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正義の女神は何を裁くのか―相模原殺傷事件から見た現代日本

正義の女神は何を裁くのか―相模原殺傷事件から見た現代日本 第6回

 2021年10月24日に開催された『元職員による徹底検証 相模原障害者殺傷事件―裁判の記録・被告との対話・関係者の証言』刊行記念トークイベント「正義の女神は何を裁くのか―相模原殺傷事件から見た現代日本」(共催:明石書店・読書人、会場:神保町・読書人隣り)。西角純志氏(著者。専修大学講師)、仲正昌樹氏(金沢大学教授)、高橋順一氏(早稲田大学名誉教授)、稲垣直人氏(朝日新聞)が登壇し、阿久沢悦子氏(朝日新聞)の司会進行により充実した議論が交わされました。本記事は、その内容を採録したものです。
【毎月25日頃更新・全9回連載 ダイジェスト動画をYoutube明石書店チャンネルにて公開中⇒https://youtu.be/ZUmZHFgWico


11.権威主義的パーソナリティとルサンチマン

高橋:ちょっといいかな、今の仲正さんの話ね、まさにそのドイツの問題でいうのが、フランクフルト学派における権威主義的パーソナリティの研究のテーマだったわけです。この研究にはフランクフルト学派のリーダーであるマックス・ホルクハイマーやテオドーア・W・アドルノ、亡命後アメリカにとどまったエーリヒ・フロムらが関わっています。では権威主義的パーソナリティとは何か。それは、自分より上の人間に対しては媚びへつらいながら、下の人間に対しては威張りくさるという人間のタイプを表す概念です。これを家父長的性格という場合もありますね。この権威主義的パーソナリティの問題を考えようとするとき、今の仲正さんの話を聞きながら思い起こしていたのがニーチェの哲学のことなんです。さっきいったように西角さんはニーチェを批判してるけれども、私はちょっと違う考え方をもっています。

仲正さんが語った問題にニーチェの哲学で当てはまるのは、「ルサンチマン」という概念だと思います。ルサンチマンはもともと心理学の用語で、愛憎相半ばする状態を表すのに使われる言葉です。したがって両価性とか両価感情と訳されます。しかしニーチェはこの言葉をちょっと違った意味で使っています。これも仲正さんの言葉遣いを踏まえていえば、自分に対して自分より上にいる存在、あるいは自分より強い存在から圧迫感や脅威が迫ってくるのを感じ、そのためにある種のパニック状態に陥っている人間、少なくとも陥っていると感じている下級の人間が、その圧迫感や脅威をもたらす存在と正面から対決することなく、陰湿な怨恨感情や妬みの感情を自分自身のなかで募らせ、あわよくばその自分より上にいる存在、自分より強い存在の足をすくってやろうと思っている状態を、ニーチェはルサンチマンといっているのです。

このとき重要なのは、ニーチェ自身ははっきりいってはいないのですが、このルサンチマンの感情が、自分より上だったり強かったりする存在には直接向かわず、むしろ自分よりさらに下にいる存在へと、そうした存在への攻撃へと転移されるということです。上へと向けられない怨恨や妬みが、いわば代償的に下への攻撃へ向かうということです。上に対していくら憎しみや嫉妬を抱いても実際に打倒することなど出来ないため、攻撃衝動が結局下に向けられるというわけですね。これは、フロイトがいっている、自分のなかのネガティヴな部分、たとえば金が欲しくてたまらないという邪な欲望を、自分の外にいる人間、たとえばユダヤ人に投影して、金を欲しがっているのは自分ではなくユダヤ人なんだ、だからユダヤ人は強欲な金の亡者なのだ、というありもしないイメージを捏造する「投射」のメカニズムともつながっています。ニーチェがまさに痛罵しているのは、こうしたルサンチマンや投射の機制によって、自分より弱い存在を敵に仕立て上げそこへと怒りや憎悪を投射しようとするドイツ人のメンタリティでした。このドイツ人の最低最悪のメンタリティが、私の理解では権威主義的パーソナリティ、家父長的なパーソナリティの意味ということになります。そしてこの権威主義的パーソナリティこそドイツ人のメンタリティのなかにあるナチス・ドイツ誕生の源泉になった。ニーチェの時代はもちろんナチス・ドイツよりもかなり前ですから、ニーチェがドイツ人のメンタリティからナチス・ドイツが生み出されるという事実を直接知る機会はありませんでした。でもニーチェはドイツ人の中に、さっき仲正さんがいったような形でナチスへとなだれ込んでいく非常に劣悪なメンタリティが存在することをはっきり見通していました。だから私はニーチェの哲学が、権威主義的パーソナリティのような劣悪なメンタリティと戦うための有力な武器になると考えています。現代においても植松やトランプのような最悪の権威主義的パーソナリティの持ち主が出現する以上、ニーチェの哲学に基づく戦いは依然として求められていると思います。

