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トランスジェンダー問題――議論は正義のために

イントロダクション 見られるが聞かれない

 トランスジェンダーが直面する困難を事実に基づいて取り上げるとともに、すべての人に影響する社会正義の問題として論じる書籍『トランスジェンダー問題――議論は正義のために』(ショーン・フェイ著、高井ゆと里訳)。ここでは、本書より「イントロダクション 見られるが聞かれない」の全文を公開いたします。

※webあかしでの掲載に際し、一部の表記方法を変更しております。


ミスター・アプトンは最近、人生を変える大きな決断を下し、女性として生きるための性別移行を始めることになりました。クリスマス休暇が明けたとき、彼女はミス・メドゥスとして仕事に戻ります。

 ランカシャー州アクリントンにある、聖メアリ・マグダレン学校の保護者向けニュースレターに記載されたこの短い告知文は、簡単に読み飛ばされるほどのものだった。この一文は、2012年のクリスマス休暇の始まりにあたって告知された、それ以外の多くのスタッフの身分変更についての情報のただなかに何気なく埋もれていた。ある1年生の担任の先生は、フルタイム勤務へと勤務時間を増やすことになった。別の先生は、勤務時間を減らすことにした。ある先生は、スペインに新しい仕事を得たので学校を去ることになった。そして、ある先生は女性になり始めた。学校長であるカレン・ハードマンが後に認めたことによると、ミス・メドゥスの性別移行は学校のコミュニティの「興味関心を掻き立てるに違いない」と、彼女は考えていた。ひょっとすると、この告知文がスタッフたちについての相対的に当たり障りのない身分変更のリストのなかに置かれていたのは、行きすぎた反応をできるだけ抑えたいという願いがあってのことだったかもしれない。あるいは、スタッフの一員による性別移行がセンセーショナルに取り上げられることを避けるためだったかもしれない。そうだったとすれば、それは無駄な願いに終わった。

 学校のニュースレターが発行されてほんの数日のうちに、ルーシー・メドゥスという、彼女が性別移行後にそう呼ばれたいと願っていた名前は、以前の彼女の男性的な名前とともに国中にばら撒かれた。あっという間に、ジャーナリストたちが彼女の家を取り囲んだ。3ヶ月のうちに、ルーシー・メドゥスは自宅の階段下で亡くなっているのが見つかった。32歳。彼女は自ら命を絶った。

 学校と校長は、公にはルーシー・メドゥスを最大限サポートしようと努力したが、学校が出した文章は予想もできなかった興奮の波を引き起こした。最初の反応は、地元の新聞アクリントン・オブザーバーからだった。この地方紙は、その告知文によってどれほど「大きな懸念が、男性としての彼(原文ママ)をすでに知ってしまっている児童たちが困惑すると語る保護者たちから寄せられているか」を報じた。記事では、ルーシー・メドゥスも声明文を出していると付け加えられていたが、その声明文で彼女は「学校の責任者と同僚たちのサポートに感謝しており、彼の(原文ママ)プライバシーが守られることを求めている」とされた。

 その記事の翌日には、このストーリーは国中に広まった。そのときにはもう、抑制の効いた調子ではなくなっていた。デイリー・メールのコラムニストであるリチャード・リトルジョンは、週刊コラムの見出しで「彼は誤った身体に生まれただけでない、…誤った仕事に就いたのだ」と声高に叫んだ。そのコラムは、メドゥスに対する攻撃のために書かれていた。メドゥスを一貫して男性名で呼び、そこに男性の代名詞を添えるという、このコラムニストの言葉の調子は侮蔑的なものだった。「彼はピンクのネイルマニキュアと派手なヘッドバンドを身に着けて教室に現れた」。メドゥスについて、リトルジョンはそう書いている。「その学校は、『平等と多様性(ダイバーシティ)への献身(コミットメント)』を心の底から誇りに思っているのかもしれない」。彼はそう嘲笑った。「しかし、こうしたこと全てが、本当に大切な人たちにとってどれだけ破滅的な影響を与えるか、一瞬でも立ち止まって考えた人はいなかったのだろうか。7歳ほどの幼い子どもたちには、こんな情報を処理する能力など備わっていない」。リトルジョンは、トランスの人々が「性転換しようとする」権利を擁護すると頑なに主張するが、にもかかわらず、子どもたちが混乱するかもしれないという理由で、彼は社会ではなくメドゥス自身を責めたてる。「聖メアリ・マグダレン学校に復職したいと言いながら、彼は自分がここ数年間教壇に立って教えてきた子どもたちの福祉よりも、自分の自己中心的な要求を前面に出し続けている。自分がお金をもらって教えている子どもたちの感性にこれほど関心がないのなら、彼は誤った身体に閉じ込められただけでなく、誤った仕事に就いたのだ」。

