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トランスジェンダー問題――議論は正義のために

『トランスジェンダー問題』はなぜ翻訳されなければならないのか(高井ゆと里)

 ショーン・フェイ著『トランスジェンダー問題――議論は正義のために』は、トランスジェンダーが直面する困難を事実に基づいて取り上げるとともに、すべての人に影響する社会正義の問題として論じる、これまでに類のない書籍です。本書の日本語版の刊行によせて、訳者である高井ゆと里さん(群馬大学准教授)より、読者の皆さまへのメッセージをご寄稿いただきました。


『トランスジェンダー問題』はなぜ翻訳されなければならないのか

 このたび明石書店より『トランスジェンダー問題――議論は正義のために』の翻訳を刊行することができました。わたしは、群馬大学で哲学の研究をしている高井ゆと里です。これから、この本がなぜ日本語に翻訳されなければならなかったのか、その理由を書きます。「トランスジェンダーなんて興味ないよ」という方もいらっしゃるかもしれません。でも、少しだけお時間をください。これは、トランスジェンダーの問題ではないのです。

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 さて、いまだ世界を覆い続けている新型コロナウィルスの健康被害の荒波が改めて浮き彫りにしたのは、私たちの「健康」が、それぞれの置かれている社会環境によって大きく左右されるということでした。一時期日本でも「エッセンシャルワーカー」として称賛を浴びた、感染リスクが高くなりがちな仕事には、いわゆるケアワーカーが多く含まれていましたが、そうした労働を担う人々には女性が多く、また(とりわけ欧米では)有色の人々や移民の人々が多いことが知られています。公衆衛生(public health)の問題は、ですから社会を満たす差別や不正義の視点抜きには決して理解することができません。

 ここで、1つのデータを紹介させてください。2019年に18~59歳の市民15,000人を対象として行われた「大阪市民の働き方と暮らしの多様性と共生にかんするアンケート」では、深刻な心理的苦痛を感じている可能性のあるトランスジェンダーの割合が18.8%に上ることが明らかになりました。この数字は、シスジェンダーの異性愛者では6.9%ですから、平均的な集団の2倍以上になります(「シスジェンダー」とは、トランスジェンダーでない人のことを指します)。また、2017年にイギリスの慈善団体ストーンウォールが行った調査では、若いトランスジェンダーの45%に少なくとも1度自殺を試みた経験がありました。2011年にアメリカで6000人以上のトランスジェンダーを対象に行われた調査でも、自殺未遂を経験したことのある人の割合は4割を超えています。

 これが、「トランスジェンダー問題」です。トランスジェンダーの人々は、集団としてメンタルヘルスの危機にあります。その要因は多岐にわたり、決して1つの原因に還元することはできないでしょう。もちろん、トランスジェンダーの中でも様々な状況の人がいます。しかし、こうしたメンタルヘルスの問題抜きに、トランスジェンダーの人々が置かれている状況を理解することはできません。

 そして、もしあなたがメンタルヘルスや公衆衛生の問題に関心を持っているのなら、お願いがあります。ぜひ「トランスジェンダーの問題」にも関心を向けてください。健康は平等には分配されていません。その不平等な健康格差に興味を持つすべての人と、わたしはこの問題を一緒に考えたいです。それがトランスジェンダーだけの問題ではないことを、皆さんはご存じでしょう。しかし、これはトランスジェンダーの問題でもあります。

 同じように、もしあなたが資本主義の生み出す経済格差に関心を持つのなら、ぜひ「トランスジェンダーの問題」にも関心を持ってください。多くのデータが示しているように、トランスジェンダーは貧困をとても経験しやすいです。「トランスジェンダーは雇いたくない」という雇用者が多いことも分かっています。日本で2020年に行われた調査では、過去1年間で貯金の総額が1万円を切ったことのあるトランスジェンダーの割合が3割を超えていました。トランス女性に限ると、その数字は45%近くになります。

 労働や貧困の問題が、学歴差別や性差別の問題であることはよく知られています。ジェンダーや階級の視点を抜きにして、貧困の問題を理解することはできません。それと同じように、社会がシスジェンダー中心主義的にできているという、トランスの人々が経験している抑圧の構造を見ることなくして、やはり貧困の問題を十分に捉えることはできません。貧困は確かに、「トランスジェンダーだけの問題」ではありません。しかしそれは、「トランスジェンダーの問題」でもあるのです。

