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きらいだし、こわい、けれども……~害虫・害獣の民俗学~

きらいだし、こわい、けれども……

はじめに―民俗学の立場

この連載では、民俗学の立場から害虫・害獣の問題について考えていく。民俗学といえば、農山漁村の伝統的な生活文化の研究である、というイメージをお持ちの方も多いと思うが、柳田國男の『明治大正史世相篇』のように、同時代の世の中のあり方やあたりまえな暮らしの様態を、歴史的に考える学問分野としての性格もある。都市であろうが農村であろうが、人びとの日常のなかに研究対象を見つけ出していく分野なのだ、とお考えいただけたらと思う。したがって、身近なところ、ありふれた体験の中から問いを立ち上げていくのが民俗学の特徴であるともいえる。

そのため、この連載では農作物を食害するような、特定の職業において敵視すべき虫たちというよりは、現代において、誰しもが日常生活のなかで遭遇するかもしれないような虫たちを取り上げる予定である。

 

暮らしと害虫

「私の身近には害虫などいない」という人もいるかもしれない。私も暮らしのなかでそれほど害虫と遭遇するわけではない。そうすると、上でみたような民俗学の日常学という性格に、害虫という素材はそぐわないかのようである。しかし、私は日々の暮らしのなかで彼らと遭遇することをとてもおそれている。というか、大キライなのである。当たり前のようだが、ゴキブリに出られたら私は困る。蜂にも刺されたくない。セーターをかじられたら腹が立つ。セーターをかじるのはカツオブシムシの幼虫である。彼らと何度か対面したことがあるが、非常に気色が悪い。部屋はきれいに片付けて、軒先には蜂の営巣がないか気にかけ、クローゼットには防虫剤も欠かさない。つまり、さほど害虫が出ないとはいえ、私の暮らしは「リスク」として、つまり可能性として、虫たちを意識しながら営まれている。できるかぎり、彼らの侵入を最小限にとどめるために、色々と考えながら暮らしている。私の暮らしの一部は、彼らとの遭遇可能性を意識することによって組み立てられている。

ゴキブリが出る家は不衛生である、というわけではないと思う。衛生的に問題のない飲食店にもネズミは出る。彼らはちょっとしたきっかけで「侵入」してくる。侵入されると、住まいや店舗の衛生状況が乱されるので、やはりこれは駆除しなければならない。屋外にも虫を誘引するものたちがある。庭に花を植えると、それはそれで虫がくる。ナメクジなども現れる。ナメクジは気もちが悪いので、私は熱湯で殺すことにしている。しかし、待てよと思うのである。花には咲いてほしいけれども、ナメクジには来ないでほしいという私の心は、ちょっと都合が良いのではないだろうか。

暮らしのなかに自然があると気もちが良い。街路樹がたくさん植わっているまちを、私はそれなりに気に入っている。都会のごみごみとした景観に疲れて、ときたま自然豊かな土地を訪れると、良いところだなと思う。しかし、私は自然のまったき姿を受け入れているわけでは、ないようなのである。管理されて、私の暮らしに差し障りのない範囲に部分化された、彩り程度の自然が好ましいのであって、私は不都合な自然を徹底的に回避し排除せねば気が済まないと思っているらしい。私たちの暮らしを快適に成立させるために、あらかじめ排除されている、または即時に駆除されるもののなかに、害虫や害獣がいるということになる。または、そのように排除すべき、防除すべき自然への名づけが害虫や害獣なのだということもできるだろう。

考えてみれば、害虫たちはそれ自体としては害虫ではない。衛生というのも、人間の都合であり、清潔に暮らしたい、健康被害を避けたいという私たちの願いへの名づけである。つまり、彼らが害虫であるのは、私たちの生活との接点で、有「害」視されるからである。それが有害だと思うのは、なにかを避けたいからであり、それを取り除きたいと思うからである。または、それのない暮らしが好ましいと感じるからである。言い換えれば、私たちがなんらかの理想や願いのもとで、生活の周辺からなにかを取り除こうとする手つき、寄せつけまいとする意識が、彼らを「害」虫に変えていることになる。

 

不快害虫

こうした問題を考えるうえで、わかりやすいのは不快害虫(nuisance)という言葉である。害虫には感染症を媒介する媒介害虫(vector)とか、かんだり刺したりする虫たち、また、農作物を食害する農業害虫など、いろいろな分け方があるが、不快害虫は「精神的に不快な気もち」にさせるものが該当する。これは個人がどの程度、どのように虫がキライなのか、迷惑の感じ方によって、だいぶ左右される。例えば、カマドウマは不快害虫であるらしい。ある調査で入手した、ゴキブリはたいして怖くはないが、カマドウマが怖いという話者の発言を引用してみよう。1984年、福島県生まれの男性のデータである。以下は筆者の調査依頼に対し、メールで回答されたものである[及川2022]。掲載にあたって一部表記を修正した。

カマドウマ(便所コオロギとはあまり言わなかったなぁ)、もう最悪です。奴らは一人の所を狙ってきます。人の居住スペースにはあまりおらず、むかしの家ならではの、玄関を出て別の家屋にあるトイレやお風呂にいます。夜います。尻を出してるとき目が合います。全裸で湯船に入る瞬間! 気が緩み、かつ片足をあげ不安定な所でにらみつけてきます。薪式の古いお風呂はにおいも風情も大好きでしたが、入るまでが寒いってのと奴らが出るのだけが不満でした。奴らは跳ねるのですが、バッタより素早く(おそらく)飛んでる姿が見えないので、瞬間移動しているように感じます。てか、してます。にらみ合いになるのは目を離すと、全く思いも寄らない場所に移動してるからです。腹のシマシマもグロテスクです。東京来るまではろくに見たこともないゴキブリより、カマドウマのほうが恐怖でした。

