ハエと蚊
前回の連載第3回は虫の大発生についてだった。無数にいてイヤなのはどの虫も同じだと思うが、群がって困る身近な虫といえば、ハエや蚊を誰しも思い浮かべるところではないだろうか。そんなことはないという人も、日々の暮らしでちょっと油断をしてみれば良いだけのことである。チョウバエなどは流し台や洗面台まわりに簡単に発生する。ユスリカたちの蚊柱はいたるところで目にする。なんの備えもせずに水と緑のゆたかな郊外に出かけてみると、イエカやヤブカに腕や足を何カ所も刺されることになる。
ところで、ハエや蚊はかつての暮らしにおける害虫の代表格であった。というと、若い世代は首をかしげるかもしれない。実際、彼らは、現在の私たちの常識では考えられないほど暮らしのなかにおり、その後、少なくとも住まいの中からは姿を消していった虫たちであった。今回は、この小さな虫たちを題材にしてみる。
ハエ・蚊がたくさんいる暮らし
北海道の都市部にあった私の祖母の家にはハエ叩きがあった。ハエ叩きは、言うまでもなくハエを叩き殺す道具である。蠅打(はえうち)などとも呼ぶが、これはだいぶ古風な言い方かもしれない。棕櫚(しゅろ)製のものが昔はあった。また、以前は鉄製のものが一般的だったと聞く。現在はプラスチック製のものが多いのではないか。祖母の家にあったのもプラスチック製で、30センチほどの長さの柄の先に、網状の部位があり、そこで飛来するハエを叩く道具であった。この網部分でハエを叩くという発想は欧米由来のものらしい。いずれにしても、このハエ叩きがチャンバラごっこをするうえで都合の良い長さとグリップ感で、またスイングすると網の部分が風を切って良い音をたてるため、幼かった私はこれで武装したがったものだった。そのたびに、汚いからと怒られた記憶がある。ただし、ハエ叩きがその本来の用途で役にたっている様子を、つまりこれによってハエが叩かれている様を、私は見たことがない。私の実家にもハエ叩きはなかったと思う。もちろん今の住まいにもない。
そういえば、祖母の家のガレージにはハエ取紙がぶら下がっていた。以前は屋内にも下げていたと聞いたが、それも実見したことはない。調査先でも時おり見かけるものの、屋内に下がっているのはあまり見ないかもしれない。もちろん、我が家にこれを下げようとは思わない。屋内でその役割を果たすとは思えないからである。こうしたものを必要とするほどには、我が家にはハエがいないわけである。では、これらの諸道具が生活の必要に応えていたのはいつ頃なのだろうか。そして、いつごろ、必要とされなくなっていったのだろうか。
私と同じ北海道の都市部に1954年に生まれたある話者の家では、ハエ取紙を居間と台所に吊るしていたという。ただし、幼いころのことである。これは何日も吊るしておくものだった。それだけでなく、食べ物にハエがつかないよう、蝿帳(はいちょう)を用いた。実際、屋内にはハエがたくさん飛んでいたし、蚊も飛んでいたという。そのため、就寝には蚊帳(かや)が欠かせなかった。その家は戦前に建ったもので、借家として使用されていたものを話者の祖父が1940年に購入し、1964年に話者の父が改築した。当初の便所は汲み取り式で、母屋の外縁部にあって縁側でつながれていたが、改築によって便所は水洗式となり、屋内に組み込まれた。この改築後、ハエ取紙は屋内には吊るされなくなったが、ハエ・蚊が屋内にいなくなったからではなかったらしい。スプレーの殺虫剤がそのころ身近に出まわり始めたのではないかと話者は語っていた。ただし、エアロゾル式の殺虫剤はそれ以前から存在したので、これはあくまで個人の考えであることも付け加えておく。
上記の話者の家が特段ハエの多い家だったわけではない。いろいろな土地で害虫に関する調査をしていると、高齢者からは似たような話をいくらでも聞くことができる。もちろん地域差や環境の相違はあるのだが、屋内にハエや蚊がたくさんいる暮らしは、ある世代までの人びとの記憶のなかで、おおよそ共有されているのである。
試みに、1965年に発行された厚生省官房統計調査部の『昭和38年度 保健衛生基礎調査報告』に、当時の人びとの虫との関係をうかがってみよう。以下の表は同報告書から作成した。こうしたデータを眺めているかぎりでも、ハエ・蚊をめぐる私たちの日常は、1960年代のあり方から大きく変質したということが改めて確認できるだろう。
