語りの力
2023年の秋、ナショナル・ティーチャーズ・アカデミー(NTA)に、三組のゲストをお招きすることができました。今回は核の暴力の被害者やそれに抗う抵抗者の方々による語りが、生徒たちの学びをどのように深めてくれたのかという「語りの力」についてお話します。
ゲスト・スピーカーをお招きすることの意義
2023年の秋学期、私たちは「科学的知識の追求において、誰の身体が使い捨て可能(expendable/disposable)とみなされるのか」という本質的な問いに取り組みました。その年最初の理科の単元「核エネルギーと身体」では、放射線が人体に及ぼす影響に焦点を当てました。生物学者としての専門的視点を取り入れながら、私たちは DNA 構造や放射線が細胞修復に与える影響を深く学び、また生徒は小グループに分かれ、放射線がどのように身体の特定の部位に損傷を受けるのかを調査しました。
さらに、物語や証言を人体に関する科学的な学習に織り込むことで、生徒たちは核被害の暴力性、その被害者や抵抗者に対する倫理的責任を考えました。例えば、アメリカ南西部でウラン採掘の影響を受けている現代のディネ(ナバホ)コミュニティの人々へのインタビューの抜粋や、ロスアラモスでのトリニティ実験後に甚大な健康被害を受けたプエブロの人々やその他の 「風下住民(downwinders)」の証言を読みました。さらに、広島・長崎への原爆投下後に身体障害や慢性疾患を抱えることになった被ばく者の語りにも触れました。こうして生徒たちは、「私たちはみな相互に関係している存在だ」という感覚を強めただけでなく、「身体が物語る」という考え方を理解し始めました。つまり、核による暴力は、いつも国家によって「使い捨て可能」とみなされた身体に向けられてきた歴史があること、同時にその身体に刻まれた暴力を記憶し、語り継ぐことは、「使い捨ての政治」への抵抗となることを理解したのです。
だからこそ実際にそうした体験を共有してくれるゲストをNTAにお招きし、直接に証言を聞くことができたのは、とても意味のあることでした。
ゴールデンルール・ピースボート:ゲリー・コンドンさんとヘレン・ジャッカードさん
まず2023年の秋、五大湖[1]を巡りながら、それぞれの地域における原子炉や核廃棄物の影響について人々に教育する活動を行っていたゴールデンルール・ピースボート[2](Golden Rule Peace Boat: 以下「ゴールデンルール号」) の船長ゲリー・コンドンさんと乗組員ヘレン・ジャッカードさんをお招きし、核実験に抗い、核軍縮を求め続けてきたレジスタンス(抵抗)の物語を学ぶという貴重な機会に恵まれました。

水色の線はゴールデン・ルール号の航海路。赤丸は放射性廃棄物、原子炉、あるいは研究所のある場所。白黒の丸はすでに閉鎖した場所
初代ゴールデンルール号は、1958年マーシャル諸島の実験区域に直接向かうことでアメリカによる核実験に抗議し、実験を妨害しようとした小型船です。ゲストのお二人は、大気圏核実験を記録し、妨害し、最終的には終わらせようとした、ゴールデンルール号の使命について語ってくれました。彼らはまた、国際的な核廃絶、平和、環境正義のために数十年にわたり活動してきた歩みについても話してくれました。
1946年から1958年の間に、アメリカ政府がマーシャル諸島の住民を居住地から強制的に退去させ、その間に67発もの核兵器を爆発させ、土地・水・人間とその他の生き物の細胞を汚染したという事実に、生徒たちは大きな衝撃を受けました。ハワイの先住民の流れを汲むゲリーさんは、初代の乗組員たちがハワイ沖で米沿岸警備隊に拘束され、先住民の土地とマーシャル諸島の人々を守るために直接行動を起こしたことで投獄された経緯を語ってくれました。
こうした歴史を忘れないために、ゴールデンルール号は2度の陥没を乗り越え、修復され、再び航海に出ました。乗組員たちは自分たちの行動と証言が、核実験の残虐性、何世代にもわたるマーシャル諸島の人々に対する健康被害を明らかにするのに役立つと確信したのです。核による暴力に対するこの抵抗の物語は、ほとんどの教育課程や大衆的知識にも含まれてこなかったものであり、「組織的忘却の暴力」の一部と言えるかもしれません[3]。だからこそゴールデンルール号の記憶をつなぐことは極めて大切なのです。さらに、彼らの現在の活動は、核エネルギー産業と核兵器とのつながりに焦点を当てており、トランプ大統領が核実験再開を表明し、核関連企業が AI データセンター向けの「小型原子炉(SMR)」を提案し、五大湖の環境汚染が懸念される今日にあって、いっそう重要性を増しています。
特に一部の生徒たちは、1954年3月1日のキャッスル・ブラヴォー核実験がマーシャル諸島に与えた影響について調査していたため、彼らにとって現地で核実験に反対してきた人々から直接話を聞くことは非常に価値のある学びとなりました。その他の生徒にとっても、ゴールデンルール号のメンバーとの対話がきっかけで新たな関心が芽生え、その後のプロジェクトで核実験によるマーシャル諸島の人々の健康被害を研究した生徒もいました。
