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きらいだし、こわい、けれども……~害虫・害獣の民俗学~

「害」って、何?

「害」という言葉

害虫や害獣についてあれこれ考えはじめると、あらためて気づかれるのは、身のまわりには「害」という語を冠するいろいろな言葉があふれているということである。災害や公害をはじめ、水害、干害、冷害、雪害、雷害、霜害(そうがい)、雹害(ひょうがい)、風害、塩害、潮害、鉱害、煙害、光害、虫害、鳥害 、獣害、鼠害(そがい)、猿害、鹿害、糞害、酒害、薬害、香害、老害、若害……などなど、列記してみると随分ある。害と名づけることに誰もが納得できるだろうものも多いが、そうではなさそうなものも含まれてくる。また、科学的な説明とともに、明確な基準のもとで「〇害」を定義しているケースもあるであろうが、いたって自由な俗語も目立つ。むしろ、なんでも害にできそうな気もする。害という言葉の使い勝手の良さも関わるのだと思うが、私たちが、害という言葉で名づけたくなる問題を無数に抱えていることの表れであろうし、また、何事かを「問題」として名づけることに慣れた、寛容性を欠いた世相にも関わっているだろう。

本連載は害虫や害獣について民俗学の立場から考えようとするものであるが、いろいろな事例をみていくのに先だって、害虫や害獣たちに与えられる、この「害」という言葉や考え方について取り上げておきたい。

 

どうあれば害なのか

まず、「害」という言葉をめぐる辞書的な説明を確認しておこう。『広辞苑【第5版】』によれば、「害」は「さまたげとなるもの」「妨害」「わざわい」と解説されている。『日本国語大辞典』では「そこなうこと」「傷つけること」「わざわい」「さわり」「さまたげ」であるという。「不利益を伴う働きかけ」を意識させる言葉である、ということだろう。「有害であること」は、命や健康、社会的チャンス、資源や財産といった、私たちの所有するなにかを奪い去ったり、損なったり、あるべきと思われているすがたを妨げたりするもののようである。したがって、何かが有害であると申し立てられることは、それが実際に妥当であるか否かは別として、そのようなリスクや脅威が感じ取られていることを意味している。

辞書的には以上のように考えられるとして、一般に使用される害という言葉にはさらなる含意があると思う。「害」という言葉は強い語感をもっている。それが私たちに不利益をもたらすものであり、私たちはそれを忌避したり恐れたりしているという表明にとどまらず、それの排除や防除、撲滅、制限や禁止への意思や願い、促しが介在している。瀬戸口明久が、害虫に「人間の力で排除されるべき生物」という含意を読み解いているように、有害視されているものは、それを排除することが当然視される。

そのような語感にもかかわらず、「害」という言葉は不安定でもある。薬物の人体への影響を議論する場合などには、成分によって心身に生じる反応から、その有害性は疑うべくもなく客観的なものであるかのようである。しかし、それが社会/文化と接点をもつとき、話はさほど簡単ではなくなる。例えば、アルコールは薬物である。「酒害」や「アルハラ」などの言い方で、飲酒をめぐる諸問題が取り沙汰されてはいるが、酒は有害であるという言葉と出会ったとき、愉快な思いをしない人も多いことと思う。程度の問題が介在し、個人の好みや体質が介在し、かつ、それが社交や日々のストレス発散の手段として暮らしのなかに埋め込まれているがために、酒の有害性は、個々人が「上手な付き合い方」を模索すべきものとしてあり続けている。そして、飲む人にも飲まない人にも、飲ませたい人にも、この「上手な」という部分が難しい。

つまり、社会的なもの/文化的なものをめぐって有害性が申し立てられるとき、それは必ずしもすべての人に共有されない。もっと社会的な例をあげてみよう。近年は老害などという言い方が現れている。当然、老いてあることや老いている人が有害なのではなく、ある問題をめぐって年齢差に関連づきそうな分断や衝突が生じており、それについて不利益や不愉快を申し立てる人が、申し立てられる人よりも下位の世代に属していることしか、老害という批判は意味していない。世間の物言いに耳をそばだてているかぎりでは、老害という言葉で上位世代を攻撃する人の主張は、考慮すべきものがある一方で、常に必ず妥当なわけでもなさそうである。逆に、「齢を重ねていること」は、人生経験の厚さという点において有益であると言うこともできる。もちろん、こうした「益」の強調も、社会的・文化的な次元の問題である。

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総じて言えるのは、なにかが「有害」であるか否かの区別は、なんらかの価値判断を前提としていることである。したがって、少なくとも社会的・文化的な問題としては、客観的にまたは普遍的に有害なものは想定し得ないということになるだろう。瀬戸口もまた、虫類のなかから害虫を分節する「望ましい自然/望ましくない自然」をめぐる人びとの価値観には「社会的次元」が入り込んでいると述べている。さまざまな生物は、それ自体としては自然界を構成する存在であるが、その人間への関わり方、また人間の認識の仕方によって、害獣や害虫として分節される。鹿や猿などの野生動物は、生活に不利益をもたらすものとして立ち現れるとき、害獣として駆除の対象となるわけである。しかし、それらはシチュエーションや文脈が変われば有害ではない。鹿や猿は動物園の檻のなかにいることもあれば、神のお使いだといわれることもある。

