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デジタル社会は立憲主義の夢を見るか?

「立憲主義」とは何か(1)

前回まで「デジタル立憲主義」を理解する上で、踏まえておきたい諸理論とその具体的な政策について概観してきた。そして、いよいよ本連載のキー概念となる「デジタル立憲主義」の議論に入っていく。まずは、憲法学の最重要概念の一つとも言える「立憲主義」。この言葉に憲法学者らは、どのような意味を込めようとしてきたのだろうか。と同時に「デジタル立憲主義」に「立憲主義」というタームを用いることの妥当性について考える。(編集部)

立憲主義のイメージ?

 第2回と第3回では、デジタル社会の規範理論である、サイバー・リバタリアニズム、デジタル自由主義を紹介しながら、この連載の主題である「デジタル立憲主義」が登場する背景を見てきた。では、改めてデジタル立憲主義とはどのような構想か。ここでは、暫定的に、「急速に発展するデジタル技術を扱う私的主体が権力者となりうるデジタル空間に立憲的価値を持ち込むことを志向する新たな研究潮流」と考えておこう[1]

 デジタル立憲主義の構想について立ち入った考察を行う前に、今回と次回では「立憲主義」、「立憲的価値」、「憲法」といった概念について整理・確認しておくことにしたい。デジタル立憲主義が、なぜ「立憲主義」という用語を用いるのか、その狙いはどこにあるのかを理解するために、こうした基本的な概念について理解しておくことが有益だからである。

* * * 

 まずは、「立憲主義」の概念から確認することにしよう。立憲主義は、英語のconstitutionalismの翻訳である。これは、ここでは「憲法」を意味するconstitutionに、接尾辞の「-ism」が加えられたものである。-ismは特定の理論や思想、特性を表すために使われることが多く、日本語に訳される場合は「主義」とされることが多い。語の構成から率直に考えると、立憲主義=constitutionalismは、憲法に関する理論や思想についての概念ということになるだろう[2]。そのために、立憲主義は憲法学における重要概念――時として最重要の概念――として扱われてきた。

 しかし、日本の憲法学において、立憲主義の厳密な意味での共通理解があるかは疑わしい。たとえば、憲法学者の工藤達朗は、日本の憲法学の主要テキストを検討したうえで、「結局、何が立憲主義であるか判然としないままである」と指摘している[3]。その定義をめぐって論争が収束しない概念のことを「本質的に論争的な概念」と言うことがあるが[4]、立憲主義もその一つであるかもしれない。そのため、日本における立憲主義の共通理解を確認する作業はそれ自体が学術的な研究課題となっている。ここでその本格的な検討を行うことは本連載の趣旨とは異なるが[5]、立憲主義概念に対するイメージがなければ、デジタル「立憲主義」の意義や狙いを上手く捉えることは難しい。そこで、以下では暫定的なものに留まるが、デジタル立憲主義を意識しながら、立憲主義概念の紹介・整理を試みることにしたい。

(最)広義の立憲主義

 立憲主義の多義性は多くの論者が認めている。たとえば、憲法学者の南野森は、「法学の主要な概念と同様に、『立憲主義』の概念もまた、論者により、そして文脈に応じて、さまざまな意味で用いられることがあり、つまり多義的な概念である」と指摘している[6]

 憲法学が教科書などで立憲主義の概念を説明するとき、まずは広義の定義から始めることが多い。デジタル立憲主義が、なぜ「立憲主義」というのかを理解するうえでは、この広義の定義をどのように定義するかが重要である。

 しかし、広義の立憲主義の定義も一致をみないことが指摘されている。憲法学者の横大道聡は、いくつかの主要な広義の立憲主義の定義――「立憲主義とは、国の統治が憲法に従って行われねばならないという考え」[7]、「憲法によって公権力を拘束しなければならないとする思想」[8]、「政治権力を制限し、正義を実現しようとする思想〔と、かかる思想に基づいた政治のあり方〕」[9]、「政治権力あるいは国家権力を制限する思想あるいは仕組み」[10]――を確認したうえで、次のように指摘している。

①制限される対象が「国家」ないし「国家権力」に限定されるか否か、②何によってそれを制限するかについて「憲法」を挙げるか否か、③制限する目的(正義の実現など)を定義に含めるか否か、④「思想」にとどまるのか「制度」も含むのか、において違いがあることがわかる[11]