カマドウマはバッタ目の昆虫で、暗くて湿った場所に生息する。都市部で暮らしているとあまり見ないかもしれないが、東京にも棲息している。ただ、カマドウマは私にはどうも縁遠く、調査先の屋外では何度も出会ったことはあるが、自宅に出て困るという実感はない。しかし、風呂場に出たら……と思うと鳥肌がたつ。

都市部ではカメムシも不快害虫である。これは農業害虫としての側面もあり、自治体によっては駆除剤の購入を助成しているが、都市生活においては家屋の開口部から侵入してくる厄介な虫という程度であろう。ただ、カメムシは「屁臭虫」などと俗称されることもあり、刺激するとイヤなにおいを発するので忌避される。ところによっては、ホテルの窓などに「カメムシが入ってくるので開放しないでください」と張り紙されている場合がある。においの問題を度外視すると、彼らのすることとは「入ってこないでほしいところ」に「入ってくる」ということでしかないようである。

彼らにおびえ、時としてその命に手を掛けなければならないという気持ちが私たちにもたらされる理由のひとつは、彼らが暮らしへの「侵入者」だからであろう。私たちの領域意識が、彼らを「害虫」に変える。しかし、その領域をどのようなものとして考えるかは、時代とともに変化してきた面があり、また人によって異なる。上に例示した福島県の事例は、昔ながらの民家であったので、縁側をはじめ、家屋に開口部が多い。カメムシなども当たり前のように屋内にいたという。しかし、話者の祖父母はくさいから触るなよ、と注意する程度で、これを殺したり屋外に追いやろうとはしていなかったという。カメムシ程度のものは屋内に入ってきても問題のない、当たり前の存在だったというわけである。

高度に気密性の確保された現代風の住まいとは、異質な領域意識があるといえるだろう。つまり、彼らが「侵入者」になってしまうのは、私たちが家屋の内外の区切りを厳重にし、その境界線が守られるべきことを意識しているからである、ともいえる。だとすれば、これらの虫は私たちの住まい方の意識変化によって、「害虫」になった、ということになるだろう。逆に言えば、彼らは「侵入者」でしかない。私たちが自閉したい線からこちら側へと、踏み越えてくるだけの生き物ということになる。

 

Taiki-Ishikawa on Unsplash

 

おわりに―民俗学で考える意味

この連載は「きらいだし、こわい、けれども……」というタイトルにしたが、ここまでの内容で、おおよそ意味は通じたのではないだろうか。虫たちが「害虫」となり、動物たちが「害獣」になるのは、それらの生き物が私たちの生活と接点をもつ局面において、である。そのような接点で立ち現れる嫌悪感や恐怖心は、それらの虫や鳥獣そのものを照射するよりは、私たち自身のことを照射している。私たちの生活が、どのような理想のもとで組み立てられ、どうあることを自明としているかによって、彼らは害悪視されもするし、そうではない場合もあるわけである。

もっとも、虫たちの命を大切にしないといけません、ということは本連載の主旨ではない。そういう主張をするためなら、彼らも生き物なのです、という一行で済んでしまう。実は、本連載のタイトルは「生き物は大事にしないといけません、とは言うけども」に付け替えたとしても、一向にかまわないのである。そもそも、「それは命だ」では割り切れない生活を私たちは送っている。そして、こわいものはこわいし、キライなものはキライである。そのような臆病で、理不尽でごう慢な私の心を認めたうえで、そういう心のあり様をあれこれと考えることを本連載では試みてみたいのである。

実際、いろいろな人に害虫に関する調査をしてみると、このように小さな命を恐れ、殺さなければならない私の体験や心の動きは、この世界で孤立したものではないらしいことがわかる。多くの人が防虫に心をくだき、殺虫剤を家庭に常備する。もちろん個人や居住環境によって事情は違うのだが、この時代の、ありふれた暮らしのなかに、通有する体験や感覚として、こうした虫たちへの忌避的な態度があるといえそうである。民俗学の立場からは、そうした体験や感覚は、歴史的にはどう位置づけられるのかを考えることになる。そうすると、私たちが彼らを拒絶するに至った「脈絡」が見えてくる。私たちが彼らを忌避しなければならない、私たちの側の都合も明らかになる。

それがわかったからといって、明日から私が突如として虫を愛づる紳士に変貌するわけではない。だからこそ、この問題は、聖者のように生きてはいられない私たちというものを考える手がかりになる。少なくとも、私たちがどのように身勝手であり得るかということについて知るところから、彼らとの関係は見直せるのではあるまいか、と思うのである。この世界で、私たちは私たちが感情的に嫌悪する一切と、ともにあらねばならないわけであるから。

そんな課題意識を念頭に、次回は、虫や獣たちに冠せられる「害」という言葉について、考えてみたい。

 

【参考文献】

及川祥平(2022)「ゴキブリをめぐる体験の語り」『現在学研究』(9)

柳田國男(1998)「明治大正史世相篇」『柳田國男全集 5』 筑摩書房

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著者略歴

  1. 及川 祥平(おいかわ・しょうへい)

    成城大学文芸学部准教授。
    1983年、北海道生まれ。成城大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。
    専門は民俗学(民俗信仰論・現代民俗論)。主な著作は『偉人崇拝の民俗学』(2017年、勉誠出版)、『民俗学の思考法』(共編著、2021年、慶應義塾大学出版会)など。

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