明石書店のwebマガジン

MENU

アメリカの中学生と核について考えてみた

場所の力

前回は「語りの力」と題して、ゲストの方から直接お話を聞くこと、その教育的効果についてお話しました。今回は「場所の力」として、場所が持つ歴史を学び、実際に訪れることの意義について考えてみたいと思います。シカゴはマンハッタン計画に大きく貢献した持続的核連鎖反応の実験が初めて「成功」した場所でもあります。生徒たちはここで学ぶことによって、どのように自分の存在を過去の事実につなげることができるでしょうか。

 

マンハッタン計画とシカゴ

マンハッタン計画は1941年の夏頃には当時のフランクリン・D・ルーズベルト大統領に打診されていて、12月18日の戦争権限法(War Powers Act)の成立により議会に承認されました[1]。マンハッタン計画の三大牙城である、ロスアラモス研究所、オークリッジ研究所は1943年、ワシントン州ハンフォード核施設は1944年に操業を開始しています。

20億ドル(インフレなどを考慮すると現在の約6兆円)と言われるマンハッタン計画の予算は、これらの研究所に加え、アメリカの多くの大学に配分されました。シカゴ大学も例外ではありませんでした。1942年12月2日、住宅が密集するシカゴ市内のキャンパスで、エンリコ・フェルミの指揮のもと、人類史上初の核連鎖反応の実験が行われました。科学者たちは市全体が吹き飛ぶかもしれないとの懸念を抱きつつも実験を遂行したのでした。この実験で使われた原子炉は、後にシカゴ中心部から約50キロ南西にあるレッド・ゲート・ウッズという森林保護区に埋められ、キャンパス内の実験場の跡地にはヘンリー・ムーアによる彫像「原子力エネルギー」が建てられています。

この実験の75周年にあたる2017年、シカゴ大学は全学を挙げて記念行事を行いました。最終日の12月2日には、中国出身のアーティスト、蔡国強による花火が打ち上げられました。彼は、2008年にも広島市からの委託で「黒い花火・広島のためのプロジェクト」として、黒い花火を原爆ドーム上空であげています。しかし、シカゴ大学での花火は、広島での黒一色の重々しい作品とは全く異なり、「誕生日ケーキ」のようだと形容される色とりどりの華やかなものでした[2]。さらには、この花火の打ち上げは、実験成功時間の3時53分に合わせて、75周年を記念して集まった人たちが75からカウントダウンをするという「お祝い事」の象徴のように行われたのでした。

 

映画『オッペンハイマー』

TEAACHプロジェクトが3年目にさしかかろうという2023年の夏に、映画『オッペンハイマー』が公開されました。映画は原爆開発における科学者としてのオッペンハイマーとその後の政治的確執に翻弄される姿がテーマになっており、アカデミー賞を7部門も受賞するなど、高い評価をうけました。しかし、そこに描かれていないことがたくさんありました。例えば、人類初の原爆が炸裂したトリニティ実験の80キロ圏内にいた1万3,000人の住民[3]や、キャンプ中だった10人の少女たち[4]が被ばくしたこと、またロスアラモス研究所の清掃員や科学者の家庭の使用人して働いていた、地元の先住民やヒスパニック住民の存在などです。このように核の歴史において、地元民、特にマイノリティの不可視化は、珍しいことではありません。

確かに『オッペンハイマー』は、原爆製造を担ったマンハッタン計画、核の成り立ち、映画の舞台であるニューメキシコについての知識を若い人たちに知らせる役目を果たしました。しかし、核被害に思いを馳せるよりも、同時に公開された映画『バービー』と掛け合わせ、「バーベンハイマー」と呼ばれるミームやコスプレといった形で浅薄に消費される結果になってしまったのも事実です。

この映画の公開というタイミングもあり、ローラはマンハッタン計画始まりの地であるシカゴ大学[5]への遠足を企画しました。NTAからシカゴ大学は約10km、車で15分ほどの距離です。こうして2024年5月、3年目の学びの締めくくりとして、NTAの7年生たちは黄色いスクールバスに乗って、シカゴ大学を訪れました。

 

シカゴ大学へのフィールドトリップ

核の歴史を学ぶにあたって、そうした出来事が実際に起きた場を訪れることは、とても貴重な体験になります。その場に立つことで、文章で読んだ話が「どこか」の「むかし」のことではなく、一気に自分たちの生きる現実社会とつながる感覚を得られるからです。

この校外学習にあたって、私たちはシカゴ大学東アジア言語文明学部名誉教授であるノーマ・フィールドさんに案内をお願いしました。ノーマさんは文学者としての視点から長年、原爆や核についての研究、教育を続けられており、近年では福島原発事故後の被災地、被災者についての研究に取り組んでいます。ノーマさんは快く引き受けてくださったばかりか、訪れるとよいポイントを事前に下見までして準備してくれました。

