「立憲主義」とは何か(2)
この連載のキーワードである「デジタル立憲主義」について、前回は憲法学の根幹にかかわる「立憲主義」という概念を、この連載のコンテクストにそって整理した。また、デジタル立憲主義が「立憲主義」というワードを用いることの妥当性に関しても検討してきた。今回は、さらに議論を進めて「近代立憲主義」の概念を主に日本の戦後憲法学における議論を参照しつつ定義づける。あるいはそれを批判的に考察することで浮上してくる、ある難問。果たして、デジタル立憲主義を論ずる意義とはどこにあるのか。(編集部)
「近代立憲主義」とは何か
第4回で確認したように、最広義の立憲主義を「その時々の支配的権力を憲法によって制限する思想」と理解すれば、デジタル立憲主義が「立憲主義」を名乗ることは妥当である。ただし、デジタル立憲主義が意図するのは、立憲的価値に基づく国家権力とテクノロジー企業の私的権力の制限である。ここでいう、立憲的価値とは何だろうか。これは最広義の立憲主義の定義から直接導かれるものではなく、近代立憲主義あるいはリベラルな立憲主義と呼ばれる特定の立憲主義の構想が関わっている。日本において、近代立憲主義とリベラルな立憲主義は互換的に使われることが多いが、ここでは「近代立憲主義」に統一する。今回は、この近代立憲主義が何かを確認しつつ、デジタル立憲主義との関係を整理することにしたい。
1789年の人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)。写真はパブリックドメイン。
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立憲主義と同じく近代立憲主義についても、憲法学者の間で厳密に定義が一致するわけではない[1]。しかし、少なくとも、近代国家が誕生し、国家が各領土で最大の権力主体となった社会構造において、国家権力を適切に制限するために発展してきた思想であるといえる。その核心部分に決定的な影響を与えたのは第4回でも引用した1789年のフランス人権宣言16条――「権利の保障が確保されず、権力の分立が確立していないすべての社会は、憲法を持たない」(写真)――である[2]。日本の憲法学における近代立憲主義の最大公約数的な整理を試みる者も、次のように整理している。
〈権利の保障+権力分立〉を旨とし、かつ、国家権力を制限して国民の権利・自由を守ることを目的とする[3]
通常は成文硬性憲法を制定することによって、一般市民の権利保障を目的とした、権力分立原理にもとづく国家権力の樹立と制限を求める思想と、この思想に基づく制度[4]
このような整理を踏まえると、近代立憲主義は、権利保障・権力分立という原理を反映した憲法による国家権力の制限(その前提としての国家権力の樹立)を行うことによって、国民の権利・自由を保護するという思想(または制度)といえる。
また、近代立憲主義において憲法が反映すべき原理としては、権利保障・権力分立に加えて、法の支配や民主主義などが言及されることがある[5]。たとえば、芦部信喜は、「近代立憲主義憲法」は、「法の支配の原理」及び「民主主義」と密接に関連するという[6] 。法の支配についても多様な意味があるが、その原型が「統治者をも縛る、すなわち統治者をも支配する法が必要であるという考え方」にあるとすれば[7]、立憲主義と法の支配が切り離せない関係にあるのは明らかであろう[8]。また、民主主義との関係は、①「国民が権力の支配から自由であるためには、国民自らが能動的に統治に参加するという民主制度を必要とする」、②「民主主義は、個人尊重の原理を基礎とするので、すべての国民の自由と平等が確保されてはじめて開花する」と説明されている[9]。
以上から、より詳細に描写すれば、近代立憲主義は、権利保障、権力分立、法の支配、民主主義などの特定の価値(以下、「立憲的価値」という)を反映した憲法によって国家権力を制限し、国民の権利・自由を保護することを主張する思想であるといえるだろう。
標準としての近代立憲主義