そう考えてみると、私たちがなにかを有害視すること、それに恐怖すること、それを排除することは歴史的に規定された状況でもある。なにかを望むこと、獲得しようとすることも同様である。「健康」や「安全」という心身の状態を希求するからこそ、それを損なうものは有害なものとして排撃される。そして、「健康」や「安全」という観念もまたきわめて曖昧で不安定な価値であることに注意しておかねばらない。「害」や、それと対を為す各種の観念は、規範や価値観の特定の状況に結び付いた文化的産物であるといえるだろう。

 

「害」から問えるもの

ここまでの検討は、害虫・害獣について考えようとしている私たちに、いくつかの手がかりを与えてくれる。日々の暮らしで耳にする「害」という言葉からは、または、なにかが有害だといわれたり、それが打ち消されたりするシチュエーションからは、どういうことを考えることができるだろうか。

「害」という言葉がその語感の強さによって排除を導きやすいという特性、そして、そのような言葉であるにもかかわらず、この言葉が帯びている不安定性は、興味の尽きない論点となる。なにが「害」であるかは、人によって、また状況や時代によって、揺れ動く。そして、それを排撃しようとしたり、それへの対抗の動きが生じたりする。つまり、それは私たちの生活や日々の諸関係のなかで、可視的になる。なにかが「害」として分節されるその状況は、私たちが前提としがちな価値観の自明性を、突き崩す場合がある。有害/無害という価値観の対立が私たちに引き起こす文化的反応は、「問い」の立ち現れる場であるともいえるだろう。

とりわけ、その不安定性からは、私たちがなにかを「あたりまえ」のように「害」と見なすあり方を、検討対象にあげることができる。文化を動態的に把握することを得意とする民俗学の立場からいえば、なんらかの事象が、人間やその生活と接点をもったことによって有害視されていく「過程」、または様々な程度で無害視されていく「過程」が注目される。なにかが有害視されているという眼前の事実は、なんらかの価値観の変遷のプロセスの一断面として捉えることができるわけである。もちろん同時に、なんらかの物事が有害視/無害視される論理やそのコンテクストをも考慮におく必要が生じる。事象を、歴史のなかで、社会のなかで捉え返す契機を、「害」という言葉は与えてくれる。

一方、「害」が私たちの世の中への態度と連動して立ち現れるとすれば、それについて考えようとしている私たちにとって、これは少々厄介なものであるかもしれない。なぜならば、研究者を含めた誰もが、生活を営む者として、各種の価値観から自由ではありえないからである。生活者として、私たちがなんらかの被害/加害体験に思いをめぐらすとき、私たちはなにかの有害性を自明化する言説から、どのように、どの程度の距離を確保して、対象を記述することができるだろうか。「きらいだし、こわい、けれども……」に続く言葉は、どうもそう簡単には書き継げない。

また、私の好むなにかが、社会的に有害視されることもあり得るのが現代の世相である。すこし前には社会的に許容されていたが、いまは許されない行ないは、考えてみればいろいろと思い当たる。こうしたことを考慮しないでふるまうと、それこそ「老害」などと罵られることにもなるのである。つまり、「害」について考えることは、私自身、または私の営む生活や好ましく思う文化が、ある誰かにとっては有害であるという事実を引き受ける覚悟を要することもある。また、個人のレベルにまで多様化した社会において、なにかを害悪視する言説を相対化することは、別の誰かに不利益をもたらすこともあり得る。なにかが害悪視される現場は、時として人びとの「利害」の争われる場でもあるわけである。

 

視点としての「害」

害虫や害獣に注目し、「きらいだし、こわい、けれども……」と問いかけるこの連載で、「害」という言葉をどのように考えるかをおさえてきた。この連載でいう「害」は、ここに書いているように、カッコつきで用いることになるだろう。何かが私たちにとって不利益をもたらすことそのものを論じるというよりは、そのように何かが不利益をもたらすことを、人びとがどのように考え、また、それに対してどのように反応してきたかを考えるために、注目すべき言葉である、ということになる。分析のための概念として大袈裟な定義をするつもりはない。私たちの考察の基点において、その言葉にこだわりながらものを見ることに意味があるものとして、「害」は捉えておこうと思う。

しかし、そういう作業も実はなかなか大変そうだ、ということも確認してきた通りである。どれだけクールに装ったところで、世の中で有害視されているものを取り上げ、そういう有害視する眼差しに距離をとることは、簡単なことではない。また、なにかを有害だと語る人や言葉を分析することには緊張感も要請される。本連載でどれだけのことができるか、いささか心許なくも思うのだが、引き続き考えていこう。

 

参考文献

瀬戸口明久2009『害虫の誕生―虫からみた日本史』筑摩書房

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著者略歴

  1. 及川 祥平(おいかわ・しょうへい)

    成城大学文芸学部准教授。
    1983年、北海道生まれ。成城大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。
    専門は民俗学(民俗信仰論・現代民俗論)。主な著作は『偉人崇拝の民俗学』(2017年、勉誠出版)、『民俗学の思考法』(共編著、2021年、慶應義塾大学出版会)など。

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