明石書店のwebマガジン

MENU

きらいだし、こわい、けれども……~害虫・害獣の民俗学~

ゴキブリのフォークロア②~ゴキブリの台頭~

前回はゴキブリをめぐる各種のフォークロアを紹介した。今回は、第4回で示した宿題、つまり、彼らが「どこに発生し、それは誰がどのような責任で駆除するのか、という問題」について考えてみたい。

ハエや蚊は戸外の水溜めや便所、ゴミ捨て場等、公共性のある空間に発生源があった。これの駆除は、つまり「公的な」または「共同の」課題でもありえたわけだが、ゴキブリはどうだろうか。彼らは暮らしのどこに生まれ出て、私たちをどのように脅かし、私たちはそれにどう対処しようとしているのだろうか。

 

彼らはいつから害虫か

ゴキブリは2~3億年前から存在していたという。化石クラスの生き物であるわけで、人類よりも歴史が古い。では、ゴキブリは人類史上の宿敵なのかというと、どうもそうではないらしい。

彼らはいつから嫌われていたのだろうか。『和漢三才図会』ではすでに「蝿(ハエ)と同様に憎むべきもの」だと述べられている。こうした情報と、前回とりあげた俗信との関係をどう理解すべきか悩ましいところである。おそらく、ゴキブリは、嫌われつつもどこにでもいたわけではないと考えるのが妥当だろうと思っている。それというのも、1960年代の新聞などをみていると、ゴキブリは戦前までは「さほどいなかった」と述べられているのである。『東京朝日新聞』1960年9月3日号には次のようにある。

 

戦前は東京にはほとんどいなかった。比較的寒さに強いヤマトゴキブリやチャバネゴキブリが、冬でも暖房のあるビルや食堂などに住んでいた程度。冬のすき間風にさらされる一般の木造家屋にはまずいなかったという。それが戦後、十年ほど前から急にふえはじめ、戦前は寒さの関係から東京では絶対に見られなかったクロゴキブリまでが、わが物顔にのさばりはじめた。(略)一方、対策については—害虫の中でも〝戦後派〟だけにまだまだだ。(略)肝心の伝染病予防法では〝害虫〟として指定されていないから、都や保健所で駆除しようにも予算の出しようがないありさま。都虫疫課に相談しても駆除情報を教えてくれるだけだ。

 

ゴキブリは戦後派だという。しかし、東京にはほとんどいなかったというのは事実ではないだろう。実際、『東京朝日新聞』1932年9月23日号の記事には「台所を荒らすあの黒光りするアブラムシ」について、効果的な駆除方法が紹介されている。1960年の記事を書いた記者の体感として、またおそらくは多くの都民の体感として、彼らは以前よりも増えたのだろうと推測する。

記事内でも指摘されているように、どうやら戦後の住宅事情の変化によって、ゴキブリは新たに、または顕著に、「家庭の害虫」に変わっていったものらしい。ちょうど、それはハエや蚊が家庭の害虫としては後退していく過程と重なっているし(連載第4回)、ダニが団地の害虫として注目された時期(連載第3回)と重なるようである。まず、これまでの連載でも指摘してきたように、戦後には家屋の気密性が向上した。例えば、以前にも話題にあげたアルミサッシの普及である。アルミサッシの販売は昭和30年代にはじまり、40年代に入るとその利点が広く一般に認識されるとともに需要が急速に拡大していく。以下の表は日本サッシ協会の調査による1974年(昭和49)時の住宅のサッシのアルミ化率を整理したものである(表中の建築年次は和暦で記載している)。新築はもちろん、戦前に建てられたような住宅にもアルミサッシが導入されつつあることがわかる。

 

表 昭和49年時点における住宅のサッシのアルミ化率

木製サッシ・スチールサッシよりも機密性に優れたアルミサッシにより、冷暖房がより効果的になる。また、むしろ換気扇を設置する等によって換気をする必要がでてくる。網戸の一般への普及もこれ以降である。このように外気と遮断されることで屋内へのハエ・蚊の侵入が防がれるようになる一方、室温が安定することで、屋内にはゴキブリが棲息しやすくなった。

