映像の力
前回は場所を訪れることの意義についてお話しました。それをとりまく言説に注意を払いながら実際にその場に立つことは、読んで得た知識を一気に自分の体験や感情に結びつけ、問題への探究を一層深めてくれます。しかしその場を訪れることができないときには、映像の力を借りるのもまた学習効果を高めるための一案となります。今回は生徒たちが「科学者としての私たちの倫理的責任とは何か」を考えるにあたって、教室での学習にどのように映像を取り入れたかについて考えてみたいと思います。
核燃料サイクルと先住民のエコロジカル・アイデンティティ
2024年の春学期、シカゴの公立学校であるナショナル・ティーチャーズ・アカデミー(NTA、この学校の詳細については連載第4回を参照)の生徒たちは核燃料サイクルがもたらす影響について学んでいました。原子力エネルギーを作り、使うためには、ウランの採掘から始まり、精錬、燃料加工、原子炉での使用、使用済み燃料の貯蔵、そして最終処分にいたるまでさまざまな段階があります。そしてこれらの段階の間には、度重なる輸送があることも忘れてはいけません。こうしたすべての段階において、水・空気・土壌の汚染、植物の破壊、人間の食用とされたり神聖な儀礼に用いられたりする動物の病気や死など、人と環境に甚大な影響がもたらされています。そしてその被害は、特定の人種が多く暮らす地域や、経済的に不利な地域に集中するという、不公平な現象を生んでいるのです。この学びにおいて、文章を読むことに加えて、映像を見ることがとても大きな意味を持ちました。
原子力産業の甚大な生態学的被害を理解するために、生徒たちはまず自分たちの「エコロジカル・アイデンティティ」について見つめ直しました。エコロジカル・アイデンティティとは、自分が属する場所の感覚、地球との関係、そして環境を観察する中で生まれる感情や好奇心、畏敬の念への感受性をさします。校庭に出て周りの自然を観察し、スケッチをしたり、ノートを書いたりしながら、なぜ都会の若者、特にシカゴ南部・西部に住む黒人や中南米にルーツを持つ若者が、緑地に十分アクセスできないのか、なぜ「自然」がこれほど遠く切り離されたものに感じられるのかを問い直しました。
それから、生徒たちは先住民(ポタワトミ族)の植物学者ロビン・ウォール・キマラーによる『植物と叡智の守り人』の文章を読み、先住民の科学や知識形成について学ぶだけでなく、互恵性、感謝、そして地球と「正しい関係」を結ぶことの意味についても深く考えました。その後、ある生徒はエコロジカル・アイデンティティを「自然や環境を心から愛し、大切に思うこと」と定義しました。また別の学生は倫理的責任と結びつけて、「エコロジカル・アイデンティティとは、地球をより良く変えるために私たちが主体性を持って関与できるということだ。変化を起こす緊急性が欠けていれば、地球は無力なまま取り残されてしまう」と述べました。
エコロジカル・アイデンティティという考え方を媒介にして、生徒たちはシカゴという都会に住む自分の体験から、核燃料サイクルで特に大きな被害を受けている先住民の体験を想像したのです。これにより、生徒たちは、なぜアメリカ南西部のディネ(ナバホ族)の人々がウランを「黄色い怪物」「悪魔の鉱物」と呼ぶのかを実感しました。核産業による搾取にもかかわらず、先住民のエコロジカル・アインデンティティ(自然と結びついた人間の存在のありかた)が、損なわれていないからこそ、ウランは単なる鉱物や危険物ではなく、生態系と人間の関係そのものを破壊する存在であるという認識になるのです。
こうして、自分たちの生活とは全く違う、遠く離れたディネの人々の体験を想像し理解しようとする中で、『デーモン・ミネラル(悪魔の鉱物)』というドキュメンタリーがとても大きな手助けになってくれました。
『デーモン・ミネラル』(“Demon Mineral”, 2023, ハドリー・オースティン監督)
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映画『デーモン・ミネラル』
『デーモン・ミネラル』は、ウラン採掘により汚染されたアメリカ南西部の砂漠に暮らすディネ族の営みと1970年代から現在に至るまでの闘いを描いたドキュメンタリーです。映画は風に揺れる木々と、その近くに古代遺跡のように佇むウラン採掘施設のコンクリート構造物の白黒映像で始まります。ディネの活動家テラシタ・キヤナはその風景の中を歩きながら、「考えてみると、昔ここで遊んでいたなんて信じられない」と語ります。彼女が石を拾って穴に落としたときに生じる、ウランのパチパチという静電気のような音に、生徒たちは強く引き込まれました。そして、その地域が汚染されていると誰にも知らされていなかったことにショックを受けました。
この映画は直線的に物語が進むドキュメンタリーではありません。そのため、生徒たちは視聴しながら、私たちのテーマと結びつく印象的な映像や映画的技法がでてくるごとにノートをとりました。感情に訴えるような旋律的な音楽の代わりに、静電音のような音響や花火のような視覚効果が映画全編を通して織り込まれており、ウランが超新星によって生成されたものであること、そして「この世のものではない」異様なエネルギーは地中に留めておくべきであることに気づかせてくれます。