阿久沢:野球選手の話が出たので、この本書の中でも植松が裁判の中で、「コンプレックスが今回の事件を引き起こしたと思うけどそうではないんですか?」って聞かれて、「歌手とか野球選手になれるなら(なっている)と思います」っていうふうに言っているところ。西角先生も引っかかった部分だと思うんですけど、今の議論を受けていかがですか。

西角:やっぱりそうなんですね。まあ、大谷翔平とか、結局なんていいますかね。さっき話がありましたけど、犯行の前に法律をつくるということで。裁判のときにも、7項目というものを理路整然と話してですね。安楽死だとか避妊妊手術をさせるとかですね、遺体を肥料にするとかですね、さまざまなことを言っているんですね。そして、2019年の秋に「表現の不自由展」というのがありましたけど、そのときも実は7項目というものを提案してるんですね。これをどう見るかという問題で、僕はこう思いました。遺族の一人は意見陳述でこういうことを言っています。「植松は世界平和のために革命を起こしたかったのではなくて、自分が思い込む方法で、命をかけて自己実現をしたかったんだと思います」「今は裁判が取材、報道で自己実現ができてさぞかし満足していることと思います(本書:223頁)」。まあ私はこの説明に説得力を感じました。面会で彼は自分の主張は社会に伝わっていると自信を見せていたことを思い出しました。彼は社会的に正規の手続きを経て自分の考えを主張するのではなくて、自らの主張を独善と暴力で強引に実践してみせて、最悪なかたちで世に問うた。こういうことなんですね。

仲正:大谷翔平を正面から妬めますかね。ああいう人を特別扱いする根拠はあるのかって、問題設定ありますね。そもそももう商売をやって充分儲けてるのに、なんでそれに加えて国民として名誉あるものだっていうふうに扱わなきゃいけないんだ、という問いを立てることはできます。でも、ああいうすごく上にいそうな人を特別扱いすることに反対する法案のようなものを、植松のような人が提起したらものすごく惨め。もう心根を見透かされてしまうというか、そういう提案書を書いたら、自分で惨めに感じると思う。だから、障害者なんでしょう。心根の弱さを植松に見いだす人はたぶんあんまりいないと思うんですが、その意味では、植松の狙い通りです。植松は優生思想だと捉えられることで、彼が、自分のコンプレックス、上のほうに対するなんか恨みつらみっていうのを述べられない弱い人間だということを見事に隠しおおせて、むしろ歪んだエリート意識の人のように言われている。彼を優生思想の体現者と捉えることには、そういう効果があることを認識した方がいいと思います。

高橋:今思ったんですけど、たとえばSNS上の誹謗中傷になると、ルサンチマン的な下へと向けられた攻撃だけでないような気がします。これはSNSというよりマスメディアのせいなのかもしれないけど、むしろ下よりも上に向きつつあるという印象がします。自分より上にいると、少なくとも本人が思っている人間に誹謗中傷が向けられる。特にいわゆる有名人ですね。ところで有名人という範疇は昔からあるんだけれども、今「有名人」という言葉が持つ意味はずいぶん変わってきているような気がしますね。なんていったらいいのか、「成功者」というのとも違うし、「人気者」とも違う。これはいったいなんなんだろう。そしてその有名人というものに対してSNSに依存している人間たちが、憧れと同時に激しいルサンチマンを抱いている。つまり憧れと同時に妬みや怨恨や憎悪が渦巻いちゃってるわけです。この有名人に対する異常な、それこそ両価的と呼びうるような感情のあり方みたいなものを見てると、今の日本人というか、SNSにはまっている人間たちって一体どういうふうな思いを抱いているのかというのがすごく気になります。