 このデイリー・メールのコラムが、メディアスクラムの口火を切った。レポーターたちがメドゥスの家に張りついて待ち構えた。子どもたちの送迎のために学校に来た保護者たちは、否定的なコメントによってハラスメントを受けた。そして、メドゥスが友人たちに告げたところによれば、メドゥスに対してサポーティブな意見をジャーナリストに述べようとした人たちは、無視された。2013年の元日に友人に送ったメールで、彼女は次のように書いている。「私の写真を撮ることができた保護者に金銭を支払うという取引を持ちかけている報道機関があるのを知っています」。最終的に、思い通りの絵面を手にできなかったメディアはメドゥスのきょうだいのFacebookのページから許可なく昔の写真を拾い出し、それを流出させた。性別移行後のメドゥスの姿を描いた5年生の児童の絵は、彼女を守るために学校のウェブサイトから取り除かれていたにもかかわらず、キャッシュをたどって見つけ出された(先ほどのリトルジョンの記事はこの絵を使っている)。トランスであることをカムアウトする以前に、メドゥスは元パートナーであるルースとの間に息子をもうけていたが、ルースが後に言うには、とりわけ親友の死と、自分の性別移行にともなう疲労、そしてメディア報道に耐えることのために、メドゥスは非常に落ち込んでいた。事実、死のかなり前から、メドゥスの自殺願望は大きくなっていた。2013年2月7日、彼女は命を絶とうとして失敗した。その1ヶ月後、彼女は再び自殺を試みた。今度は、その試みから彼女が生還することはなかった。

 下品で不当な仕方で彼女のプライバシーが侵害されたことがルーシー・メドゥスの自殺した唯一の理由であるというのは、ものごとを単純化しすぎている。トランスの人々は、一般集団よりも高い割合で自殺を試みる傾向にある。実際、統計は強く警告を発している。UKの慈善団体ストーンウォールが2017年に公表した調査によれば、若いトランスの45%が、少なくとも一度は自殺を試みたことがある。しかし統計の背後には一人ひとりの個人がいる。一人ひとり、私生活で苦しみ、難しい人間生活を送っているトランスがいる。こうした悲劇を説明するためのたった1つのシンプルな説明など、ありはしない。とはいえ、私たちは確かに次のように言うことができる。彼女の人生の最後の1ヶ月間、彼女が十分すぎるくらいの精神の苦難を経験しなければならなかったその最後の1ヶ月間、ルーシー・メドゥスは英国メディアによって虐げられ、ハラスメントを受け、嘲られ、悪魔化されていたのだ。彼女の死は、英国のトランスコミュニティの歴史における最も暗い1章であり続け、そしてまた、英国タブロイド紙の長きにわたる恥ずべき歴史のなかでも最も恥ずべきエピソードの1つであり続けている。たとえ彼女が違った仕方で格闘したとしても、メドゥスは公の人物でもなければセレブでもなかったし、そうなりたいと望んだことなど一度もなかった。彼女は長く自分のジェンダーとの個人的な苦闘を続けていたのであり、彼女の性別移行の決断は、誰に聞いても決して軽々しくなされたものではなかった。彼女は何をしたのか。トランスであること。自分自身に対して正直であること。彼女が得意だった学校での仕事、彼女に対してサポーティブだったその学校での仕事を続けること。それが彼女のしたことの全てだった。彼女のストーリーは、公共の利害とは無関係のものだった。彼女の死について調査した調査官マイケル・シングルトンは、メドゥスの取り上げ方についてメディアは恥を知るべきだと述べた。裁定をまとめるにあたり、シングルトンは裁判所の廊下に集まった報道機関の方を振り返り、こう言った。「あなたたち全員、恥を知れ」。

 ルーシー・メドゥスのストーリーの最も醜い側面は、そのストーリーの大部分が予見できたということである。クリスマスのニュースレターでメドゥスの性別移行が告知される1年前の2011年12月。ニュース・インターナショナルによる電話ハッキングのスキャンダルを受けて設立された、英国の報道機関の監査を行う司法調査機関リーブソン調査団は、トランス・メディア・ウォッチから書面での申し入れを受け取った。トランス・メディア・ウォッチは、トランスジェンダー問題に関するメディア報道のあり方の改善を後押しすることを目的として、2009年に創設された慈善団体である。その申し入れでは、いかに英国の報道機関が制度としてトランスの個人を誤って表象し、中傷しているか、あるいはまたおもちゃにしているかが詳しく述べられた。それらは、背筋が凍るほど明確にルーシー・メドゥスの事例を予言していた。「報道機関の成員は、これから先もずっと、自分たちが社会をよくするための権力になり得ることを否定しようと思わないだろう」。そのように申し入れ書は述べる。「しかし、トランスジェンダーの人々に関しては、報道機関の人々は道徳警察を自称しながら広範囲にわたって振る舞っている。こうした状況についての報道機関側の自己弁護は、自分たちはただ世間の不安を映しているだけだ、というものである。そうして報道機関は、そのような不安を創りだし、また形作っている自分たちの役割を初めから軽く扱うのである」。トランス・メディア・ウォッチが調査団に対して述べたことによれば、報道機関はこれを2つの仕方で行っている。第1に、馬鹿にしたような見出しと侮辱的な言葉遣いによって、嘲りと侮蔑の雰囲気を創りだし、それを保持する。こうして、特にオンライン上での世間からのいじめを招き寄せる。第2に、力づくで個人の生活に押し入る空気を保つのに都合のよい、トランスジェンダーの人やその家族を選び出す。トランス・メディア・ウォッチはその調査団に対し、トランスの人たちのよりよい保護を勧告するよう求めた。そのなかには、報道対象が公的人物でなかった場合の匿名性の保護や、よりよい規制、そして司法制度の利用のしやすさの改善などが含まれていた。しかし今日に至るまで、それらの勧告内容は履行されていない。