ツアーの始まりは、上にも書いたCP-1と呼ばれる持続的核連鎖反応の実験場跡地で、今はヘンリームーアの彫刻「核エネルギー」がある銘板の前でした。現在は図書館と学生寮の間の中庭になっていますが、当時はフットボール場が位置しており、その観客席の真下の地下に、秘密のマンハッタン計画実験室があったのです。銘板には”On December 2, 1942, man achieved here the first self-sustaining chain reaction and thereby initiated the controlled release of nuclear energy. ”(1942年12月2日、人類はこの地で初めて自己持続的な連鎖反応を達成し、それによって制御された核エネルギーの放出を開始した)と刻まれています。中立的な文言のようではありますが、やはり「達成した」(achieved)という言葉には、どちらかといえば人類の誇るべき歴史というニュアンスが込められており、核開発が悲劇の始まりとか、反省すべき歴史とは捉えられていないことがわかります。さらにシカゴ大学では1960年代に、核の影響を調べる人体実験に学生たちが使われたことがのちに明るみになるのですが、75周年の記念行事のように、そうした負の側面は触れられず忘れ去られ、科学の進歩としてのみ語られています。このように、ノーマさんは核の歴史をどのように捉え、どのように語り、何が省かれているか、つまり「言説」の問題をその場所に立って中学生にもわかりやすく説明してくれました。

核連鎖反応の銘板の前で話すノーマ・フィールドさん。背景はヘンリー・ムーアの彫像

 

お話を聞いたあと、生徒たちは彫刻に近づいて観察したり、感想を言いあったりしました。彼らはそれまで教室でさまざまなアートを通じて核の問題を考えてきたわけですが(第5回を参照)、写真で見ていた彫刻の実物をその場で見ることにより、また一層思考を深めたようでした。

そのあとノーマさんは数学科の建物、エッカート・ホールに案内してくれました。ここはマンハッタン計画の理論的中枢を担っていた場所です。数学科のコミュニティ・ルームには歴代の著名な教授たちの写真が飾られています。その中でJ・アーネスト・ウィルキンス・ジュニアが特に生徒たちの目を引きました。彼は史上最年少の13歳でシカゴ大学に入学した神童・天才で、マンハッタン計画にも大きく貢献した数学者ですが、黒人であったために、のちに彼の研究チームがジム・クロウ法[6]下のテネシー州に移されることになった時、チームから外されることになったのです。核の問題を社会正義の視点から考察してきた生徒たちにとって、この事実は社会の割り切れない複雑さを浮き彫りにしました。原爆投下という決定の背後に潜む人種差別を告発し続けてきた黒人運動家たちの系譜がある一方で、その国家プロジェクトの中枢を支えた黒人天才科学者が存在し、そしてその彼もまた国内の差別に阻まれたというパラドックス。これは「加害者対被害者」という単純な二項対立に収まるものではなく、人種と権力、科学が複雑に絡み合った歴史を示しています。この事実が一般には知られておらず、映画などにも出てこないこと、その事実を話し合う機会が奪われていることの意味など、J. アーネストについて学びの機会を得ることができたのも、この校外学習の大きな成果でした。

エッカート・ホールのコミュニティー・ルーム、

奥の壁にかかっているのがJ. アーネスト・ウィルキンス・ジュニアの写真

 

他にもマンハッタン計画に関わりのある場所を見学したあと、生徒たちはハッチンソン・コモンズと呼ばれるカフェテリアでお弁当を食べました。当時マンハッタン計画の科学者たちもお昼を食べた場所です。そこでノーマさんは核の学習についての感想、核とアートプロジェクトでどんなものを作ったかなど、生徒たち一人一人と交流してくれました。ノーマさんと、なぜ原子力発電所は都会の真ん中にはないのかという環境正義の問題について、話し合う生徒もいました。

実際の場所を訪れそこで何があったのか知ることに加え、その出来事のうち何が語られ、何が語られていないのかを考えることで、生徒たちの核に関する学びはより立体的になったのではないでしょうか。

 

場所と場所をとりまく言説

TEAACHメンバーの1人である宮本ゆきは、隔年で大学生を広島・長崎の研修旅行に引率しています。ある年、学生の1人が原爆ドーム横の河原で、突起がたくさんついた小さな破片を拾いました。広島平和資料館の学芸員の方に見せると、それは原爆瓦の一部だということがわかったのです。学生にとって、遠い島国で何十年も前に起きた出来事が、自分の生きる世界と重なった瞬間でした。彼は後に自発的にキャンパスで署名を募り、シカゴ市長を世界平和市長会議に加入させることに成功しました。このように、場所には学びを深め、実感や感情に結びついた理解をうながす効果があるのです。

一方で、こうした強い効果があるからこそ、場所を訪れることによる学びには注意が必要であることも強調しておきたいと思います。つまり、ノーマさんが説明してくれたように、その場所がどのような言説や表象とともにあるのかを見極め、語られていないことや、残されていないことにも注目することが大切なのです。「歴史的建造物」として保存される建物(例:アメリカ南部のプランテーション邸宅)がある一方で、そこに住んでいる人を追い出してまで取り壊される建物(例:「プロジェクト」と呼ばれる都市部の貧困層用公営住宅)があります。その違いはどうして生まれるのでしょう。保存され現存するものだけにとらわれると、根本的に問うべき点を見逃してしまうかもしれません。

