あるサイバー・リバタリアンが見た夢の果て?(1)
前回(第1回目)は、連載の「目的」やそもそも「デジタル社会」とはいかなる社会かなど、本連載の前提となる議論についての整理が行われた。今回から数回にわたって取り上げられるのは「サイバー・リバタリアン」。最近では『テクノ・リバタリアン』(文春新書、2024年)という本も話題になったことから、聞いたことがある人も多いだろう。サイバー(テクノ)・リバタリアンの源流に遡りながら、その考え方やかれらが見ていた「夢」について、考察がなされる。(編集部)
サイバー・リバタリアニズムとは何か
インターネットの商用利用が一般に普及し始めた1990年代において、当時のインターネットを牽引していた人々から熱狂的な支持を集めたのが、「サイバー・リバタリアニズム」と呼ばれる思想である[1]。この言葉は、世界的に有名な技術哲学者ラングドン・ウィナーの1997年の論文「サイバー・リバタリアンの神話とコミュニティの可能性」[2]で用いられ、広まったとされている[3]。ウィナーによれば、サイバー・リバタリアニズムとは、「電子媒体を介した生活様式に対する熱狂的な期待と、この先の自由、社会生活、経済、政治の定義に関する過激な右翼リバタリアン思想(radical, right wing libertarian ideas)とを結びつけた一連の思想の集合体」である[4]。他方、デイビッド・ゴルンビアのように、サイバー・リバタリアニズムには一貫した思想としての体系がなく、主張される重要な原則も互いに矛盾していると指摘する研究者もいる[5]。ゴルンビアによれば、サイバー・リバタリアニズムを「信念体系(belief system)」と呼ぶのは過大評価である[6]。
技術哲学者のラングドン・ウィナー(左)と(惜しくも2023年に逝去した)デイビッド・ゴルンビア(右)
また、日本でも批評家の東浩紀が、サイバー・リバタリアニズムは90年代頃(またはそれ以前)のハッカー文化の二面性――「コンピュータの普及が従来の権力や社会体制を破壊するものだと信じながらも、同時に金銭的な成功を追究している」――を受け継いでいると指摘している[7]。
確かに、サイバー・リバタリアニズムに一貫した体系性はないのかもしれないが、この「思想」が内包する、デジタル技術が必然的に物事を良くするといったデジタル技術万能論や、デジタル空間への国家介入に対する抵抗思想は、現代のデジタルプラットフォーム事業者の持つ理念だけでなく[8]、一時期には国家のデジタル政策の方向性にも影響を与えてきた。デジタル空間の規範理論を考えるにあたって、この「思想」を避けて通ることはできないだろう。
現在においても、サイバー・リバタリアニズムの象徴とされるのが[9]、(第1回でも言及した)ジョン・ペリー・バーロウが1996年12月に公表した、「サイバースペースの独立宣言(A Declaration of the Independence of Cyberspace)」[10]である(以下、サイバースペース、インターネット空間、デジタル空間は互換的に用いる)。
以下では、まず、バーロウが夢見た「サイバースペースの独立」とはどのようなものか、そしてそれがなぜ失敗したのかを確認する(以上、今回)。その上で、サイバー・リバタリアニズムの系譜にも位置づけられうる「デジタル自由主義」と呼ばれる国家のデジタル政策アプローチについて考えたい(以上、第3回)。
サイバースペースの独立宣言
1990年代のアメリカ合衆国の政府機関は、急速に普及するインターネットに対して、様々な法的規制をかけようとしていた。こうしたなか、後にサイバー・リバタリアンと呼ばれる人々が国家による介入に強く反発することになる[11]。たとえば、当時のアメリカ合衆国では、インターネット上に氾濫するポルノ等の「下品な(indecent)」コンテンツが、子どもに与える影響が懸念されていた。そこで、連邦議会は、1996年に電子通信法を大幅改正する中で、未成年者に「下品な」コンテンツを故意に提供することを違法とする通信品位法を制定した[12]。バーロウによる独立宣言は、連邦政府の制定した通信品位法への反対が直接の動機となっている。では、バーロウによる独立宣言はどのようなものか。少し長くなるため、抜粋して重要と思われる箇所を引用しよう。