講演の最後に、ゲリーさんがハワイ語で美しく儀礼的な感謝の歌を歌ってくれました。その歌は、人々が自分をとりまく世界とのつながりを理解することの大切さを伝える、もうひとつの証言となりました。

講堂で生徒に話をしてくれているヘレンさんとゲリーさん
グリーン・アクション:アイリーン・美緒子・スミスさん
NTAを訪れてくださった二人目のゲストは、デュポール大学の水俣写真展のためにちょうどシカゴにいらしていた、アイリーン・美緒子・スミスさんでした。アイリーンさんは、70年代に当時の夫で写真家であったユージン・スミスと一緒に水俣に移住し、被害を受けた人びとと暮らし、彼らの生活を写真に収めアメリカで広めたことで知られています。80年代からは原発への反対活動にも力を入れ、1991年にグリーン・アクションという市民団体を立ち上げました。
アイリーンさんはNTAがどういった学校かを考えながら話をすすめてくださいました。京都で御所に近いところに住むアイリーンさんは、まず、御所から出るゴミの話をしました。御所で生活する人が出したゴミは、誰が、どう処理して、どこに持って行かれるのか、そして、そのような大事な仕事を任された人たちが何故差別されるのかという話です。それからアイリーンさんは、原発の話をしました。原発が作り出す電気を消費する人がいる一方で、その廃棄物を引き受けさせられる人たちがいます。御所のゴミの事例から繋げることで、原発の問題も不均衡な社会構造の問題として、生徒にイメージしやすくなりました。
シカゴ市で工場の移転などがあった場合、跡地にある化学薬品などで汚染された土壌が自分たちの居住地域に押し付けられること(あるいは押し付けられそうになること)を日常的に経験している生徒たちに取って、この導入は馴染み深い話であり、原発の話も一気に「自分たち」の話として受け入れられました。
また、水俣での経験からアイリーンさんは、公害と原発事故との類似点を明確に挙げてくれました。
水俣と福島に共通する「10の手口」
- 誰も責任を取らない/縦割り組織を利用する
- 被害者や世論を混乱させ、「賛否両論」に持ち込む
- 被害者同士を対立させる
- データを取らない/証拠を残さない
- ひたすら時間稼ぎをする
- 被害を過小評価するような調査をする
- 被害者を疲弊させ、あきらめさせる
- 認定制度を作り、被害者数を絞り込む
- 海外に情報を発信しない
- 御用学者を呼び、国際会議を開く
このことで、生徒たちは個々の事象として表れる現象が、構造的に同じであることに気づくことができました。

教室で生徒に話をしてくれているアイリーンさん
長崎被ばく者・朝長万佐男さん
三人目のゲストは長崎の被ばく者、朝長万佐男さんです。長崎県被爆者手帳友の会が主催した米国キャラバンで、アメリカの東海岸、中西部、西海岸を訪れた際、イリノイ州ノースウエスタン大学の宮崎広和教授が仲介してくださり、NTAにも来ていただくことができました。
放射線がどのように人体に影響を及ぼすかを学んできた生徒たちにとって、白血病治療を専門とする朝長さんによるお話はとても興味深いものでした。生徒の「どうして医者になろうと思ったのですか?」という質問に、朝長さんは「同級生や同じ年くらいの子どもが、原爆後に白血病に罹って亡くなった。自分もそうなるのではないかという恐怖と、白血病で苦しむ人たちを救いたいという思いから医者、それも白血病治療専門の医者になりました。」と答えてくれました。これは「身体がものがたる」という概念にもつながります。
朝長さんが廊下を歩くだけで、「被ばく者に尊敬の念を!」と言って手を合わせる生徒もいました。それほど、社会で行動している人に実際に会うというのは、生徒にとって大きな経験です。しかも、こうしたゲストの方々の話は、今まで生徒が「知識」として学んできたことが「実際に起きたこと」だという理解を促してくれるだけでなく、なぜ今まで知らなかったのか、なぜ一般に流布している語り、例えば核抑止論や原発の安全性などは、彼らの語りと違うのかを考えるきっかけを与えてくれたのです。

クラスで学んだ放射線が人体に及ぼす影響の図を見せながら話す朝長さん
「組織的忘却の暴力」を解体するために
TEAACH Nuclear プロジェクトは、「組織的忘却の暴力」を解体することを理念の中心に据えています。そのために私たちは、探究から行動へとつなげる教育的アプローチを取り入れて、過去の歴史的出来事を深く分析することで、現在を形づくっている力を明らかにしようとしています。また、科学において「(誤った)客観性」を過度に重視することが、倫理的責任、ケア、相互性、そして相互依存性の重要性を抹消してしまうという構造そのものを揺さぶろうと試みています。こうしたプロジェクトの枠組みにおいて、ゲストの方々の話は「組織的な忘却」や「(誤った)客観性」が現実世界でどのように作用するのかを、「語りの力」として体現し、生徒に生きた知識・経験を示唆してくれるのです。