 

事後にアルミサッシを導入した民家の窓(及川撮影)

 

食糧事情も変わったと思われる。戦後の暮らしが豊かになるにつれ、家のなかには食べ物があふれるようになる。前回の連載で触れたように、かつて、カマドまわりにゴキブリがいることが裕福なことの証とみられていたのは、彼らの卵鞘(らんしょう)が財布のように見えるからだという説もあるが、そうした家がそれだけ温かく、また食べ物の多い家だったことを意味しているのだろう。

先述の1960年の記事は「予防衛生研究所には、毎日のように団地ビルなどから「なんとかしてくれ」との訴えが次々に舞い込んで」いることを報じている。当時、新たな住まいのかたちとして、鉄筋コンクリート造の集合住宅が増えつつあったことも忘れてはならない。こうした集合住宅に先進的な設備として取り入れられたダストシュートは、悪臭ばかりでなく、ゴキブリの発生源ともなっていった。暮らしの現代化に伴って、ハエや蚊がしめ出されるかわりに、家庭の内外を発生源・生息域とするゴキブリが台頭してきたわけである。

ゴキブリが新たな害虫であることについては、高齢者を対象に調査をすると様々な証言を得ることができる。1943年に横浜に生まれた話者は次のように語る。

 

昔はゴキブリのことで騒がなかった。台所にチョロチョロいたという記憶もない。高校のころ(1960年前後)、兄に嫁がきて、その人はゴキブリをスリッパでつぶすのが上手だという話題があったのを覚えている。古い家に住んでいたが、ハエ、蜘蛛(くも)の子、鼠(ねずみ)が出て大変だった記憶はある。鼠に食われるから早く片付けなさいとか、ハエがたかるから食べちゃいなさいなどと親に言われた。今でもゴキブリはこわくない。ティッシュでとることができる。

 

こうした語りは珍しいものではない。ゴキブリが大キライだという、1951年に東京に生まれた話者もまた、以下のように語る。

 

昔はゴキブリなんていなかった。一度、六本木の町を歩いていて、足元をこんなでっかいのがちょろちょろちょろーっと通った。一気に酔いがひいた。あんな大きなものが町中にでるなんて。それにあいつらは飛ぶんだよね。飛んだ時は腰を抜かした。家には出なかった。

 

あまりにも些末なことであるために、改めて今と昔とを対比してみないかぎり、話者自身も気づくことはないが、現在の高齢者は、このような害虫相の変化を暮らしのなかで経験してきた世代なのである。

 

彼らは誰が駆除すべきか

さて、ハエ・蚊の駆除は公共の課題であったことは連載第4回でおさえた。それにかわって台頭したゴキブリの駆除は、誰が担うことになったのだろうか。町内で団結してゴキブリ駆除……ということも、実はすこしは行われていた。しかし、私たちの感覚に照らせば、それで効果がでるとは考えづらい。周知のように、彼らは私的な領域や半公共空間にも巣くっている。ゴミ処理の問題などは多少の公共性をもつものの、基本的に、ゴキブリ問題は地域の課題であるよりは、各家庭の課題となったわけである。

したがって、ゴキブリへの行政の対応は、講習会等による啓蒙や各戸への薬剤の配布を主とするものとなった。例えば、1961年、折しもポリオ(脊髄性小児麻痺)への社会的関心が高まり、ポリオのワクチン投与が都内全域で開始されるなか、これがゴキブリによって媒介されるのではないかという噂をうけて、文京区がゴキブリの一斉駆除に着手している。とはいえ、それは薬剤と刷毛を150町会の町会長を介して各戸に配布し、また、薬剤の使用について町会・婦人会等を介して説明会をひらき、映画上映会、有識者の講演会等を開催する、というものであった。同時期に、渋谷区や千代田区、中野区などでも駆除剤の配布などの事業が実施されている。折柄のポリオ流行や都内の美化推進の気運も関わり、公的な問題としてこれに対処しようとしてはいるのだが、最終的には、各家庭が予防・対処を行なうべきものとして対応されていた。あたり前といえば、あたり前である。ゴキブリは結局は家のなかに巣くっているのである。