産業社会の諸政府よ、肉と鋼鉄でできた退屈な巨人よ、我はサイバースペース、精神の新たな住処から来た。未来を代表して、過去のあなた方に告げる。我々から手を引くのだ。あなた方を歓迎する者はいない。我々が集う場所を支配できる権利はない。
……我は宣言する。我々が創り出す世界的な社会空間は、あなた方が我々に押し付けようとしている専制から、当然ながら独立しているということを。あなた方には我々を統治する道徳的権利もなければ、我々が恐れるに足る強制手段を持ち合わせてもいない……
……あなた方は我々の文化や倫理、不文律を知らない。それらは、あなた方が押し付けるよりも多くの秩序を、すでに我々の社会にもたらしているのである……
我々はサイバースペースで精神の文明を興そうとしている。あなた方政府が過去に作った世界よりも、はるかに人間的で公平な世界になるはずだ[13]。
バーロウ自身による「サイバースペースの独立宣言」朗読
詩人でもあったバーロウが、『アメリカ独立宣言』をオマージュして著した『サイバースペースの独立宣言』は、有力な思想家や政策立案者にも少なくない影響を与えたといわれる[14]。引用した箇所が指摘するのは、①サイバースペースに国家が介入する正当な理由がないこと、②国家がサイバースペースに介入することを可能にする手段もないこと、③サイバースペースの問題はサイバースペースのやり方で解決できること(セルフ・ガバナンス[15])、④サイバースペースのやり方は政府のやり方よりも「はるかに人間的で公平」であること、である。
サイバースペースは公平な社会を築けたのか
ここでは、③と④の主張に着目しよう。サイバースペースが、「独自の確固たる社会秩序を構築できなかった」ことが、この構想の失敗にとって重要なポイントだからである[16]。連載の第1回でも参照した、ヴィリ・レードンヴィルタによれば、初期のサイバースペースを悩ませたのが、いわゆる「交換問題」と呼ばれるものである[17]。これは、「相手を信じて商品や代金を取り決めどおりに送るべきか」というジレンマに関わる。インターネット経済は、遠く離れた見知らぬ者同士で売り買いすることを可能にしたが、商品や代金がそれぞれの目的地に届くまでには時間がかかる。国内経済においては、テレビショッピングや通販だったとしても、最終的には国家が後ろ盾となり取引の安全を保障するため、安心して売買することが可能であった。他方、国家からの独立を志向するサイバースペースにおいては、国家に頼らない方法で、この交換問題を解決するための仕組みが必要となる。この問題に対して、バーロウが出した答えは、次のようなものである。
……法のない普遍的な環境において、自分がして欲しいことを相手にもせよという黄金律が現実に機能するとすれば、秩序だったものを破棄しても、インターネットは未来に向かうのであり、そこでは社会体制そのものから秩序が生まれるのである。/サイバースペースに隠れることはできても、逃げることはできない。スープに唾を吐けば、自分もそれを飲むことになる。インターネット上では、自分がまいた種は、いずれ自分に返ってくるのである[18]。
この互恵主義に基づく黄金律には根拠がある。政治学者のロバート・アクセルロッドが行った「囚人のジレンマ」ゲームの実験において、「しっぺ返し」戦略の有効性が確認されていた[19]。この実験は次のようなものである。囚人のジレンマとは、2人の個人が「協力」するか「裏切るか」を選択できる状況をモデル化したものである。このゲームでは、プレイヤーAとBがともに協力すれば3点、ともに裏切れば1点、片方が協力しもう片方が裏切れば、協力した側は0点、裏切った側は5点を獲得する(下図参照)。アクセルロッドの実験では、コンピュータ・プログラムで表現された、囚人のジレンマ状況で有利となる戦略アルゴリズムの候補を募った。そして、6か国から応募された62の戦略アルゴリズムをトーナメントで競わせた。アルゴリズムの対戦は平均で各200手実施された。このトーナメントを制したのが、シンプルな「しっぺ返し」戦略を採用するアルゴリズムであった。つまり、まずは協力し、その後は相手が前回行った手を繰り返すというものだ。この戦略は、自らは裏切らない上品さを持ち、かつ、相手が裏切った場合には即座に報復するものの、相手が協力行動に切り替えれば即座に協力する寛容さも持つ。