 ここで挙げられているすべての選択肢の重なり合う部分を取り出せば、(真の意味での)最広義の立憲主義は、単に「権力を制限する思想」になりそうである。

 最広義の立憲主義が「権力を制限する思想」であるなら、デジタル立憲主義が「立憲主義」を用いている理由を説明するのは簡単である。デジタル立憲主義は、デジタル空間における国家権力とそれに匹敵する私的権力――現在の状況下では巨大DPF事業者に代表される――を制限する思想といえるからである。

立憲主義と憲法

  しかし、最広義の定義とはいえ、立憲主義の定義を「権力を制限する思想」とするには違和感がある。南野森は、「権力制限の思想を過大に包摂し、かつ『憲法』(およびそれが前提とする近代国家)」を前提としないものを立憲主義に含めることはミス・リーディングな用語法であるという[12]。また、グローバルな比較憲法学の領域では、立憲主義は、「憲法とは何か、または憲法とはどうあるべきかを定義づける一連の考え方」と定義される[13]。立憲主義の語源からしても、その定義に「憲法」を含まない、単なる権力制限の思想をあえて「立憲主義」と定義することに意味はないように思われる。

 そうだとすれば、最広義の立憲主義は、「権力を憲法によって制限する思想」と修正する必要がある。このように理解する場合、次に問題となるのは、そこでいう「憲法」とは何か、である。

「憲法」とは何か

 「憲法」の概念について、日本の憲法学は、形式的意味の憲法と実質的意味の憲法を区別してきた。形式的意味の憲法とは、「憲法という名前で呼ばれる成文の法典(憲法典)を意味する」とされる[14]。日本であれば「日本国憲法」、アメリカ合衆国であれば「アメリカ合衆国憲法」、ドイツであれば「ドイツ連邦共和国基本法」が形式的意味の憲法である。これに対して、実質的意味の憲法は、「国家の根本秩序についてのすべて」[15]、「実質的な国家の基本法のすべて」[16]、「どのような形式で存在しているかを問わず、国家の構成・組織・構造に関する規範を意味する」[17]などと説明される。つまり、「国家」に関する基本的な事項を規律する規範の総体が実質的意味の憲法であるとされている。この意味での「憲法」には、形式的意味の憲法(憲法典)だけでなく、憲法判例[18]、憲法付属法[19]、条約、条理等[20]が含まれる。

 こうした傾向は日本の憲法学にのみ見られるわけではない。横大道聡が紹介するところによれば、近年の比較憲法学において、「憲法典それ自体を指す『大文字(固有名詞)の憲法(large-C constitution)』と、成文憲法典のみならず、不文法、慣習等から成る、実際に国家または政治共同体の権限の所在や内容、その制限について規律する規範を指す『小文字(一般名詞)の憲法(small-c constitutions)』」との区別などが導入されている[21]

 このように、「憲法」の概念は憲法典に限定されるわけではないが、実質的意味の憲法も「小文字の憲法」も、「国家」と結びつく形で「憲法」の概念を形成していることは重要である。

 それでは、デジタル立憲主義が、とくに私的権力の制限を主張する場合、「憲法」の概念をどのように捉えているのだろうか。これまでの整理からもわかるように、「憲法」による権力制限を志向していないのであれば、そもそも「立憲主義」を用いること自体がミスリードのように思われる。この点について、デジタル立憲主義者は、「憲法」の概念を機能的に捉えることで応答しているが(機能的意味の憲法)[22]、その詳細は次々回(第6回)頃に改めて扱うことにしよう。

立憲主義と国家

 「憲法」の概念が国家と結びつくと考えられてきたことからすれば、最広義の立憲主義においても、権力制限の対象は「国家」に限定すべき、ということになるかもしれない。このように捉えた場合、私的権力の制限も主張するデジタル立憲主義は、仮に「機能的意味の憲法」を用いた権力制限の思想であると説明可能だとしても、「立憲主義」ではなく、新たな別の思想的潮流と整理した方が良いかもしれない[23]

 その可能性も留保しておきたいが、立憲主義が国家のみを制限対象とすることについては、有力な異論もある。憲法学者の井上武史は、「立憲主義を考えるにあたっては、制限されるべき権力として、公権力だけでなく社会的権力をも視野に入れる必要がある」という[24]。彼が着目するのは、立憲主義の思想を典型的に表すものとして、あまりにも有名な1789年のフランス人権宣言16条である。

権利の保障が確保されず、権力の分立が確立していないすべての社会は、憲法を持たない(下線筆者)