 ルーシー・メドゥスの死後、トランスの人々に対する英国メディアの長きにわたる残酷な扱い方が改善されるのでは、という希望がわずかに存在した。「『彼女の』秘密が暴かれた」という見出しとともに、サンデー・ピープル紙がトランスのモデルであるエイプル・アシュレィについてアウティングしたのは、1961年のことである。それによって、彼女は一時的にモデルとしてのキャリアを中断することになった。それ以来、メディアはトランスたちについての情報を世間に伝えることには関心をもたず、嘲りと疑いの眼差しによって利潤を生み出すサイクルを作り上げることに関心を払いがちだった。しかし、ルーシー・メドゥスの死以来、トランスの個人に対する報道の扱い方にはわずかな改善が見られた。一方で、そうして得られたものは、それとは別の現象が劇的に現れたことで、いともたやすく打ち消された。マイノリティ集団としてのトランスたちに対する、報道機関の敵意が激増したのである。

 2010年代の終わりには、トランスの人々は真っ赤な題字のタブロイド紙のページに登場する、一時期流行(はやり)のフリークショー*1ではなくなっていた。むしろ私たちは、ほとんど全ての主要な日刊新聞の見出しに毎日のように現れるようになった。私たちはもはや、馬鹿げているとはいえ害のない、「性転換」した田舎の機械工としては描かれなくなった。いまや私たちは、社会制度を手中に収め、公共生活を支配する、新規で強力な「イデオロギー」の推進者として描写されるようになった。私たちはもはやからかいの対象ではなくなり、恐怖されるべきものになった。ルーシー・メドゥスの検死が終わってすぐ、トランスの人々に対するいじめに光を当てるための束の間の機会は消え去った。捜査が行われている数年の間に、メディアは物語をひっくり返した。「いじめっ子は、トランスたちの方だ」。メドゥスの死から5年後、英国で最も尊敬されている新聞の1つであるタイムズ紙すらも、軽蔑した態度で次のような見出しを流した。「マイノリティ集団を支援するための意義ある運動は、趣味の悪いかつらと網タイツを着た1つのマッカーシズムとなった。いじめっ子と荒らし(トロル)、そして面白くもないミソジニストたちの集団のせいで」。これは、トランスたちについての2018年の記事の1つである。「何か『トランスジェンダー』について意見を言えなくなるくらい、あなたが恐怖を感じている? 素晴らしい! それこそがいじめっ子たちがやりたいことだ」。

*1 原語は「freak show」。奇異な外見を持つとされる、障害者や有色の人々、また動物などを展覧することで集客する見世物小屋のこと。障害者差別や人種差別の歴史とも深く結びついたこのフリークショーを、フェイがトランスたちの扱われ方に言及する文脈で引き合いに出しているのである。

 英国は、トランスジェンダーの人々の「問題」に関する、国を挙げた熱い談義(おしゃべり)の真っただ中にある。ブレグジット〔英国のEU離脱〕と、最近であればコロナウイルスのパンデミックを除いて、これほど継続的に、繰り返し大衆メディア報道の高い注目を集めたトピックは、おそらくこの数年間に存在しない。2020年だけでも、タイムズ紙とその姉妹紙であるサンデー・タイムズ紙の間で、トランスの人々について300以上の記事が――つまりほぼ毎日――飛び交った。駅で配布している無料の新聞「メトロ」も、2018年には性別承認法の改正への反対を世間に訴えるキャンペーングループの一面広告を掲載した。この法改正は、ヨーロッパの他の国々に揃えるかたちで、法的な性別の変更のプロセスを手間と侵襲の少ないものにするための改正だった。前年には、タブロイド紙デイリー・スターが完全に誤ったストーリーを描く連載記事を掲載した。記事では、チャイルド・マレスターとして悪名高いイアン・ハントリーがトランスジェンダーだったとされた。この連載は、最終的にこのストーリーが虚偽だと認められるまで続いた。それは連載開始から2年後のことだった。

 同じ頃、トランスの問題についてのテレビ討論(ディベート)が、「グッドモーニング・ブリテン」や「ディス・モーニング」、「ヴィクトリア・ダービーシャー」、「ルース・ウィメン」などの日中の時間帯のテレビ番組においてもお決まりのトピックとして居座るようになった。これらの番組のホストは、まじめくさった顔で、トランスの人々が公共生活に完全に参加する権利があるかどうか考えてみせた。2018年の5月には、チャンネル4が「ジェンダー激震」を放映。「トランスジェンダー問題」についてのライブ討論(ディベート)を行うこの番組は非常にトランスに敵対的であり、番組ではトランスの参加者たちがあからさまな侮辱と共に質問攻めに遭い、その様子がプライムタイムのテレビで生放送された。そのため、200件以上の苦情がオフコム*2には寄せられた。