 あと少しだけお時間をください。もし、あなたがこの国の非人道的な入管制度、そして、より広く国家による暴力に心を痛めているなら、どうかそれが「トランスジェンダーの問題」でもあることを理解してください。自身がトランスジェンダーであることを理由に国家から迫害され、国を去らなければならない人が世界中にいます。トランスジェンダーであることを理由に国を追われ、今度は移動した先の国の入国管理局で、トランスジェンダーであることを理由に虐げられる、そうした経験をするトランスの人々が世界中にいます。

 日本にも、様々な理由で外国から移り住み、暮らすトランスジェンダーの人々がいます。そうしたトランスの人々は、日本人のトランスジェンダーと同様に、あるいはそれ以上に、警察からのハラスメントに脅えなければならないでしょう。なぜなら、パスポートなどの公的な書類に登録された性別と、自分自身の存在が何らかの意味で「食い違っている」事実は、それだけで警察からの望まない注意を惹きつけてしまうからです。

 皆さんは、入管でトランスジェンダーの人々がどんな扱いを受けているか、少しでも想像したことがあるでしょうか。何も悪いことをしていないのに他の収容者から過剰に隔離されたり、恒常的に服用し続けてきたホルモン剤を奪われて心身の健康を大きく損なったりしているトランスジェンダーの被収容者の状況を、想像したことがあるでしょうか。

 入管や警察は、国家の名を借りて国境その他の境界を管理しています。先にも触れた通り、「男・女」の境界を管理する(policing)という機能も、警察は持っています。もし、あなたがそうした国家による暴力に関心を持っているなら、どうかトランスジェンダーの人々のことにも思いを向けてください。国家暴力は、トランスジェンダーだけの問題では決してありません。しかしそれは、トランスジェンダーの問題でもあるのです。

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 皆さんは「トランスジェンダー」と聞いて、どんな人々を思い浮かべますか。あなたが想像するトランスジェンダーの人たちは、どんな「問題」に悩んでいるでしょう。あるいはもしかすると、トランスジェンダーの人たちは社会にとっての「問題」を引き起こす、そういう風に思っている方もいるかもしれません。

 確かに、トランスジェンダーの人たちはとても数が少ないです。人口の1%にもはるかに届きません。社会の多くの人にとってはリアリティのない困りごとに苦しんでいるトランスの人も、確かに多いです。(その代表は、性別移行や身体治療に直接関連する困りごとです)。しかし、これまで書いてきたように、トランスジェンダーの人々を苦しめている「問題」は、実はとてもありふれたものです。それは決して「トランスジェンダーだけの問題」ではない。

 わたしが『トランスジェンダー問題』を翻訳したのは、その事実を日本の皆さんに知ってほしかったからです。トランスジェンダーという、極めて数の少ない人々を苦しめ、悩ませている「問題」が、他のマイノリティの人々を顕著に苦しめる「問題」と同根であること、その意味でトランスジェンダーの政治(ポリティクス)は幅広い社会運動とつねに連帯可能であることを、知ってほしかったからです。

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 ここ数年、TwitterなどのSNSを中心に、トランスジェンダーの人々への無理解や偏見に基づく、粗雑で差別的な議論が増加しています。とても悲しいことではありますが、そうしてトランスの人々の現実を無視して投げ捨てられた(差別)言説を機に、トランスジェンダーという存在に意識が向かうようになったという方も少なくないでしょう。

 そうした方に、ぜひ理解してほしいことがあります。「トランスジェンダー」という存在を、あたかも社会にとっての「問題」事象として殊更に取り上げるとき、結果として私たちはどんな「問題」から目をそらす結果になっているでしょうか。トランスの人々がどんな葛藤を抱え、どんな困りごとに悩まされ、周囲の人々に対してどんなに心細い説得や交渉をしているか。その現実を無視して投げ捨てられる、センセーショナルで粗暴な言説に多くの人の感情が動員されているとき、どんな「問題」が覆い隠されることになっているでしょうか。そのことを理解してください。

 『トランスジェンダー問題』を読み、ぜひ考えるべき本当の「問題」の所在を知ってください。いつまでもトイレや更衣室やスポーツの話題ばかりに押し込められているトランスの人々が、どんな社会的現実を生きているか、知ってください。本当に議論すべき「問題」がどこにあるか、知ってください。そして、この本の掲げる社会正義が、トランスの人々に限られない、全ての人のための正義であることを知ってください。

 議論は正義のために。わたしが訳したこの本の副題です。自信をもって、本書を皆さんのもとに届けます。ボールはあなたの手にあります。

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著者略歴

  1. 高井 ゆと里(たかい・ゆとり)

    群馬大学情報学部准教授。専門は倫理学。趣味は研究。著書に『極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる』(講談社選書メチエ)。

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