 井上は、「すべての国家」ではなく、「すべての社会」と規定されていることは、「権利保障が公権力(pouvoirs publics)からだけでなく、社会的権力(puissances sociales)からも確保されるべきことを意味するとともに、憲法の対象が公権力に限定されず、社会的権力も含むことを示している」という[25]。なお、ここで想定される社会的権力は、あらゆる社会的権力ではなく、当該社会に対して強大な影響力を有する社会的権力であるといえる[26]。一般的には、宗教団体や政党、メディアなどを指す。

 また、憲法学者の山本龍彦は、近代以前、中世のカトリック教会――教会権力――が、世俗権力(国家権力)に匹敵する力を持っていた時代の憲法論から、現代の問題状況――すなわち、プラットフォーム権力が国家権力に匹敵する力を持つ時代――を適切に扱うための「憲法論」の示唆を得ようとしている[27]。山本によれば、この時代の憲法論にとっての課題は、世俗権力と教会権力という二つの権力の正統性と均衡の在り方であった。この分析においても、同時代において強大な力を有する社会的権力――教会権力は社会的権力の一種である――の統制が、憲法論の対象になりうることが示されている。

 このような主張を踏まえれば、最広義の立憲主義による権力制限の対象を「国家」に限定する必要はないと思われる。ただし、あらゆる権力が対象となるわけではないとすれば、最広義の立憲主義の定義は、さらに微修正され、「その時々の支配的権力を憲法によって制限する思想」と解するのが妥当であろう。

* * *

 以上のような整理に基づき、最広義の立憲主義が「その時々の支配的権力を憲法によって制限する思想」と理解するならば、現代の支配的権力である国家権力と私的権力――DPF事業者に代表されるテクノロジー企業の権力――の「機能的意味の憲法」による制限を主張するデジタル立憲主義が「立憲主義」を用いることは妥当だといえるだろう(「憲法」の理解の妥当性については回を改めて検討する)。

 しかし、これで、デジタル立憲主義が「立憲主義」を用いることを説明し尽くせたわけではない。デジタル立憲主義は、デジタル空間に、「立憲的価値」を持ち込むことを主張している。ここでの「立憲的価値」は、いわゆる「近代立憲主義」ないし「リベラルな立憲主義」と呼ばれる立憲主義の特定の構想[28]と深く関係している。そこで、次回はこの「近代立憲主義」とデジタル立憲主義の関係について扱うことにしたい。

 ◆第4回 終わり


[1] 山本健人「デジタル立憲主義と憲法学」情報法制研究13号(2023年)56頁。

[2] Constitutionalismを「憲法主義」と翻訳することは、より語義に沿った提案のようにも思われるが(南野森「立憲主義」同編『憲法学の世界』(日本評論社、2013年)4頁、日本においては「立憲主義」が定着しているため、本稿でも「立憲主義」という。

[3] 工藤達朗「立憲主義の概念と歴史」中央ロー・ジャーナル16巻3号(2019年)99頁。

[4] See, W. B. Gallie, “Essentially Contested Concepts” (1955) 56 Proceedings of the Aristotelian Society 167.

[5] 立憲主義概念の整理を試みる先行研究として、愛敬浩二『立憲主義の復権と憲法理論』(日本評論社、2012年)、工藤・前掲注3)、南野・前掲注2)、横大道・後掲注11)、吉田=横大道・後掲注17)、栗島智明「現代日本型立憲主義に関する一考察――近時の日本における立憲主義論の興隆とその原因」山元一編『講座 立憲主義と憲法学 第1巻 憲法の基礎理論』(信山社、2022年)などがある。また、筆者自身によるより詳細な整理・検討は、拙稿「なぜ、デジタル『立憲主義』か」法の理論44号(2026年刊行予定)を参照。

[6] 南野・前掲注2)4頁。

[7] 高橋和之『立憲主義と日本国憲法〔第5版〕』(有斐閣、2020年)19頁。

[8] 蟻川恒正「立憲主義のゲーム」ジュリスト1289号(2005年)74頁。

[9] 南野・前掲注2)4頁。

[10] 長谷部恭男「立憲主義」大石眞=石川健治『憲法の争点』(有斐閣、2008年)6頁。

[11] 横大道聡「グローバル立憲主義?」同ほか編『グローバル化のなかで考える憲法』(弘文堂、2021年)4頁。

[12] 南野・前掲注2)4頁。

[13] Robert Schütze, “Constitutionalism(s)”, in Roger Masterman & Robert Schütze, ed. The Cambridge Companion to Comparative Constitutional Law (Cambridge University Press, 2019) 40.