*2 「オフコム」(Ofcom)は、イギリスの通信・放送の規律監督を行う機関。

 この流れに、当然のようにセレブたちも加わった。2017年の「グッドモーニング・ブリテン」で、テレビ司会者のピアーズ・モーガンは2人のトランスのゲストに対し、トランスのアイデンティティなど「ちんぷんかんぷんな文字列」にすぎないのでは、と問いかけた。さらに彼は、あろうことか生放送で、自分も「黒人女性」や「象」にアイデンティファイすることができるだろうか、と首をかしげて見せた。こうして彼が起こした喧噪は、当然のようにTwitterに流れ込んだ。一方、2020年の6月には、歴史上最も成功を収めた英国の作家であるJ. K. ローリングが、自身のウェブサイトに「TERF戦争」というエッセイを公開、国をまたいだ論争に自らの身を投じた。トランスたちのアイデンティティに関するローリングの立場は、マヤ・フォステーターに対する公的な支持を表明した2019年の12月からすでに論争を巻き起こしていた。マヤ・フォステーターは、雇用者によってトランスフォビックであると判断されたツイートへの監査を経てシンクタンクでの職を失った、税の専門家である。「私は現在のトランスアクティヴィズムの帰結を深く憂慮しています」。そのようにローリングは書く。「私が心配しているのは、若い女性たちの間で性別を移行したいという願いが爆発的に増えていることです。そして、場合によっては自分の身体を不可逆的に変化させてしまう道を進んだことを後悔し、デトランス(元の性別に戻ること)をしているらしい人の数が増大していることも心配しています」。トランスの女性が女性であることに対するローリングの批判は、これよりもさらに雑なものである。「『女性』はコスチュームではない。『女性』は、男性の頭の中にある観念ではない。『女性』は、ピンクの脳のことでもなければ、ジミー・チュウの靴を好きになることでもないし、進歩的であるとしてどうやら近ごろ賞賛されているらしい、性差別的な観念のいずれでもない」。

 トランスの人々に対する意見を得意げに持ち出して議論がなされるとき、頼りになるもう1人の英国セレブがリッキー・ジャーベスである。「私たちは女性の権利を守る必要がある。一方の性の全体を支配し、悪魔化するための、新しい狡猾な手段を発見してしまった男性のせいで、女性の権利が減じられるべきではない」。これは、トランスの人々の存在についてジャーベスが見解を示した、最初のものではなかった。ジャーベスは以前にも、トランスたちの身体はそれ自体で馬鹿げたものであるという考えを利用したジョークをツイートしていた。「全ての女性には、自分のコックを誰でも好きな相手に紹介する権利があって当然だ」*3。このジョークは、ジャーベスがこの主題に関してどういったタイプのユーモアを持っていたかを教えている。驚くに値しないことだが、モーガンやローリング、ジャーベス――この3人のTwitterのフォロワーの合計は3600万人にも上る――がやっているような、トランスのアイデンティティに対するしばしば軽薄な、公然とした疑問の提示は、「トランスの人々は格好の標的である」という感覚を世間のイマジネーションのなかでますます強化した。

*3 英語で料理人(コック)を指す「cock」は、隠語としてペニス(陰茎)を指すことがあり、それを踏まえた醜悪な冗談である。

 同様の変化は、政治にも見られた。2019年のUK総選挙の運動の間、自由民主党*4の党首ジョー・スウィンソンは、彼女のトランス問題に対する進歩的な立場について、繰り返しメディアで異議申し立てを受けた。こうした問いかけは、それに続く2020年の労働党の党首選への下地を作った。党首選の全ての候補者が、トランスの権利について尋ねられたのである。トランスの人々は突如として、誰もがそれについて意見を持っていなければならない問題となった。男性や女性であるとはどのような意味か? なにか自分とはまったく別のものとして自分の存在を主張するとはどのようなことか? もし、自分自身のジェンダーを決めることができるのなら、人種についても同じことが言えるのか? 白人が黒人を「自認(アイデンティファイ)」することなどできるのか? トランスの子どもたちは、自分の身体について不可逆的な決断をするよう急き立てられているのか? それとも、待ち時間が長くなっていることで子どもたちは必要なケアを受けられないままに放置されているのか? ジェンダーの境界を越える人々は、腕を広げて受け入れるべき存在なのか、それとも恐怖の対象なのか?

*4 UKにある「自由民主党」(Liberal Democrats)のことであり、日本の政党(自民党)のことではない。

 こうして英国は、周囲の音をかき消すほど大音量で行われる、トランスたちをめぐる談義(おしゃべり)に没頭する国となった。しかしまたもう1つ疑い得ないことは、私たちが続けてきた、そして現在も続けているそうした談義(おしゃべり)が、誤った談義(おしゃべり)だということである。私はこの間、メディアの内部で働くトランス女性であった。だから私はこれについて知っていることがある。私はLGBTQ+の組織の内部でトランスの権利のためにロビー活動をしながら働いていたことがあり、いくつかの新聞や雑誌でライターとして働いていたこともあるが、ラジオにせよテレビにせよ、あるいは活字においても、決まっていつも依頼されるのは、トランスたちの権利と自由を代表して、私が議論をすることである。私は、ほぼ必ずいつも、そうした誘いは断っている。理由は次の通りである。「トランスジェンダー問題」に関するメディアの方針は、トランスの正義や解放のための運動にしばしば冷笑的で、また助け船にならない。あらゆる証拠が示しているように、トランスの人々は生涯にわたって深刻な差別を経験しがちである。しかし、トランスコミュニティについて報じるメディア報道が、そうした集団の前に立ちはだかる現実の問題や課題について世間に正しい情報を与え、啓蒙しようとする欲求によって動機づけられていることはめったにない。今日、トランスたちに関係する典型的なニュース素材は、一方にトランス擁護派を配置し、他方に「懸念」を抱く人間を配置し、そうしてあたかも両陣営がその議論の対等な利害当事者であるかのようにして、論争を取り上げる。トランスたちにとって、ヘルスケアシステムは荒廃したものである。そのせいでトランスたちは、自らのジェンダーとメンタルヘルスへの影響に関して、絶望的に支援が不足した状況にさらされている。そしてここには、家族による拒絶やいじめ、ホームレスや失職などの、極めてありがちな問題からの影響が及んでいる。こうした荒廃したヘルスケアシステムに直面しているために、どのようなプラットフォームや回路であるにせよ、トランスの人々はメディアにこれらの問題を取り上げさせるよう試みてきた。しかし、無駄に終わった。その代わり私たちは、テレビのディベート番組に招待される。そこでの議題は、トランスたちが公衆トイレを使うことは許されるか否か、というものだ。トランスの人々は人間扱いされず、話の論点や概念の問題へと還元される。そこに「問題」がある限り、それは永遠に議論され、ディベートされるべきものなのである。明らかになったことがある。メディアがトランス問題を論じようとするとき、そこでメディアは、私たちと一緒にかれらの問題を論じたいのであり、私たちが直面している困難について論じたいわけではないのである。