私は、病気を抱えたまま身体を引きずるようにして生きてきました。時おり、自問することがあります。これほどの苦しみと痛みの中で生き続けることに、いったいどんな意味があるのだろうか、と。そのたびに絶望的な気持ちになります。しかし、そのたびに何とか自分を奮い立たせ、「一度命を救われた身として、私は生き残った者の使命を果たさなければならない」と言い聞かせています。つまり、生存者は自らの体験を語り続けるべきだというのが、私の揺るがぬ信念なのです。惨めな死を遂げ、声を上げることの叶わなかった人々に代わり、その恐ろしい記憶を次の世代に手渡していかなければなりません。私はこの使命を、自らの生涯を通じて、日本国内はもちろん、海外でも、自分の体験を語ることで果たしていきたいと思っています。
高橋昭博(広島被爆者)
過去について語り、私たちに起こった出来事を理解することによって、私たちは癒やされ、前へ進むことができる――これが私の深い信念です。過去を振り返らず、私たちを傷つけ、痛みを与えた出来事について決して語らないことこそが最善だと考える人もいます。それがその人たちなりの対処の方法なのでしょう。しかし、「対処する」ことは「癒やされる」ことではありません。羞恥心を抱くことなく過去と向き合うとき、私たちは過去が自分に及ぼす支配から解き放たれるのです。
ベル・フックス[4]
人々は真実を告げられたとき、必ず応答する力をもっている。私はそれを無条件に信じています。私たちは 「信じる」 のではなく 「学ぶ」 ことを、そして 「断定する」 のではなく 「問いただす」 ことを教えられる必要があります。
セプティマ・クラーク[5]
学問への抑圧が強まり、偽の情報が蔓延し、AI の誘惑が批判的思考の衰退を招きかねないこの時代、私たちは若い人々へどのように真実を教えることができるでしょうか。とりわけ、こうした道徳的義務は、生徒自身が若い科学者、思考者、そしてコミュニティの一員として、自らの倫理的責任を見極めようとしているときに、いっそう重要だと考えています。
宮本ゆき(主筆)、ローラ・グラックマン(副筆)
【注】
[1] アメリカ合衆国とカナダの国境にまたがるスペリオル湖、ミシガン湖、ヒューロン湖、エリー湖、オンタリオ湖の5つの大きな湖の総称。シカゴはミシガン湖に面しています。
[2] 1983年設立の日本発祥のピースボートとは別団体。1958年にクエーカーの若者たちにより、マーシャル諸島での核実験に反対するために立ち上げられました。
[3] ヘンリー・ジルーが用いる「組織的忘却」という概念は、歴史的知識から人間性を奪い、体系的に消し去る行為を指し、権力が権威主義に台頭することを容易にしてしまうのです (Giroux, Henry A. The Violence of Organized Forgetting : Thinking beyond America’s Disimagination Machine. (San Francisco: City Lights Books, 2014)。組織的忘却のメカニズムには、歴史における不正義の真実を消し去り、矮小化し、あるいは置き換える政策などがあります。たとえば、ある主題の書籍を広範に禁止したり、歴史の真実を抹消するだけでなく、そこに人種差別的な虚偽を上書きするようなカリキュラムを学区に義務づけることも含まれます。組織的忘却とは、国家による公共的・集合的記憶への直接的な攻撃として具現化されるのです。
この暴力の最新の形態には、パレスチナ解放運動や黒人解放運動について学び、教え、参加する学生や教育者たちを解雇し、逮捕し、さらには犯罪者扱いすることで国外追放することさえあるのです。私たちのプロジェクトの出発点であった、シカゴのある高校でジョン・ハーシー『ヒロシマ』の本が大量に捨てられたという出来事もまた、記憶の抹消の一形態と言えるでしょう。この出来事に後押しされ、私たちは物語の力を注視し、核被害を受けた人々の証言に耳を傾けるという行為の重要性を強調するカリキュラムを開発することにしたのでした。
[4] 本名はグロリア・ジーン・ワトキンズ(1952-2021)。ペンネームのベル・フックスはbell hooksと小文字で書くことでも知られています。アメリカの知識人であり教育家、社会批評家、活動家、フェミニスト。
[5] セプティマ・ポインセット・クラーク (1898-1987) はアメリカの教育者。黒人女性として市民権運動で活躍しマーティン・ルーサー・キング牧師からは「運動の母」と呼ばれました。