その一方、当時はすでに、都市住民の連帯的な活動が低調化しつつあったことも連載第4回でおさえたとおりである。ゴキブリは家屋構造的な意味においても、住民意識的な意味においても外部から閉ざされた、個人化社会の「家庭」を温床とする害虫となった。つまり、その発生についても、駆除についても、各家庭、各個人の引き受けるべきものとして問題化してきたのである。

これにより、活況を呈した業界がある。防虫・殺虫グッズ業界である。某社の有名な捕獲グッズも、戦後に開発され、爆発的なヒット商品になった。対ゴキブリ製品は1960年代から市場として注目されるようになり、やがて規模を拡大し、各社の競争状況が生まれていく。その根絶が困難であるため、ゴキブリは「永遠に有望な市場」であると、昭和51年(1976)10月29日の『読売新聞』は報じている。なるほど、私たちは彼らと対決する武器を、50年近く経ったいまも必要としている。

ところで、ゴキブリは家庭にばかり出没するわけではない。オフィスビルの給湯室や集合住宅の共有スペースにだって営巣する。当然、行政はこうした空間の害虫を駆除してはくれない。管理者がその一掃に汗を流すわけにもいかず、みんなで力を出し合うこともできないのであれば、専門業者に頼るしかない。専門の害虫駆除業者が企業化していくのも1960年代以降であった。私たちの社会は、または私たちの暮らしの理想は、新たな協力のかたちを模索するのではなく、敵との戦いを代行してくれる専門家を、求めたということだろう。

ちなみに、まったくの余談だが、井上章一によれば、ブラジルの害虫駆除業者は日本の地名を社名にしているケースが目立つらしい。井上が取材した「KIOTO」は、日本人から教えられた成分の駆除薬が非常によく効いたので、日本風の社名にしたのだとか。「オオサカ」とか「トヤマ」「ナガサキ」という社名もあるとかで、いつか調査をしてみたいと思っている。

 

ゴキブリを殺す手段

家庭に出現したゴキブリには、業者に頼るのでなければ、私たち自身が立ち向かわねばならない。実際、私たちはゴキブリをあの手この手で殺す。殺虫剤でサッとやっつけるというのはスマートな手法だろう。罠で捕獲する、毒餌で駆除するというのも王道である。飛び道具ではなく、まるめた新聞紙で……というのも確実な方法だろう。

駆除が家庭に委ねられた結果だと思うのだが、いろいろな人にゴキブリと戦うすべを調査していくと、彼らと戦う技法にも、個人ごと、家庭ごとの流儀があり、また、個人や家庭を越えて流通する、必ずしも専門家の承認するところではないヴァナキュラーな(俗的な)知識が存在している。ヴァナキュラーとは、アメリカ民俗学のキー概念だが、近年、島村恭則らを中心に、日本の民俗学でも注目されている考え方である。

例えば、私は殺虫剤を彼らに噴射するときは、戦場の地形を入念に読むのはもちろんだが、鉄則として、追撃ではなく迎撃の体勢を必ずとることにしている。つまり、後ろからではなく、前から薬剤を浴びせる。その際、突進してくる彼らに対し、水平にスプレーを構えることにしている。誰にそうせよと言われたわけではなく、自分なりにいろいろと考えたのである。逃げる彼らには十分に薬剤を浴びせられない可能性があることと、彼らの腹部に気門があるというので、そこに薬剤を届かせたいこと、そして、上方からの攻撃は、角度によっては突進してくる彼らを加速させるおそれがあるので、これを避けたいためであった。