 トランスたちの生存に影響する制度的な問題を取り上げようとするたび、私は何度もいらだちを覚え、沈黙させられることすらあった。それほど驚くべきことでもない。トランスの人々による強力なロビー活動があるというメディアの神話があるにもかかわらず、本書執筆時点で、UKにはトランスであることをオープンにしている新聞の編集者は誰もおらず、どの大新聞の記者にも、テレビのコメンテーターにも、高等裁判所の判事にも、下院議員にも、権限委譲を受けたウェールズやスコットランド、北アイルランドの議会の成員にも、大きな慈善団体の最高責任者にも、トランスの人はいない(「ジェンダード・インテリジェンス」という最近できた慈善団体の最高責任者であるジェイ・スチュワートは、英国の慈善団体でただ1人トランスであることをオープンにしている人物である。この団体は、特にトランスの問題に対する取り組みを行っている)。つまり、これは権力の問題である。トランスの人々に関して生み出される談義(おしゃべり)の言葉たちが、トランスの人々によって設定されることはめったにない。部分的には、これは英国におけるトランスの人口が小さいことによる。実際に、私たちはトランスの人口についての正確な数字すら分からない状況にある。公的機関によって用いられる「トランス」の定義に当てはまる人を全て含めた人数について、その最も大規模で包括的な推計に従うなら、UKには20万人から50万人くらいのトランスの人がいる。要するに、どのように見積もったとしても、私たちは人口の1%にも満たないのである。

 この本を手に取っている多くの人は、自分の知っている範囲でトランスパーソンとの継続的な交流を持っていないだろう。人間は、他者を理解したり他者に共感したりするにあたって、親密さを頼りにする。自分たちと関係があると思える人たちに向けて共感を広げることの方が、簡単なのである。他のマイノリティと同様に、トランスの人たちが平均的な人にとっては馴染みのない存在である以上、私たちがメディアの表象に頼る部分は大きくなる。そして、発言力はあるがトランスではない人々との政治的連帯を頼ることも多くなる。トランスではない、社会のその他の人々からの理解と共感を得られるようにするための適切な状況を作るべく、公的制度による従前からの支援にも大きく依存することになる。それと同じように、私たちはとりわけ、誤った情報や有害なステレオタイプの拡散、偏見に満ちた修辞の繰り返しによって傷つけられやすい。歴史上ずっとそうだったように、私たちを傷つけるそれらのものは、不幸なことに世間の文化に広く行き渡っている。トランスたちは差別され、ハラスメントを受け、世界中で暴力にさらされている。根深い偏見が、文化の織物に編み込まれ続けてきたからである。そうして、トランスたちに私たちが共感する能力や、あろうことかトランスの人を1人の人間として受け入れる能力すらもが、毒に犯されてきたからである。

 必要なのは理解だった。2010年代には、トランスコミュニティの多くの運動家や活動家は、絶望的に求められているこの理解が、よりよい表象や「可視性の政治」によって訪れるだろうという希望を抱いていた。文化や芸術の中にいる、一握りの選ばれしトランスたちの存在が、より多くの可視性をメディアの中で獲得すれば、そうした人たちの存在によってトランスたち全体がもっと身近なものになり、結果としてスティグマや誤解も減るかもしれない。そう考えたのである。USにおいて、トランスの可視性の政治のマイルストーンは2014年5月の『タイム』の表紙と共に訪れた。特集の表紙はラヴァーン・コックス。労働者階級の黒人のトランス女優であり、当時「オレンジ・イズ・ニュー・ブラック」〔Orange is the New Black〕というNetflixの人気テレビシリーズでトランスの役を演じていた。コックスの写真の横には、次のような見出しがついていた。「トランスジェンダーの転機。アメリカ市民権の次なるフロンティアはここだ」。写真と見出しはいずれも太く強調され、ためらいなくアイコン化されていた。コックスはトランスたちにとっての力強い擁護者となった。あの彼女の表紙と、2010年代半ばの同様の表象を取り巻く風潮のおかげで、多くのトランスたちが公的な場面でカムアウトし、オープンでいることをより歓迎されていると感じた(そこには私自身も含まれている)。しかし、そのように歓迎されていると感じた人たちはまた、コックスが個人としてセレブになっていくことに従って何が起きるか楽観視していた。その点で言えば、ものごとを単純化し、うぶだった。2年後、アメリカはドナルド・トランプを選んだ。トランプ政権は、アメリカのトランスたちが市民権とヘルスケアのアクセスの面で獲得してきた進歩を巻き戻すための、一連の反トランス的な立法措置を導入した。人種や社会階級、あるいは薬物やセックスワークなどの犯罪化された経済活動に参加しているという理由で州から「罪がある」と見なされる、ある種のトランスコミュニティにとっては特に、可視性と監視の増大とは非常に相性がよい。そのため、そうしたコミュニティにとって、より広く社会から見られることは、可能性としては解放的であるよりむしろ有害である。可視性の政治は、USのトランスコミュニティを助けることに完全に失敗したわけではない。しかし、それが(雑誌の表紙を飾ることなど永遠にない)大多数のトランスたちの生を向上させることに成功したというのは、ずいぶんと誇張された言い方である。

