、「多中心的な問題」は裁判所の裁定に馴染まないと指摘していた。確かに権利の裁定を念頭におけば、デジタル立憲主義の権利アプローチにこの概念を援用することにも理由はあるが、権利アプローチの持つ意義は権利の裁判所による「裁定」の局面に限られない、というのがここでの応答である。
[21] ただし、法の支配の観点については一定の蓄積があるように思われる。瑞慶山広大「法の支配に基づくデジタル空間のガバナンス――ニコラス・スゾーの所説を素材に」法の理論44号(2026年刊行予定)など参照。
[22] 松尾隆佑「プラットフォーム企業の権力と正統性――デジタル立憲デモクラシーへ」年報政治学2024年度2号(2024年)189頁。松尾は、「PF企業の権力をコントロールする上で重要となる規範的な指針」を、「法の支配、権力分立、人権保障といった立憲主義的事項」と、「被治者による平等な参加という民主的事項」に区別している。その上で、デジタル立憲主義を前者の規範的指針に依拠するものとし、両者を含むものとして「デジタル立憲デモクラシー」を構想している。そのため、デジタル立憲主義――民主主義も近代立憲主義の価値として参照している――とデジタル立憲デモクラシーは単なる言葉の使い方の違いとも言えるかもしれない。しかし、立憲主義と民主主義が対抗的に論じられてきた経緯(阪口正二郎『立憲主義と民主主義』(日本評論社、2001年)など参照)、デジタル立憲主義の研究が民主主義の原理にあまり踏み込んでいないことも踏まえると、なお慎重な検討を要するかもしれない。また、松尾の主張が、DPF事業者の内部組織に民主的制度を内在させることを中心としていることも、デジタル立憲主義におけるデモクラシー論の意味を考える上で重要である。