図 囚人のジレンマ
しかし、「しっぺ返し」戦略が有効であるのは、プレイヤーが繰り返し関わる場合である[20]。関係が一度きりであれば、不正や詐欺を働く者が勝利し、自生的な協力関係は生まれない。実際、アクセルロッドの実験では、各戦略アルゴリズムは平均200手の繰り返しゲームの成績を競っている。確かに、バーロウが指摘したような黄金律に基づく互恵関係が成立しうる条件が、かつてのインターネット空間にはあったかもしれない。1980年代後半、インターネットにアクセスしていた人口は、まだ非常に少なく、長年の付き合いになる常連メンバーも多かったとされる[21]。「ネチケット」などと呼ばれる行動規範――インターネットを利用する上でお互いに守るべきルールやマナー――を確立することで黄金律を実現することができたのかもしれない。
だが、インターネットの利用者がまさしく急速に増大するにしたがって、インターネット空間は繰り返しゲームとは異なる空間となっていく。黄金律に支えられた行動規範だけでは、繰り返し関わることのない、悪意を持って行動するバッドユーザーを抑え込むことができなくなるのである。レードンヴィルタは、「法律や権力は、自生的な協調を殺したわけではない――そうではなく、法律や権力があったからこそ、私たちは自らの能力を超える規模の都市や市場を創設できた」と指摘し[22]、サイバー・リバタリアニズムが失敗に終わった理由を説明する。
その後の展開は既に第1回で記述した通りである。デジタル空間において、第三者によって強制されるルールを設定し、秩序を与えるデジタルプラットフォーム事業者が登場する。サイバー・リバタリアニズムは、サイバースペースへの国家ないし法による介入を強く批判したが、結果として、サイバースペースに秩序を与える新たな「巨人」を産むことになった。そして、皮肉なことに、この秩序には、サイバー・リバタリアン――少なくともバーロウのようなサイバー・リバタリアン――が考えるような黄金律ではなく、デジタルプラットフォーム事業者の経済的利益を最大化するための意図が組み込まれている可能性が極めて高い[23]。
***
バーロウが夢見たようなサイバースペースは実現しなかった。だが、サイバー・リバタリアニズムの「思想」に含まれる原則の一部は――一貫した体系性は持たないのかもしれないが――、国家のデジタル政策やテック企業の理念に影響を与え続けている[24]。アメリカ合衆国は現在でもそうだといわれるが、サイバー・リバタリアニズムの影響を受けた、「デジタル自由主義」と呼ばれる政策的アプローチが、EUなどでも主流であった時代も確かにある。では、このデジタル自由主義とは、具体的にはどのようなアプローチで、どのような意義と限界をもっているのだろうか。
◆第2回 終わり
[1] 「カリフォルニア・イデオロギー」、「テクノ・リバタリアン」などの呼び方がされることもあるが、本稿では便宜的にサイバー・リバタリアニズムに統一する。
[2] Langdon Winner, “Cyberlibertarian myths and the prospects for community” (1997) 27 SIGCAS Comput. Soc. 14.
[3] David Golumbia, Cyberlibertarianism: The Right-Wing Politics of Digital Technology (University of Minnesota Press, 2024) at xxi.