[14] 芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法〔第8版〕』(岩波書店、2023年)4頁。

[15] 長谷部恭男『憲法〔第8版〕』(新世社、2022年)3頁。

[16] 松井茂記『日本国憲法 第4版』(有斐閣、2022年)9頁。

[17] 横大道聡=吉田俊弘『憲法のリテラシー――問いから始める15のレッスン』(有斐閣、2022年)9頁〔横大道〕。

[18] 「最高裁が具体的事件において示した憲法解釈」を指す。大石眞は、下級審の憲法解釈は、「統一的な法秩序や憲法上の規律を維持しえない」ため、「最高裁の判断」のみが対象であるとする。「憲法の法源」大石=石川『憲法の争点』・前掲注10)8-9頁。

[19] 「通常の議会制定法で定められた国政上の規範でありながら、実質的意味の憲法に属する規範を含むもの又はそれを含む議会制定法」を指す。大石・同上。

[20] ここでの条理は、国政の運用に関する不文の規範であって、法の一般原則から導かれるものを指す。また、各国の形式的意味の憲法(憲法典)の構造(憲法のアーキテクチャ)などから引き出される「不文の憲法原理」もまたある種の条理として位置づけられうる。ヤニブ・ロズナイ(山元一=横大道聡監訳『憲法改正が「違憲」になるとき』(弘文堂、2021年)、手塚崇聡「不文の憲法原理と憲法構造的解釈の意義――カナダ最高裁における実践とその分析」千葉大学法学論集38巻1・2号(2023年)330頁以下などを参照。なお、「一定の行為が長期にわたって反覆持続され、そこに明確な規範意識が発生し、国家がその規範を強要するもの」を指して、「慣習憲法」、「憲法的習律」などと呼ぶ場合もある。佐藤幸治『日本国憲法論〔第2版〕』(成文堂、2020年)39頁。

[21] 横大道=吉田・前掲注17)6頁〔横大道〕。

[22] Edoardo Celeste, Digital Constitutionalism: The Role of Internet Bills of Rights (Routledge, 2022) 37.

[23] この点、陳冠瑋は、「『デジタル立憲主義』という用語が用いられる際、それが果たして伝統的な憲政主義の概念の延長線上にあるのか、それとも全く新たな規範的枠組みとして構想されるべきなのかという問いが生じる」と指摘している。「EUのデジタル立憲主義の発展と課題」EU法研究17号(2025年)67頁。

[24] 井上武史「日本国憲法と立憲主義――何を考えるべきか」法律時報86巻5号(2014年)13頁。

[25] 同上。

[26] 同上・14頁。

[27] 山本龍彦「デジタル化と憲法(学)」自治研究99巻4号(2023年)3頁以下。この議論は、直接立憲主義を論じるものではないが、山本は、この議論を踏まえることで、デジタル立憲主義の近年の興隆を「正しく理解すること」ができると整理しているため(8頁)、このような文脈で参照しても問題ないと思われる。なお、法哲学者の大屋雄裕も、DPFを中世のカトリック教会に類似した主体と位置づけている。大屋雄裕「電子化された社会とその規制」渡部明ほか『情報とメディアの倫理』(ナカニシヤ出版、2008年)55頁。

[28] 吉田=横大道・前掲注17)12頁〔横大道〕。

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著者略歴

  1. 山本 健人(やまもと・けんと)

    現職:北九州市立大学法学部准教授/慶應義塾大学KGRI訪問准教授/東京大学みらいビジョン研究センター客員研究員
    慶應義塾大学大学院 法学研究科 公法学専攻後期博士課程単位取得退学、博士(法学)。
    主な著書に、『承認と対話の憲法理論―法の下の宗教的多様性』(ナカニシヤ書店、2025年)共著として石塚壮太郎編『プラットフォームと権力―How to tame the Monsters』所収「デジタル立憲主義―怪獣たちを飼いならす」(慶應義塾大学出版会、2024年)など。また主な論文に「デジタル立憲主義と憲法学」(情報法制研究、2023年)、「デジタル立憲主義と情報空間の立憲化」(法律時報、2024年)、「デジタル技術による政治的コミュニケーションの変容と憲法―カナダにおける多面的アプローチ」(比較憲法学、2024年)など。

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