仲正:ただ、そういう有名人って、大した有名人じゃないんです。

高橋:そうなんですよ。中身から言えばそんなたいした存在じゃないですよね。

仲正:ただね、やっぱりちょっとね、触れるとやっぱりちょっとね、大谷翔平はなかなか責められないし。それから、ノーベル賞を取った山中先生ね。

高橋:山中さんも相当誹謗中傷にあったみたいですけど。

仲正:いやいや、誹謗中傷もあったけど。あの人の学者としての能力を否定して、バカ者扱いするのは難しいでしょう。

高橋:たしかにそんなに責められないですね。

仲正:日本人はツイッターではかなり攻撃的になるけど、フェイスブックだとそこまでひどいことにならないでしょう。欧米だと、ヘイトとかフェイクの中心はむしろ、フェイスブックだと言いますが山中先生をフェイスブックで攻めるのはなかなか勇気がいると思う。ノーベル賞受賞者とか、大谷翔平とか松井秀喜とかはもう完全に別格になってて、あのへんに対して攻撃すると、神罰が当たるような感じでしょう、まあ山中先生も、痛いことっていうか専門外のことに対して口出しした場合は…。

高橋:要するに分をわきまえないと誹謗中傷にあうということかな。専門外に口を出すとか。

仲正:そこなんですね。だけどあの人の実績だとか、あの人がなんか日本の科学のリーダーみたいな役割を果たしていることを気にいらないと言って、否定しようとすれば、ほんとに惨めになってくるから、そこは責められない。今は皇室が少し…。

高橋:小室君と佳子さんのことですね。

仲正:だけど、その割には、今の天皇に対してはあんまりいかないでしょう。まあ要するに、秋篠宮家の一部が庶民から馬鹿にされる対象になったけど、今まで、皇太子時代にはいろいろ言われてた天皇皇后そのものに対してはなんかむしろ別格扱いみたいな感じになっているでしょう。人間ってそういうところがあって、なんていうかな、ここを誹謗中傷したら自分自身がもう惨めになるっていうものが何かあるんだと思う。ただ、そういうものがなくなったとき、どうなるんだろうと思います。まあそういうものがあればある程度は気分が安定してるんだけれど。そこまでカオスになっていない間は、取りあえずは、彼方にいる有名人よりは、自分と大して違わなそうなのに、偉そうにしている奴をターゲットにするのではないかと思います。

稲垣:「上級国民」という呼び名がありますが、上への攻撃は、この呼び名がもつ含みが近いかもしれません。有名人がルサンチマンの対象になるかどうかは。ある意味そこは選択的になっていて、「上級国民」はそうなんですけど、大谷の場合にはならない。しかし、下に対してはかなり全般的に向いているような気がします。

高橋:そこで思うのが、さっき劣化という言い方をしたけれども、今の日本の社会から見えてきているのは、個々の主体の置かれている位置というか状況がものすごく劣化してきているということだと思うんです。劣化という代わりに陥穽にはまり込んでしまっているといってもよいかもしれない。今誰もが、いったんトラップを踏んでしまえばたちまちホモ・サケル化してしまうという危機感を抱いているような気がします。そうした危機感を皆が相当切実に感じているのではないか。これが社会全体の劣化とリンクしているのはいうまでもありません。まともに働いても生活出来ない、そもそもまともに働くという言葉そのものが空洞化してしまっている。生活も、将来設計も、希望も、「幸福」も、いやそれどころか生命や生存という言葉さえも空洞化し無意味化しつつあるのではないか。こんな状況のなかで生じるのは一種の椅子取りゲームだけではないかと思います。限られた椅子の奪い合いです。そのために他者を蹴落とし、差別し、排除する。椅子が取れなければたちまちホモ・サケルに転落してしまうからです。こんな状況のなかでは社会を支えるコミュニティもアソシエーションも友愛も育ちようがなくなります。危機感や不安感と表裏一体になった他者への不毛な攻撃衝動、これがSNS上での、上にも下にも向けられる非常に不条理な誹謗中傷のもとになっているような気がします。

仲正:自分の視線を、ここに向けてたら安定してるっていうのはあるんだと思う。平穏な日常というのはここを見てたら自分は平穏な気持ちで生きてられると、それが見いだせてるうちはいいんです。それがなんか、みんな外しちゃってるんです。