 2010年代中盤から後半にかけての英国でも、事情は同じだった。トランスたちは、ある程度までは一般の文化のなかで可視的になり始めた。「イーストエンダーズ」〔EastEnders〕や「エマーデイル」〔Emmerdale〕のような国民的人気を誇るメロドラマに、トランスの俳優がトランス役として起用された。トランスの人々が雑誌の表紙を飾ったり、ニュース番組のパネリストとして登場したりし始めた。他の多くの人もそうであるように、テレビのプロデューサーや新聞の編集者、そして「普通の」トランスたちを交えて、対立的な議論とは違った集まりを企画する「トランスの全て」〔All About Trans〕のような新しい組織に、私も自発的にかかわっていた。これらはいくらかのポジティブな利益を生みはしたが、その成功はメディア組織の中の特定の個人の善意に大いに依存しており、また「きちんとした印象」を与えることのできる、「きちんとした種類の」トランスに依存していた。(なんであれ)きちんとした見た目で、きちんとした仕方で話したり振る舞ったりすることが必要なのである。

 伝統的なメディアの内部でよりよい表象を獲得するための、組織化され、慎重に練られたこうした取り組みに、ソーシャルメディア・ネットワークの爆発的な普及が併行した。これにより、トランス同士で会話できる範囲は拡がり、自分自身の意見を持ち、自分たちをオンラインで政治的に組織化できるトランスが増えた。それ以前は、地理的な事情と、トランスとしてのアイデンティティについて口を閉ざしていなければならない必要性から、多くのトランスたちはコミュニティの取り組みに参加することを阻まれていた。オンラインのトランスのサブカルチャーが多様に存在し、また高度に利用されるという事態が急拡大したことは、伝統的なメディアの中のほとんどのコメンテーターたちにとっては驚くべきことだった。突如として、Twitterのようなプラットフォームが、トランスたちに反論へのアクセスを与え、また足かせを解き放たれたような反論の権利をもたらした。メディア報道の問題を指摘するために、誰もが1人の個人として一筆書かなければならなかったかつての時代とは大違いである。いまや、メディアのプラットフォームにかかわる人々が誤った情報を公にして、責任を問われないままでいることはできなくなった。メディアの人々は、異議申し立てを受け、公的に説明の責任を負うようになった。英国のご意見番には、この新しい説明責任に容易に順応した者もいれば、そうでない者もいた。メディアで働く35歳以下の私たちのほとんどにとっては、こんなことはとっくに知っていることだった。しかし、こうした世間からの異議申し立てに対して敵対的に反応する人もいた。そうした人々によって、ソーシャルメディアのプラットフォーム上で活動的なトランスの人々は「怒り狂った活動家」や「論争を黙らせようとしているモブ」、あるいはタイムズ紙がそう試みたように、単純に「いじめっ子」として非難されることになった。

 トランスの人々とその権利についての、ソーシャルメディアのプラットフォーム上でのますます分断の深まる議論は、メディアの怒りのサイクルにとって有益だった。2010年代の末には、この怒りのサイクルはクリック稼ぎの釣り文句、シェア、熱狂、切り抜きによるサウンドバイトなどによって経済的に駆動されていた。多くのトランスたちは、初めは表象と可視性を民主化する力がソーシャルメディアにはあるという希望を持っていたものの、多くの人は疲れ果て、ますます有害さを増すオンライン環境によって、やる気をくじかれて終わった。目につきやすいトランスのソーシャルメディアユーザーは、オンライン環境では日常的ないじめとハラスメントに耐えることが求められる。主流のメディアにおいてそうであるように、オンラインでも、可視性のポリティクスはせいぜい限定的にしか成功しなかった。

 表象の面での不平等を軽減することに、可視性は役立った。しかし可視性それ自体は、再分配の正義とは無関係である。再分配の正義は、より大きく、より複雑で、突き詰めればより重要性のある闘いである。その闘いの目的は、国家による暴力(警察からのハラスメントや刑務所への収容、強制送還など)や貧困、収奪などに抵抗する闘いの渦中にある、最も立場の弱いトランスのコミュニティのために資源を再配分することであり、そして、よりよい労働条件を獲得することである。かつて英国のトランスたちがこうした闘いに加わった、最も注目すべき連帯は「トランスジェンダーの平等を調査する女性と平等の特別委員会*5」であった。これは、英国人のトランスであることの政治的現実を調査するために立ち上がった超党派の議会審査であり、2016年の1月にその調査結果が公表された。調査団の結論によれば、UKにおいてトランスの平等を実現するには、「対処されるべき問題の、複雑かつ広範囲にわたる階層関係が存在する」。そして、調査団は力を込めて次のように述べた。トランスの人々は、見捨てられているのだと。