表 ゴキブリ・ネズミ・ハエ・蚊への意識
『昭和38年度 保健衛生基礎調査報告』より作成
表にある七大都市とは東京都区部、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸、北九州を指す。常用労働者世帯は耕地面積3反未満で、家計が俸給によって支えられている世帯である。総じて農業世帯でハエや蚊・ネズミに悩まされる世帯が多い傾向にあり、ゴキブリは七大都市の常用労働者世帯で悩まされる家庭がそうではない家庭よりも多い。これは生活の変化が害虫相の変化を導いていく過渡期のデータであり、いろいろと興味深いものではあるのだが、難しい問題もある。「悩まされている」とはどういうことなのか、という問題である。質問票調査であり、「お宅では夏ハエに悩まされることは多いですか」などという設問で調査が行なわれたわけだが、「悩まされている/いない」の程度がわからない。ただ、「悩まされている」という回答が、「状況を明確に問題視している回答」なのだと捉えると、表の数値は深刻なものに見えてくる。それらがいることが自明であれば、「悩まされていない」ことになるだろう。ハエ・蚊にいたっては全体の半数ちかい家庭がそれらを取り除けたいのに「悩まされている」と述べているわけである。
みんなでハエ・蚊に立ち向かう!?
ハエ叩きやハエ取紙は家庭ごとの虫への備えであったが、ハエや蚊は「公共」の課題でもあった。発生源が公共空間にあったためであるし、そもそもキライだとか気持ち悪いという次元の話ではなく、ハエや蚊は感染症媒介昆虫であった。つまり、伝染病予防法において予防・駆除する必要のある虫たちだったわけである。健康で衛生的な暮らしを脅かす者として、駆除すべき科学的・法的な根拠があった。
そのため、ハエや蚊への対策には行政が取り組んでいた。戦前から、各市町村では衛生組合や衛生班などが害虫駆除にあたっていたのである。また、それは生活環境の改良・改善という課題と結び付くため、戦後には住民の自主的駆除が推奨されていく。例えば、1955年には鳩山一郎内閣が「蚊とはえのいない生活実践運動」を閣議決定し、国民の自主的な駆除運動が推進され、地域の町内会や自治会、婦人団体などがこれを担っていく。つまるところ、住民がみんなで協力して対処していた時代があったのである。
ハエや蚊は美観の問題としても敵視されていった。東京都では、1964年の東京オリンピック開催に向けて、「首都美化デー」なるものを設けるなどの都民運動が展開されていた。ここで掲げられていた課題がなかなか愉快である。「カミクズや吸いがらを捨てない」「タンやツバを吐きすてない」「ゴミの不法投棄をしない」「公衆便所などをよごさない」「家の前やまわりの道を清潔にする」「道にものをおいたり不正に使用しない」「イヌのふんは飼い主が始末する」「芝生や樹木を大事にする」「乗りもののなかをよごさない」などなど、現在の都民にも遵守していただきたいエチケットが求められるなかに、「家のなかやまわりのカとハエの発生源をなくし、ネズミやゴキブリ退治を共同でする」といったものが掲げられていた。
では、ハエや蚊の発生源をなくさないといけないとして、それはどこだったのだろうか。これにはとりわけ、排水、そしてゴミやし尿処理の問題が大きく関わっていた。今では目にする機会の減ったドブ川もハエ・蚊の温床であった。川は排水だけでなく、ゴミを捨てる場所だった。生活のなかにごみ収集システムが整備される以前、東北地方の某集落では、家庭のゴミを捨てるべき場所が集落の接する川の端の、ある場所に定められていた。ゴミは当然堆積していくが、水害のたびにそれが一掃されたものだったという。同集落の話者は蛇が嫌いで、そういうゴミ捨て場に蛇がよく出たのでイヤだったという。「ハエや蚊はどうでしたか」と聞くのをうっかり忘れたのだが、いっぱい飛んでいたのだろうと勝手に想像している。
ハエだらけになった教室内のハエ取紙(『アサヒグラフ』1965年7月16日号)
ハエ叩きをもって登校する児童(『アサヒグラフ』1965年7月16日号)