どこの国においても、核の歴史に関する場所や遺産は、多くの場合、保存にあたっての政府や軍の意向と無関係には存在していません。また、シカゴ大学での75周年記念行事やムーアの彫像の銘板でもそうであったように、核とは切り離せない被ばくの問題には、まったくと言っていいほど触れられることがありません。例えば長崎原爆のプルトニウムを製造した原子炉があるワシントン州のハンフォード核施設は、現在もなお周辺地域の深刻な放射能汚染が報告されています。それまでここへの立ち入りは成年に限られていましたが、2011年に年齢制限が引き下げられ、現在では12歳の子どもも訪れることができるようになりました。子どもたちにとって、ハンフォード核施設を訪れることで得られる学びは確かにあるでしょう。しかしそれがどういうリスクを伴うのか、果たしてきちんと説明されているでしょうか。子どもでも訪れて問題ないかのような誤解が広まることにどのような意図、あるいは効果があるのかを考えてみる必要がありそうです。

日本でも福島原発事故以後の「原子力緊急事態宣言」は現在でも解除されていませんが、帰還困難区域を訪れるツアーがいくつも企画されています。そうしたツアーを「ダーク・ツーリズム」と呼ぶか、「ホープ・ツーリズム」と呼ぶかの違いにも表れるように、場所はそれだけで存在しているのではなく、それをとりまく言説と切り離すことはできないのです。

 

小嶋亜維子・宮本ゆき

 

【注】

[1] しかし、実際には1939年の時点でアルバート・アインシュタインがルーズベルトに書簡を送り、ウランの大量確保がいかに大切か説いていました。このアインシュタインからの書簡により、ルーズベルトはウラン委員会(後の国立防衛研究委員会[the National Defense Research Committee])を設立しています。(Linda C. Morice, Nuked: Echoes of the Hiroshima Bomb in St Louis (Athens; GA: The University of Georgia Press, 2022), 14-15.) その時点で、カナダやチェコスロバキアにもウランはあるものの、良質なウランはベルギー領コンゴに大量にあることがわかっていました。そのため、アメリカはベルギーのウラン鉱山会社と交渉しており1942年の4月ごろには、ウランの独占がほぼ確実になっていました。この作戦が功を奏したのかは明確にされていませんが、ドイツはこの年すでに原爆製造を諦めていた、という報告もあります。(“The nuclear weapons program was scrapped in July 1942” Fred Schwaller, “Why didn’t the Nazis beat Oppenheimer to the nuclear bomb?” DW, August 15, 2023. https://www.dw.com/en/why-didnt-the-nazis-beat-oppenheimer-to-the-nuclear-bomb/a-66540463)

[2] 蔡氏による花火の写真は、この記事を参照ください。Andrew Bauld, “Pyrotechnic artwork commemorates 75th anniversary of first nuclear reaction” December 3, 2017. https://news.uchicago.edu/story/pyrotechnic-artwork-commemorates-75th-anniversary-first-nuclear-reaction

[3] Tina Cordova, “What ‘Oppenheimer’ Doesn’t Tell You About the Trinity Test” The New York Times, July 30, 2023. https://www.nytimes.com/2023/07/30/opinion/international-world/oppenheimer-nuclear-bomb-cancer.html

[4] Lesley M. M. Blume, “U.S. lawmakers move urgently to recognize survivors of the first atomic bomb test” National Geographic, September 21, 2021. https://www.nationalgeographic.com/history/article/lawmakers-move-urgently-to-recognize-survivors-of-the-first-atomic-bomb-test

[5] 公共放送ラジオであるWBEZでは、『オッペンハイマー』ゆかりの場所を巡るウォーキングツアーガイドをまとめています。https://www.wbez.org/culture-the-arts/2024/03/04/oppenheimer-movies-historical-ties-to-chicago

[6] 1964年公民権法成立までアメリカ南部の州でバスや水飲み場、学校など、白人と黒人の施設を分離していた一連の法律の総称。このジム・クロウ(Jim Crow)とは、1830年代に白人が顔を黒塗りして演じた、偏見やステレオタイプに基づく黒人キャラクターの名前です。そこから派生し黒人の蔑称としても使われました。

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 宮本ゆき(みやもと・ゆき)

    デュポール大学宗教学部倫理学教授。デュポール人文学センターセンター長。著書にBeyond the Mushroom Cloud(2011),、『なぜ原爆は悪ではないのか』(2020)、A World Otherwise (2021)。訳書に「黙殺された被曝者の声:アメリカ・ハンフォード 正義を求めて闘った原告たち(2023)。

  2. 小嶋 亜維子(こじま・あいこ)

    シカゴ美術館附属美術大学(School of the Art Institute of Chicago)社会学教員。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。イリノイ州における公平な公教育の実現を目指す団体「レイズ・ユア・ハンド・フォー・イリノイ・パブリック・エデュケーション(Raise Your Hand for Illinois Public Education)」理事。現在「マガジン9」にてコラム「シカゴで暮らす、教える、考える」連載中(https://maga9.jp/category/chicago/)。

関連書籍

閉じる