2024年4月にはハドリー・オースティン監督を教室に迎えて、お話を聞くことができました。映画の中で、ディネのアーティストで活動家のエマ・ロビンズが、山の地下層のモデルを見ながら、地下水が何千年もの間、トウモロコシ栽培や果樹園、家畜の維持、生活の営みに使われてきたことを語るシーンがあります。エマは「“不毛の地”などというものは存在しないのです。それは、19世紀後半にこの地を訪れた政府調査官が公式文書にそう記した言葉にすぎません。本当は、人間の目に見える以上のものがここにはあるのです」と語ります。特にこのシーンについて、生徒たちは監督と議論を深めました。ある生徒は「科学者や産業は、肥沃で生命に満ちた土地を“不毛の地”と呼んで、それを“サクリファイス・ゾーン(犠牲区域)”にした。それはお金のためであり、彼らにエコロジカル・アイデンティティがなかったからだ」と述べました。

ハドリー・オースティン監督との授業
生徒たちはまた、神聖な家畜である羊がウランの汚染によって黄色く変色し、食料や儀礼に使えなくなったことに怒り、悲しんでいました。先住民は、時として、そんなにも汚染された土地になぜとどまりつづけるのか、と問われることがあります。しかし、オースティン監督のお話を聞いて、そう問われること自体が不条理だということに生徒たちは気づきました。それは土地が神聖であるという理解を欠いた発想であり、「お金と権力を持つ人々のために手放すべきただの場所」と見なす態度なのです。
『アトミック・バンブーズル』(“Atomic Bamboozle”, 2023, ジャン・ハーケン監督)
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映画『アトミック・バンブーズル』
環境的不正義について教えるときに重要なのは、これまでや今も続いている抵抗の例から学びながら、教室の中で問題を理解した上で希望を育むことです。その意味でとても重要だったのが、この学びにおいて試聴したもう一つのドキュメンタリー、『アトミック・バンブーズル(核のまやかし)』でした。
『アトミック・バンブーズル』は、原子力発電への反対運動、特に原子力ルネッサンスと呼ばれる最近の新たな原発推進政策への抵抗を取り上げています。バンブーズル(Bamboozle)とは、「だます、ごまかす」といった意味で、その題名の通り、ドキュメンタリーは原子力発電の歴史における情報の不透明性や隠蔽体質、被害を受けた人々への不誠実さを浮き彫りにしています。映画はコロンビア川流域を舞台に、オレゴン州トロージャン原発を閉鎖に追い込んだ反原発運動にたずさわった人々の証言、長崎に投下された原爆のプルトニウムを製造した場所でもあるワシントン州ハンフォード・サイトの汚染、そしてそうした核開発が先住民コミュニティに与えてきた被害について語られます。原子力産業が繰り返し用いてきた主要な論点(コスト、安全性(事故)、核廃棄物、核拡散)は、「小型モジュール炉」(Small Modular Reactors, SMR)という「新型」の原子炉が登場しても、本質的に解決されてはいないのです。
5月にジャン・ハーケン監督がZoomでクラスに参加してくれることになり、ローラの生徒たちはオンラインのディスカッションをより有意義なものにするために準備をしていました。ちょうどこの学期 (2025年1〜5月)、TEAACHメンバーの小嶋亜維子も、シカゴ美術館付属美術大学(SAIC)で「核の問題と社会 (Nuclear Problems and Society)」という授業を教えていました。そこでZoomの利点を活かして、SAICの大学生たちもディスカッションに参加しようということになりました。大学生たちはまずNTAを訪れ、ローラが準備した『アトミック・バンブーズル』の視聴用のキーポイントや質問をまとめるためのワークシートを使って、中学生と一緒に準備をしました。
NTAの中学生とのコラボレーションを終えた直後、まずSAICの大学生たちの口をついて出た感想は “They are SO smart!!” (あの子たち、すごく頭いい!)でした。中学生たちが、いかに深い知識と理解に基づいて問題を批判的に考察する力を持っているかに、率直に驚いたのです。Z世代と呼ばれる彼らの世代、とりわけリベラルな政治意識を持つ大学生たちは、気候変動に対する強い危機感を抱えています。CO2排出を削減しなければならないという、それ自体は極めてまっとうな課題を背景に、原子力ルネッサンスは、「火力発電に代わる選択肢として原子力発電を推進すべきだ」という主張の根拠を築いてきました。そしてこの世代には、リベラルであればあるほど、その主張に真面目に説得されてきた傾向が見られます。同じくZ世代であっても少し若いローラの生徒たちは、そうした刷り込みにさらされる前であったということもあるかもしれません。中学生が大学生と対等に、あるいはリードする形で、とても有意義なコラボレーションを行うことができました。