*5 「トランスジェンダーの平等を調査する女性と平等の特別委員会」と訳したのは、「The Women and Equalities Select Committee Inquiry on Transgender Equality」。

公正と平等の原則を掲げる社会にとってのリトマス試験紙は、全ての市民の権利と利益をどれだけその社会が支え、守ることができているかにある。たとえその市民が、最も周縁化された集団であるとしても。(…)私たちの社会は、歓迎するむきが近年進んだにもかかわらず、トランスの人々に関してはこの試験を落第し続けている。

 この報告書は、トランスたちの生を良くするための、立法と政策面での変革を広範囲にわたっていくつも勧告した。それは多くの領域にかかわっており、ヘルスケアから学校、ヘイトクライム、そしてトランスの受刑者のケアにまで及んだ。しかしながら、今日これらの勧告のいずれも実現されておらず、予見できる未来において、そのいずれかでも実現できる見込みはない。さらに言えば、その報告書が公表されて以降、トランスたちの状況は多くの点で悪化した。当時、テレッサ・メィ率いる保守党政権は報告書の中の勧告の1つを採用することに同意していた。2004年に成立した性別承認法の改正である。この法律は、ある種のトランスたちが法的な性別を変更し、出生証明書を取り換えることができるようにするためのプロセスを定めたものである。このプロセスをよりアクセシブルにし、より病理化しないかたちに変更すべく、先のトランス調査団は医師からの詳細な医学的証拠を求めるという要件の除去を勧告していた。NHS*6や学校などに勧告された、より深く制度にかかわる改正よりも実現のコストが少ない、この簡単な法改正によって、待ちに待った支持率上昇の機会が低調な政権運営にもたらされるとメィは期待した。そうして、彼女に先立つディヴィッド・キャメロンが同性婚の導入によってなしえたように、進歩的保守派という栄誉を手に入れることを彼女は期待したのである。

*6 英国の国民保健サービスのこと。

 しかし改正案が先延ばしにされる間に、メディアのバックラッシュは想像を絶するものとなった。女性と子どもの安全を守ると主張する、いくつもの草の根の運動団体が、改正案の阻止のための断固とした運動を展開した。それらの団体は、性別承認のプロセスをより人道にかなったものにすれば、シスジェンダー女性や子どもたちなどの傷つけられやすい人々に性的な侵略者(プレデター)が接近することを許すことになると主張した。この問題は、極めて見世物じみた仕方で波乱を引き起こし、性別承認法の改正をどうするのがベストなのかについて、政府が2018年に公衆に意見を求めた際には、10万を超える回答が寄せられた。そのほとんどは改正に前向きだったが、改正に反対する運動グループからは、数千を超える回答が判を押したような文面で届けられた。テレッサ・メィがブレグジットの約束履行のための確かな支持を得られず2019年に失脚したことで、この改正案は完全に棚上げとなった。

 今日、かつてないほど多くのトランスの人々がますますカミングアウトしているにもかかわらず、表象の平等と真の再分配の政治はトランスたちの手からこぼれ落ちている。トランスの人々はいまや、例えばムスリムや移民、ジプシー、ロマ、トラヴェラーのコミュニティ、BLM〔ブラック・ライヴズ・マター〕、肥満受け入れ運動(ファット・アクセプタンス・ムーブメント)、そして国家による女性への暴力に対するフェミニストの異議申し立てと並んで、右翼メディアにとっての数ある標的の1つになってしまった。これら以外の集団も含めて、そうして標的となった集団は全て、異なる価値体系の間の、有害で分断された公的係争の問題へと還元され続けてきた。トランスたちを取り巻くここ数年間の議論は、ただ有害であるのみならず、決定的に平板化されたものになっている。トランスの「トピック」は、今では繰り返し使える手頃な話題に制限されてしまっている。ノンバイナリーの人は存在するのだろうか? ジェンダー中立的な人称代名詞は道理にかなっているのだろうか? 違和を抱えて生きるトランスの子どもたちが性別移行を始めることは許されるべきなのか? トランス女性がオリンピックの女性競技を独占するようになるのではないか? そして、トイレと更衣室についての、いつまでも終わらない議論。

 こうした話題をこの本で繰り返そうとは思わない。私は、閉じた円環をなすこの終わりのない論争にトランスの人々を無理やり参加させること自体が、トランスたちを抑圧したいと願う人々の戦略であると考えている。そうした論争は、時間の無駄で、疲弊させられるだけのもの、そして私たちが本当に注力すべきことから私たちの注意を逸らすものである。これが、私たちを抑圧するための具体的なやり方である。有色の人々*7に対してまさしくこの戦略が採用されていたことを、かつて小説家トニ・モリスンはこう語った。「役割、レイシズムのまさしく深刻な役割は、注意を逸らすことです」。1975年、彼女はポートランド州立大学の学生たちにこう語った。「レイシズムは、あなたの仕事からあなたを引き離します。レイシズムは、あなたに説明させ続けます。繰り返し、繰り返し、あなたが存在している理由を説明させ続けます。(…)こんなことは、必要のないことです。そんなことより大切なことが、いつだってあるでしょうから」。ちょうどこれと同じように、トランスたちの存在についての世間の言論はねじ曲がり、進むべき道を踏み外している。