高橋:そう、まさにそういうことです。

仲正:外れるとね、どこまで、変な方向に行くと最後は植松みたいに、下へ下へって行っちゃうと、そういう引力の中に巻き込まれて変なプロセスが作動するってことなんじゃないかなと。

阿久沢:すいません、お話が白熱してるところで申し訳ありませんけどZOOMが16時までとなっていて、あと1分半なんですが、ZOOMの今日の議論を振り返って。

西角:特に僕の方からはないんですけど。遠方から、海外から参加されてる方もいらっしゃるんですね、今日は、聞いたところによるとオーストリアにいらしゃる方で、わざわざ時差にもかかわらずありがとうございました。この議論はまた継続して続けていきたいと思っております。本当に今日はありがとうございました。

阿久沢:ZOOMの配信のほうからの質問がいままだチャットに届いてないということなので、とりあえず一回ZOOMのほうはこれで締めさせていただきます。どうも今日はありがとうございました。

あとはじゃあ会場にいらっしゃる方の質疑応答があって、もうちょっとだけ延長戦を行います。会場にいらしてくださる方の特典ですので。なんかもうちょっとここを聞いてみたいとかいうことがありましたら。

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著者略歴

  1. 西角 純志(にしかど・じゅんじ)

    1965年山口県生まれ。専修大学講師(社会学・社会思想史)。博士(政治学)。津久井やまゆり園には2001年~05年に勤務。犠牲者19人の「生きた証」を記録する活動がNHK『ハートネットTV』(2016年12月6日放送)ほか、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌にて紹介される。主要著作に『移動する理論――ルカーチの思想』(御茶の水書房、2011年)、『開けられたパンドラの箱』(共著、創出版、2018年)などがある。
    『批評理論と社会理論(叢書アレテイア14)』(共著、御茶の水書房)、『現代思想の海図』(共著、法律文化社、2014年)、「青い芝の会と〈否定的なるもの〉――〈語り得ぬもの〉からの問い」『危機からの脱出』(共著、御茶の水書房、2010年)、「津久井やまゆり園の悲劇――〈内なる優生思想〉に抗して」『現代思想』(第44巻第19号、2016年)、「戦後障害者運動と津久井やまゆり園――施設と地域の〈共生〉の諸相」『専修人文論集』(第103号、2018年)、「根源悪と人間の尊厳――アイヒマン裁判から考える相模原障害者殺傷事件」『専修人文論集』(第105号、2019年)、「法・正義・暴力――法と法外なもの」『社会科学年報』(第54号、2020年)、「津久井やまゆり園事件の『本質』はどこにあるか」『飢餓陣営』(第52号、2020年)ほか多数。

  2. 仲正 昌樹(なかまさ・まさき)

    1963年広島県生まれ。東京大学総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程修了。1998年より金沢大学法学部助教授、2008年より金沢大法学類教授。雑誌『情況』の編集にも長く携わる。主な著書に、『“法”と“法外なもの”―ベンヤミン、アーレント、デリダをつなぐポスト・モダンの正義論へ』(御茶の水書房、2001年)、『カール・シュミット入門講義』(作品社、2013年)、『〈ジャック・デリダ〉入門講義』(作品社、2016年)などがある。

  3. 高橋 順一(たかはし・じゅんいち)

    1950年宮城県生まれ。埼玉大学大学院文化科学研究科修士課程修了。1987年早稲田大学教育学部専任講師、1989年助教授、1994年教授。吉本隆明や廣松渉への関心も深く、『ヴァルター・ベンヤミン解読―希望なき時代の希望の根源』(社会評論社、2010年)、『吉本隆明と共同幻想』(社会評論社、2011年)などの著書がある。

  4. 稲垣 直人(いながき・なおと)

    1969年生まれ。1994年朝日新聞入社。政治部などを経て2019年から朝日新聞のオピニオン編集部の記者として、声欄の隣にある「耕論」「対論」などを担当。政治社会思想を中心に、アカデミズム分野の研究者への取材インタビューも多数行っている。

  5. 阿久沢 悦子(あくさわ・えつこ)

    朝日新聞地域報道部記者。相模原事件の発生時は阪神支局に勤務し、阪神間がちょうど障害者の自立生活運動のメッカであるところから、障害者施設や障害者の方たちがこの事件をどう受け止めたかなどを記事にしてきた。

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