ゴミが収集される仕組みが出来上がったとしても、それが焼却されないままに集積されていると、そこからハエが発生する。東京都江東区の夢の島は、1957年からゴミの埋め立て処分場とされていたが、清掃工場の建設が不十分ななか、焼却を経ない生ゴミの直接投棄が続けられた結果、当然、ハエやネズミが大発生し、「ハエの天国」とまで称された。1965年には住宅街をハエの群れが襲う事態も発生していた。都は焦土作戦などと称して夢の島のゴミを重油で焼き払い、70年代には清掃工場におけるゴミ焼却が行き届くようになって、生ゴミの問題は解決されていった。いずれにしても、地方であれ東京であれ、今日の目から見れば非常に無造作にゴミを扱う時代があった点は相違しない。もっとも、これが問題化してくるのは、私たちが自然の浄化力が対応できないような速度と物量で、ゴミを産出するようになったことも関わっている。そして、大概の害虫は益虫でもあるという例にもれず、ハエも蚊も廃棄物を食べたり、水を浄化したりするのだという。とすれば、なんのことはない、ハエや蚊の発生も、結局は私たちの暮らしと共生しようとした、自然の側からの交渉であったといえるかもしれない。
さて、ゴミの処理は行政の事業として対処されていったが、地域住民が主体となる実践の場合、上記のような下水溝の改善やその清掃活動が中心となっていった。ところが、こうした地域住民による防除・駆除の取り組みは低調になっていく。地域の衛生改善が相応に実現したことはもちろんであるが、それに加え、人びとの意識が、こうした運動にそぐわないものになっていったらしいのである。すなわち、地域の共同性や自治への意識の希薄化が、この時期に問題化していった。石丸隆治は1968年の「害虫駆除に想う」(『環境整備特集』4)において、「都市近郊の新興住宅地は、苦情が多い割に連帯観念が少なく折角の休日を、殺虫剤の散布、側溝掃除等の奉仕に時間と労力を割くことは好まれない。それに新旧住民との間のゆう和を欠き住民活動に支障をきたしている」と述べている。近隣との連帯意識の薄い住民が増加することで、共同で駆除にあたることは困難になっていた。
もっとも、連帯などしなくても、生活はハエ・蚊のいない状況を実現していった。便所は水洗化された。糞便は家屋の至近に貯蔵されなくなっていった。ドブ川は暗渠化されていったし、下水の整備が進むのとあわせて、ゴミ収集やゴミ処理の仕組みが整うことで、身近なところに害虫の公共発生源は減っていた。また、各家庭にアルミサッシと網戸が普及すると、ハエ・蚊は家に入って来なくなった。もちろん、冷房設備が発達し、夏場に窓を開けて涼を取らなくても済むようになった点も重要である。私たちは家のなかに閉じこもることができるようになったわけである。興味深いのは、虫たちに対して、私たちはずっと「閉じこもる」という戦術を選択してきたかのように思われる点である。叩いたり、捕えたり、根絶したりするだけでなく、私たちは虫たちに侵入されない空間を身辺に確保することに力をいれてきた。例えば、蚊帳は近世に庶民の生活に普及した。それ以前の対処は蚊遣火(かやりび)の煙で虫を寄せ付けまいとするもので、これが明治時代に蚊取り線香に変わっていく。蚊遣火の煙も効きはするのだろうが、それにだけこの体を委ねるのは心許ない気がしてしまう。そう考えると、蚊帳は画期的な新文化だったのだろう。網戸を介してのみ外に開かれる現代の家屋は、虫への対策という点ではこの延長線上にあるのではないか。蚊帳のなかに蚊の侵入を許してしまったときの苛立ちと、家のなかに虫の侵入を許してしまったときの苛立ちは、どこか地続きのもののように思われてならないのである。
窓さえ開かなければ、または家への出入りにさえ気を付ければ、ハエ・蚊は屋内生活の悩みではなくなっていった。ただし、私たちが虫に悩まなくなったわけではないことは、皆さんも実感されるところだと思う。先述のように、私たちを悩ます虫の種類は変化した。公共発生源に由来しない、つまり各家庭に発生し、各家庭で対処すべき虫たちが、害虫の代表に置き換わっていくのである。
連載第4回はこのあたりで締めることにするが、この話は次回の話題にも接続していくことになる。害虫はどこに発生し、それは誰がどのような責任で駆除するのか、という問題を意識しつつ、次回はまた別の虫を取り上げてみよう。
【参考文献】
石丸隆治 1968 「害虫駆除に想う」『環境整備特集』4