この近代立憲主義は、憲法学が「立憲主義」概念を扱う際の標準的な構想として考えられてきた。たとえば、南野森は近代立憲主義を「最も常識的な……立憲主義」だという[10]。また、江藤祥平は「『近代立憲主義』というものを、戦後憲法学の中核に据えて復権させた」人物として樋口陽一を挙げているが[11]、これも憲法学――少なくとも樋口以降の憲法学――の中核に近代立憲主義が置かれてきたことを裏付ける言説といえる。さらに、横大道聡は、日本での立憲主義の理解が「リベラルな立憲主義という特定の構想を指している」と述べており[12]、日本における立憲主義論の特徴を整理した栗島智明もこの点に同意している[13]。
こうした傾向は、憲法学における研究の対象にも関わっている。代表的な教科書において、「憲法の最もすぐれた特徴は、その立憲的意味にあると考えるべきである。したがって、憲法学の対象とする憲法とは、近代に至って一定の政治的理念に基づいて制定された憲法」であることが述べられており[14]、近代立憲主義の特徴を反映した憲法こそが憲法学の研究対象とされているのである。こうした態度は、「立憲主義」という言葉を正面から使うかどうかは別にして、戦後憲法学の主流であったといえるだろう。その結果、憲法学は、近代立憲主義の重要性を(少なくとも一定程度には)社会に普及させることに成功したと思われる。その一方で、多様な立憲主義に関する学術的探求が憲法学を発展させる可能性、ひいては将来の憲法的状況への対応可能性を制限する効果をもたらしたと言えなくもない。これは、日本に限られた話ではなく、グローバルな比較憲法学においても同様かもしれない。比較憲法学者のマーク・タシュネットは、「比較憲法研究の領域における立憲主義の研究」が、「リベラルな立憲主義に集中し」ていることを指摘し、より多様な立憲主義に関する研究の可能性を示唆している[15]。
前回の内容とも関連するが、デジタル立憲主義が「立憲主義」を冠することへの違和感の大部分は、立憲主義=近代立憲主義――とりわけ立憲主義=近代国家権力の制限――という強固なイメージに基づいていると思われる。筆者がデジタル立憲主義について講演会などで講師を務める際にも、〈立憲主義は国家権力の制限に関わるものであるのに、なぜ、私的権力の制限を立憲主義の観点から考えるのか〉と、よく聞かれる。この点への回答については、大きく2つの方向性があるだろう。第一が、ある種の覇権となっている近代立憲主義の概念自体を問い直そうとするものである。「社会的立憲主義」という挑戦的な立憲主義概念を分析する法哲学者の見崎史拓は、「既存の立憲主義の概念に固執し続けることによって、よりよい抑止の方法があるにも関わらず、そうした抑止へと向かう可能性を自らとしてしまっているかもしれない」と述べている(社会的立憲主義については本連載でいずれ扱う予定である)[16]。第二は、近代立憲主義の重要性を正面から認めたうえで、それ自体には手を入れず、その特徴を様々な領域で生じている新たな権力の制限に応用しようとするものである。近代立憲主義の根幹となっている立憲的価値のパラダイムを変更するのではなく、そのデジタル空間での応用を志向するデジタル立憲主義[17]は、おそらく、第二の方向性に属するものである。
近代立憲主義の価値とデジタル立憲主義
第4回の冒頭で、デジタル立憲主義を暫定的に、「急速に発展するデジタル技術を扱う私的主体が権力者となりうるデジタル空間に立憲的価値を持ち込むことを志向する新たな研究潮流」と定義したことを思い出して欲しい。ここでいう「立憲的価値」として考えられているのが、基本的権利の保障、権力分立、法の支配、民主主義という近代立憲主義が重視する立憲的価値である[18]。すなわち、デジタル立憲主義は、歴史的に最も強大であった国家権力の制限に貢献してきた立憲的価値をデジタル空間に持ち込み、デジタル技術によって強化・変容する国家権力だけでなく巨大DPF事業者に代表されるテクノロジー企業の権力も立憲的価値の下で制限すべきと主張しているのである。
以上が、現在の筆者が理解しているところでの「立憲主義」概念とデジタル立憲主義の関係性の整理である。デジタル立憲主義の思想がどのように誕生し、いかなる系譜を経て、現在はどのような議論状況にあるのかは次回以降で詳細に検討していくが、今回の最後に、あらかじめ、デジタル立憲主義が近代立憲主義の価値に依拠することに由来する留意点を指摘しておきたい。