[4] Winner, supra note 2 at 14. 日本で右翼(right wing)というと、親国家主義的思想を想起するが、ここでは、むしろ反国家主義的思想と位置づけられている。
[5] なお、ゴルンビアは、サイバー・リバタリアニズムにおいて頻繁に主張される原則を次のようにリスト化し、相互に矛盾することもあるこれらの原則が、時として同一人物によって主張されることを批判している。「①世界のすべては、デジタル技術の登場によって根本的に、そしてほとんど常に良い方向へと変化している。②デジタル以前に存在したものは、完全またはほぼ完全に変革される必要がある。③デジタル以前のものは閉ざされ私的なものであったのに対し、デジタル現象は開かれた公共的なものである。④インターネットは本質的に民主的である。デジタル技術は民主化を促進している。⑤あらゆるものは、開かれるべきであり、開かれうる。⑥情報は自由でありたがっている(Information wants to be free)。⑦デジタル技術による広範な変革にもかかわらず、対象となる現象の本質的・重要な部分は変革後にも保持される。⑧創作者は、自らが生み出した素材に対して、ほとんど、あるいは一切の所有権を持つべきではない。⑨インターネットは、文化を民主化しており、その影響は印刷技術の登場に匹敵するほど深い。⑩ネットワーク型およびピア・ツー・ピア型の接続は、デジタル時代の顕著な特徴である。⑪それらの接続形態は、人間のコミュニケーションと社会組織の根本的変容をもたらしている。⑫技術的変化に抵抗したり、それ以外の規制手段を求める者は、恐怖・嫉妬・無理解によって動機づけられているにすぎない。⑬ある技術が広く普及・使用されているという事実は、それが有益であることの一応の証拠となる。」(番号は筆者が付した)。Golumbia, supra note 3 at 22.
[6] Golumbia, Ibid. at xxi.
[7] 東浩紀「サイバーリバタリアニズムの限界」中央公論117巻11号(2002年)270頁。
[8] Golumbia, supra note 3; Adrienne LaFrance, “The Rise of Techno-authoritarianism” he Atlantic (Jan. 30, 2024), [https://www.theatlantic.com/technology/archive/2024/01/tech-leaders-authoritarianism-democracy/677326/.]
[9] 成原慧「インターネット法の形成と展開」メディア法研究1号(2018年)120頁。
[10] John Perry Barlow, A Declaration of the Independence of Cyberspace, The Electronic Frontier Foundation [https://www.eff.org/cyberspace-independence]
[11] 詳しい経緯は、スティーブン・レビー(斉藤隆央訳)『暗号化――プライバシーを救った反乱者たち』(紀伊國屋書店、2002年)などを参照。
[12] Telecommunications Act of 1996, Pub. L. No. 104-104, § 509, 110 Stat. 56, 137. なお、通信品位法の主要部分は連邦最高裁によって、違憲と判断された。See, Reno v. American Civil Liberties Union, 521 U.S. 844(1997).
[13] Barlow, supra note 10. 同宣言の翻訳については、ヴィリ・レードンヴィルタ(濱浦奈緒子訳)『デジタルの皇帝たち――プラットフォームが国家を超えるとき』(みすず書房、2024年)25頁を参考にした。
[14] Steven P. Tapia, “The Effect of the European General Privacy Regulation on the Global Internet” (2019) 42 Seattle U. L. Rev. 1163, 1166.
[15] とくにこの点については、平野晋「メタバースの法とガバナンス――先行研究サイバー法とデジャ・ヴ」国際情報学研究3号(2023年)147頁以下が、著者の手による過去の紹介・整理の出典情報も含め、参考になる。
[16] レードンヴィルタ・前掲注13)27頁。
[17] レードンヴィルタ・前掲注13)28-30頁。
[18] John Perry Barlow, “The best of all possible worlds” (1997) 40 Commun. ACM 68, 73.
[19] Robert Axelrod & William D. Hamilton, “The Evolution of Cooperation” (1981) 211 Science 1390. この論文では、アクセルロッドの実施した実験の結果が、進化生物学者のウィリアム・ハミルトンとの共同研究によって分析されている。
[20] こうした協力関係に関する研究のより詳細な紹介も含め、飯田高「社会規範と利他性――その発現形態について」社会科学研究67巻2号(2016年)23頁以下を参照。
[21] レードンヴィルタ・前掲注13)42-43頁。
[22] レードンヴィルタ・前掲注13)45頁。なお、「評判」を活用したデジタル空間の秩序形成の試みも、自生的な秩序形成の仕組みとしては成功しなかったことについては、同書第3章を参照。
[23] レードンヴィルタ・前掲注13)152頁。
[24] 前掲注8)を参照。また、興味深いことに、平野晋によれば、メタバースとそれを実現可能にするWeb3(ウェブスリー)の構想のもとで、再びサイバー・リバタリアニズムに近しいものが熱を帯びて主張され始めているとされる。平野・前掲注15)159頁。