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『アトミック・バンブーズル』についてディスカッションするNTAの中学生とSAICの大学生
コラボレーションを通じて出てきたディスカッションのポイントや質問をローラが整理し、その内容をもとに、映画監督ジャン・ハーケンとのZoomセッションが行われました。ハーケン監督が特に強調したのは、この映画における「社会的記憶(social memory)」の役割でした。それは、若い世代が反核活動家たちの経験や語りから学ぶことの重要性だけを指しているのではありません。コロンビア川流域に住むヤカマ族が川と結んできた深い生態学的つながりそのものが、抵抗運動を支える大きな力となってきたのです。この「社会的記憶」という考え方は、先述したエコロジカル・アイデンティティというテーマとも深く結びついていました。さらにこの映画は、生徒たちが「どのように科学的知識を用いて政策を批判的に検討し、企業のプロパガンダに抗うことができるのか」「生態学者・環境科学者として、放射性降下物や核廃棄物が生態系に与える影響をどのように社会に伝えていくべきなのか」といった問いを考える重要なきっかけとなりました。
ドキュメンタリーの視点を見極める
このように、映像は、実際に訪れることが難しい場所について視覚的・聴覚的に理解する手助けとなるだけでなく、過去に起きた出来事を目撃や追体験に近いかたちで感じることを可能にしてくれます。つまり、時空間を超えて多面的に情報を得る手段となるのです。
核の歴史に関わる場所には、現在も汚染が残り立ち入りが制限されている地域が少なくありません。また、先住民の居住区である自治区は、彼らの生活空間として尊重されるべきであり、単なる好奇心で「少し見に行く」ということが適切ではない場合もあります。そうしたなかで、たとえば放射能汚染によって真っ黄色になった羊の肉の視覚的衝撃や、それについて語る人の声がもつ切実さは、映像だからこそ伝えられるものです。文字だけでは得ることのできないインパクトが、そこにはあります。
しかし、映像には強いインパクトがあるからこそ、注意する必要があります。前回、実際に場所を訪れることの重要性と同時に、その場所をめぐる言説や表象、語られていないこと、残されていないものにも目を向ける必要があるとお話しましたが、映像についても同じことが言えます。ドキュメンタリーは現実を素材とした映像であるため、「客観的な事実」を映しているような印象を与えます。しかし、何が画面に映し出され、何が映し出されないのか、また、それがどのような語りや構成の中で提示されるのかによって、同じ現実をもとにしていても、視聴者が受け取るメッセージは大きく変わります。
ここで考えたいのが、「ドキュメンタリー」と「プロパガンダ」の違いです。プロパガンダとは、政治的・社会的な意図をもって、人々の意見や行動を特定の方向へ導こうとする情報発信を指します。たとえば、SAICの大学生たちが当初、「気候変動対策のためには原子力ルネッサンスが必要だ」と考えていた背景には、高校時代に見たパンフレットや啓発ビデオの影響がありました。それらは、原子力産業が原子力推進という目的のもとに制作したものであり、プロパガンダ的な性格を持っていたと言えるでしょう。
では、『デーモン・ミネラル』や『アトミック・バンブーズル』はどうでしょうか。これらの作品は、原子力産業の問題や、原子力発電による被害を受けた人々に焦点を当てています。そのため、視聴者が原子力発電に懐疑的になったり、反対するきっかけになったりする可能性があります。つまり、「中立的」ではありません。しかし、中立的でないことは、すぐにプロパガンダを意味するのでしょうか。
ドキュメンタリーには、たとえ現実の素材を用いていても、何を映すのか、誰に話を聞くのか、それをどのように編集するのかという、監督の視点が必ず存在します。そうした意味で、ドキュメンタリーとプロパガンダの境界は曖昧で、明確に線を引くことは簡単ではありません。しかし、誰の視点から物事が捉えられているのか、映像の内容にどれほど証拠としての信頼性があるのか、また、現実を単純化せず、その複雑さや矛盾にも開かれているのかを検討することは重要です。そして最終的には、その視点のあり方を踏まえたうえで、自分自身はどう考えるのかを問い直していくことが求められます。
つまり、ドキュメンタリーとは、「客観的」「中立的」な無機質の記録ではなく、ある視点から現実を解釈し、それについて視聴者に考えさせる表現でもあるのです。それぞれの立場がどのような前提や視点に立っているのかを意識することは、大きな力を持つ語り( 「原発は安全でエコ」)と、それに抗する語り(「放射性物質は危険」)を、「中立」の名のもとに単に並べるだけでは不十分だということに気づかせてくれます。両論を併記するだけでは公平ではないということ、語りがそもそも置かれている構造的な力関係を理解することで、より批判的な思考を深めていくことができるのではないでしょうか。
小嶋亜維子(主筆・翻訳)、ローラ・グラックマン(副筆)