市販の殺虫剤を浴びせると、彼らは必ずひっくり返る。筋肉が硬直して体を反らせるのか、呼吸をしようとして腹部を上空に向けるのかわからないが、必ずその体勢になるので、私はそこに台所洗剤をたらすことにしている。気門がふさがれて呼吸困難になるときいたので、とどめを刺すわけである。はじめてゴキブリと戦ったあの夏(連載第5回)から20年ほどだが、私もだいぶ賢く、たくましくなった。ただ、これは私が折々に得た情報と経験をもとに採用している俗流の戦術である。もしも私が愚かなことをしているなら、専門のかたはぜひご教示いただきたい。

少なくとも、台所洗剤の用法については、家庭ごとにやり方が異なるようである。私の家に現れたゴキブリを駆除してくれた友人は、それを新聞紙で叩き殺したあと、「卵が飛散しているとよくないから」といって、拙宅のフローリングに台所洗剤をビュービュー撒いて帰っていった。私もしばらくそのマネをしていたのだが、今にして思うと、意味のないことだった気がする。また、調査に際しては、出現したゴキブリに台所洗剤を直接噴射するのだという例も得た。水鉄砲のようにということだろうが、これはきわめて高度な技術を要すると思う。洗剤の効果については、彼らの体の油を分解するのだと語ってくれた人もいた。私の友人のように、事後のお清めのように洗剤を撒くのと近い発想としては、駆除したあとに消臭剤を噴霧するという事例も得た。

ゴキブリの駆除に掃除機を用いるという家庭も複数あった。吸い込んでしまうわけだが、その後のことが厄介ではないのかと、話をきいて心配になる。研究会の席上でこの話をした際、知り合いの研究者は掃除機ごと捨てると言っていた。これはお金がかかって仕方ないような気がするのだが、本当にそうしているのだろうか。駆除したゴキブリをトイレに流す例があることは、連載第3回で紹介した。このほか、死骸に処理を加えるものとしては、火で炙るという事例を聴取した。箸でつまんでコンロなどで炙るのだそうである。トイレに流すという拙宅の例は、どうもだいぶ優しいもののような気がしてくる。

面白かったのは、子どもがゴキブリを殺すとお小遣いがもらえるという家庭である。これを語ってくれた話者は長じて後もゴキブリをまったくおそれていないと言い、まことに頼もしい。

 

事例の列挙はこれくらいにしよう。ゴキブリは、真偽の不確かなさまざまな情報に基づきつつ、銘々の、しかし無限に多様であるわけではない各種の流儀で駆除されている。このような対処の多様さは、各種の科学的情報の流通と、人びとの受容・改変の問題としても考えられるだろう。家庭ごとのゴキブリ対策は、科学的にまったく問題のない方法で実践されているというよりは、独自の解釈や判断を織り交ぜた民俗(the vanacular)としてあるといえる。

このような状況は、結局のところ、私たちが彼らとの戦いを「個人として」引き受けざるを得ないところに、起因していると思う。密室のなかの孤独な戦いに、銘々が自分たちなりの最適な方法で勝利しようとしてきた結果なのだと思うのである。

 

害虫たちの駆除の責任は誰が引き受けるのかという問題は、次回も引き続き考えることになる。題材は、人命を脅かすこともあるとある危険な虫を考えている。

 

(第7回に続く)

 

【参考文献】

井上章一 2015 『京都ぎらい』朝日新聞出版

及川祥平 2021 「害虫と生活変化―ゴキブリへの対処を事例として」『民俗学研究所紀要』45

及川祥平 2022 「ゴキブリをめぐる体験の語り」『現在学研究』9

島村恭則2018「社会変動・生世界・民俗」『日常と文化』6

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 及川 祥平(おいかわ・しょうへい)

    成城大学文芸学部准教授。
    1983年、北海道生まれ。成城大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。
    専門は民俗学(民俗信仰論・現代民俗論)。主な著作は『偉人崇拝の民俗学』(2017年、勉誠出版)、『民俗学の思考法』(共編著、2021年、慶應義塾大学出版会)など。

関連書籍

閉じる