それは、立憲主義が多義的であったように、立憲的価値の定義・解釈も多義的であることである。民主主義はかねてより、本質的に論争的な概念と言われてきたし[19]、法の支配をめぐっても法哲学上の様々なコンセプションが提示されている状況にある[20]。基本的権利の保障についても、「大きくは憲法による保障と法律による保障の二つが考えられ」る[21]。この点に関連して、横大道は、少なくともフリーダムハウス[22]が公表する「世界各国の自由度ランキング」によれば、憲法による基本権の保障型ではない、イギリス、ニュージーランド、オーストラリアが高得点をマークしており、「憲法的権利章典による人権保障は法律による権利章典による人権保障において絶対的に優れている、とはいえない」と指摘している[23]。権力分立についても、「(専制を排除する以外は)具体的な統治機構を支持する概念でない」と指摘されている[24]。
すなわち、立憲的価値もまた、それ自体で「具体的な政治制度やその特定の実現方法を指示するものではない」といえる[25]。かといって、近代立憲主義やデジタル立憲主義について考察することが、無意味であるかと言えば、そうではない。近代立憲主義は、国家権力の制限をどのように実現するかをめぐる議論に方向性を与える。その方向性は、差し当たり、①支配的権力は制限されるべきである、②支配的権力の制限に「憲法」を用いるべきである、③その「憲法」は立憲的価値を反映すべきである、④「憲法」に反映された立憲的価値を個別具体的な場面でいかに具体化するかを議論すべきである、といったものだといえよう。同じことが、デジタル立憲主義についてもいえる[26]。つまり、デジタル立憲主義は、デジタル空間を立憲化(立憲的価値に適合的なデジタル空間の実現)するために、何を議論すべきなのかを指し示そうとしている。「立憲主義」は直ちに結論を導く概念ではなく、議論の方向性を示す概念なのである。そして、そのことにこそ重要な意義がある。
第2回・3回で確認したように、デジタル空間の問題は、サイバー・リバタリアニズム的方向性で議論すべきという立場がある。また、近時、デジタル権威主義[27]と呼ばれる立場も台頭してきている。デジタル立憲主義は、こうした立場よりも、立憲的価値に基づいてデジタル空間の問題を議論すべきことを説得的に主張しなければならないだろう。
では、デジタル立憲主義はより具体的にはどのような議論の方向性を示そうとしているのか。次回以降、この点に踏み込んでいくことにしたい。
◆第5回 終わり
※11月の配信はお休みを頂き、第6回配信は12月中旬頃を予定しております。(編集部)
[1] たとえば、近代立憲主義における公私区分の重要性を強調する見解がある。この代表的な論者である長谷部恭男は、近代立憲主義は、「私的・社会的領域と公的・政治的領域との区別を前提として、個人の自由な活動と公共的な政治の審議・決定とを両立させようとする考え方と密接に結びつく」と述べる。「立憲主義」大石眞=石川健治編『憲法の争点』(有斐閣、2008年)6頁。これは、「私的な生活領域では、各自がそれぞれの信奉する価値観・世界観に沿って生きる自由が保障される」が、「公的な領域では、そうした考え方の違いにかかわらず、社会のすべてのメンバーに共通する利益を発見し、それを実現する方途を冷静に話し合い、決定すること」が必要になる、ということを意味する。『憲法とは何か』(岩波新書、2006年)10頁。
[2] フランス人権宣言は「世界を一周した」と言われるほどに多くの国に影響を与えたとされている。辻村みよ子『憲法〔第7版〕』(日本評論社、2021年)13頁。
[3] 栗島智明「現代日本型立憲主義に関する一考察――近時の日本における立憲主義論の興隆とその原因」山元一編『講座 立憲主義と憲法学 第1巻 憲法の基礎理論』(信山社、2022年)74頁。
[4] 赤坂正浩「日本の立憲主義とその課題――ドイツとの比較の視点から」公法研究80号(2018年)52頁。