*7 「有色の人々」と訳したのは「people of color」。現在では使われなくなった「colored」という形容詞に対して、かつて「有色の」と訳す慣例が日本語圏には存在したが、本書で「有色の人々」と訳されているのは、原文では全て「people of color」である。なお、原著者であるフェイも本書で一貫して「people of color」という語を用いており、「colored」という言葉は使用していない。

 この本で、私は軌道を変えたい。いわゆる文化戦争を焚きつけたいと目論む人々によって枠づけられた議論からトランスの人々を解放し、UKとその向こうに生きるトランスたちについての、新しい、より健全な話を始めたい。この本は回想録ではない。旅行ライターのジャン・モリスが彼女の性別移行についての回想録『なぞなぞ』〔Conundrum〕を出版したのは、1974年のことである。それ以来、英国そして世界中のトランスのライターたちは、告白録の公刊に自分たちの身を狭めてしまう傾向にあった。そうした告白録は、書き手の身体の話から始まる。その身体が位置づく社会について何ほどか意見を述べるためにも、書き手自身の身体が出発点とされるのである。トランスの回想録は、トランスたちが自分たち自身を理解する際のスティグマを減らし、また脱神話化するという意味で重要なものであり続けてきたが、そうして告白し、胸中を明かすことだけが、トランスの人々が公的言論や政治的言論に加わるための権利の基礎になるべきではない。この点で私たちは、分析よりも回想録に押し込められてきた、シスジェンダー女性のライターたちと共通点を持つ。私をサポートするために、あなたは私の私生活をこと細かく知っている必要はない。「なぜか」は気にしなくていい。「何を」するかが重要だ。トランスフォビックな社会においてトランスパーソンであることは、どのような反応を引き起こすだろうか。目下のところ、非常にしばしば、それは暴力であり、偏見であり、そして差別である。

 いずれにせよ、私の個人的なストーリーは大してあなたの役には立たない。なぜなら私は、中産階級の白人のトランス女性であり、大学の学位も、友人や家族からの力強いサポートのネットワークも持っており、そんな私個人のストーリーは、トランスたちの生の大部分を代表するようなものではまったくないからである。私にこの本を書く機会をもたらしたメディアのプラットフォームは、私の社会階級、エスニシティ、そして受けてきた教育が理由で私に与えられた、まさにその特権に由来する。これは、いつでもそうだ。フェミニスト学者として、ヴィヴィアン・ナマステは20年前に次のように書いていた。「プロフェッショナルの中産階級の規範は、トランスセクシュアルが何を言うことができるか、どこで言うことができるかだけを規定するものではない。そうした規範はまた、中産階級の言論の規律を忠実に守るだろうトランスセクシュアルに対して、発言の権利を与えもする」。この本を書くにあたって私は、日常的にその声が聞かれず、論じられることもないようなトランスたちの声を響かせるための装置として、これらの特権を使うことを試みた。私の願いは、この本がトランスのテクストのなかで目下展開されている議論に貢献することである。それと同時に、トランスの手による公刊物が今よりもさらに多様になり、恵まれた資源を持つトランスのアクティヴィズム、つまりその多くがトランスではない人々によって担われている資金豊富なほんのわずかのLGBTQ+系の慈善団体にいる中産階級のプロフェッショナルたちによって実行されるアクティヴィズムに見られるヒエラルキーを崩すことなしには、トランスの解放についての議論は常に限定的なものに留まり続けるだろうことも私は理解している。

 この本を通して、シスの読者たちはトランスの人々がしばしば甘受している不平等を認識することになるだろう。その不平等は、トランスたちが個人として経験しているものでありつつ、トランスとよく似たその他のマイノリティの集団が経験しているものでもある。これは良い知らせである。トランスたちを「トランスジェンダー問題」として枠にはめることは、私たちを連帯から切断し、私たちを「他者」にする効果を持つ。新しい議論は、それゆえ必然的に、こうした疎遠な関係を解きほぐすこと、私たちが他のマイノリティや周縁化された集団と何を共有し、どこが重なり合うのかを考慮することから始めなければならない。連帯と共感、そして想像力をラディカルに働かせることなしには、私たち全員にとってのより公正で、より喜ばしい世界を私たちが作ることはできない。

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著者略歴

  1. 高井 ゆと里(たかい・ゆとり)

    群馬大学情報学部准教授。専門は倫理学。趣味は研究。著書に『極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる』(講談社選書メチエ)。

  2. ショーン・フェイ(Shon, Faye)

    イギリス・ブリストル出身。現在はロンドンを拠点に活動。弁護士としての訓練を受けた後、執筆活動やキャンペーン活動を行うために退職し、慈善団体のAmnesty InternationalやStonewallで働いている。Dazedの編集長を務めたほか、Guardian、Independent、Viceなどで執筆活動を行っている。最近、LGBTQの先駆者たちにインタビューするポッドキャストシリーズ「Call Me Mother」を立ち上げ、高い評価を得ている。本作は初の著書。

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