[5] このほか、国民主権原理をあげるものも多い。辻村・前掲注2)339頁(「……国民主権・人権保障・権力分立の三つが近代立憲主義憲法の基本的な三要素として確立された」)。もっとも、国民主権を必須の要素として挙げないものも多く、工藤達朗が指摘するように、「何が立憲主義の構成要素であり、その中の何が立憲主義のコアというべきものなのか、学説の一致は見られない」。「立憲主義の概念と歴史」中央ロー・ジャーナル16巻3号(2019年)95頁。本稿が想定する権利保障、権力分立、法の支配、民主主義という4つの原理・価値も一応の目安に留まる。
[6] 芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法〔第8版〕』(岩波書店、2023年)13, 17頁。
[7] 渋谷秀樹『憲法〔第3版〕』(有斐閣、2017年)43頁。
[8] 法哲学者の井上達夫は「『法の支配』という一般的理念を、立憲民主国家の実定憲法体制に具現して発展させるのが立憲主義の企てである」との理解を示している。この立場は突き詰めれば、立憲主義の淵源に法の支配があるとの整理になるだろう。『立憲主義という企て』(東京大学出版会、2019年)ⅴⅰ頁。また、法の支配と近代立憲主義を区別し、法の支配を「正しい内容の法」の支配と理解すべきではないとするものとして、長谷部恭男「法の支配が意味しないこと」同『比較不能な価値の迷路――リベラル・デモクラシーの憲法理論〔増補新装版〕』(東京大学出版会、2018年)149頁も参照。
[9] 芦部・前掲注6)17頁。
[10] 南野森「立憲主義」同編『憲法学の世界』(日本評論社、2013年)4頁。
[11] 江藤祥平「『理論憲法学』の復興――樋口陽一と立憲主義の復権」鈴木敦=出口雄一編『「戦後憲法学」の群像』(弘文堂、2021年)198頁。
[12] 横大道聡=吉田俊弘『憲法のリテラシー――問いから始める15のレッスン』(有斐閣、2022年)12頁〔横大道〕。
[13] 栗島・前掲注3)70-73頁。
[14] 芦部・前掲注6)5頁。
[15] Mark Tushnet, “Editorial: Varieties of Constitutionalism” (2016) 14 Int’l J. Const. L. 1.
[16] 見崎史拓「憲法的機能は国家のみに見出せるのか?(1)」名古屋大学法政論集281号(2019年)115頁。
[17] こうした方向性を示唆すものとして、Edoardo Celeste, Digital Constitutionalism (Routledge, 2022) at 87. ただし、デジタル立憲主義の構想は、現時点で固まっているものではなく、第一の方向性に向かう研究が登場し、影響力を持つ可能性もある。
[18] ただし、デジタル立憲主義に関する研究が依拠する近代的価値が、基本的権利の保障及び法の支配に偏っており、とりわけ民主主義の価値への着目が手薄だとの分析もある。陳冠瑋「EUのデジタル立憲主義の発展と課題」EU法研究17号(2025年)68-70頁。
[19] 山本圭『現代民主主義――指導者論から熟議、ポピュリズムまで』(中公新書、2021年)。
[20] 深田三徳『〈法の支配と立憲主義〉とは何か――法哲学・法思想から考える』(日本評論社、2021年)2頁。
[21] 栗島・前掲注3)74頁。
[22] フリーダムハウスは、1941年に設置されたアメリカ合衆国の非政府組織(NGO)であり、世界各国の自由度を調査・分析し、啓蒙活動や政策提言を行っている。https://freedomhouse.org/about-us
[23] 吉田=横大道・前掲注12)186頁(横大道)。
[24] 栗島・前掲注3)74頁。
[25] 吉田=横大道・前掲注12)14頁(横大道)。
[26] もっとも、近代立憲主義が想定する「憲法」が通常は硬性成文の憲法典であるのに対して、デジタル立憲主義が想定する「憲法」はより広く、機能的な意味での憲法であるといえる。前回も簡単に言及したが、この点は次回以降に詳述する。
[27] デジタル権威主義については、大澤傑編『デジタル権威主義』(芙蓉書房出版、2024年)が詳しい。この立場についても、本連載でいずれ扱うことにする。